第81話 覚悟
「……ばかなことを」
その言葉は、独り言に近かった。
観客席の奥。
協会長は、モニターから目を離さずに呟く。
理由は説明できない。
だが確信だけはあった。
――享楽伝から、扉の気配が消えた。
⸻
夢幻高校側。
柚木運命は、無意識に一歩、前に出ていた。
副将戦。
盤面は、拮抗している。
享楽の操作は、いつも通りだ。
正確で、無駄がなく、堅実。
……なのに。
(……見えない)
今まで、確かに“そこにあったはずのもの”が、
どこにも感じられなかった。
未来の輪郭。
選択の先。
それらが、
急に、霧に覆われた。
(……放棄、した?なぜ?)
運命は、口に出さない。
確かめることもしない。
ただ、
背筋に冷たいものが走った。
⸻
晴谷は、何も言わなかった。
モニターを見つめ、
享楽の立ち位置を確認する。
(……新しい未来を作ったか)
それだけで、
世界は歪む。
⸻
副将戦は、続いている。
凛は、まだ何も知らない。
ただ、
ボタンを握る手に、力が入らなかった。
(……決まらない)
一手。
また一手。
正しい。
全部、正しい。
合宿で繰り返した動き。
再現性も、成功率も、問題ない。
それなのに――
終わらない。
勝てるイメージが湧かない。
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
(……なんで)
⸻
凛の意識は、扉の内側へ落ちていた。
そこは、階段だった。
白く、均一で、
どこまでも続く階段。
一段、上る。
また一段。
息は乱れない。
足も、止まらない。
それでも。
(……変わらない)
振り返っても、同じ景色。
見上げても、同じ段差。
上っているはずなのに、
進んでいる感覚がない。
(……私、どこにいるの)
もう一段。
――同じ。
胸の奥が、ざわつく。
(計算は、合ってる)
(正しい手しか選んでない)
自分に言い聞かせる。
でも、
階段は、何も答えてくれない。
(……このまま?)
その考えが、
初めて、凛を怖がらせた。
⸻
そのとき。
階段の“外”から、
声がした。
軽くて、
場違いで、
でも、不思議と届く声。
「ねぇ優等生」
凛は、はっと顔を上げる。
詠だった。
階段の途中で立ち尽くす凛を、
不思議そうに見ている。
「階段ってさ」
一拍。
「横に上がったら、だめなの?」
⸻
意味が、分からなかった。
凛は、すぐに反論しようとした。
(階段は、上がるもの)
(横に行ったら、進んでない)
理屈なら、いくらでも出る。
でも。
階段の中の凛が、足を止めた。
(……横?)
考えたわけじゃない。
ただ、
“同じ場所にいる感覚”が、
どうしようもなく嫌だった。
横に一歩踏み出したとき、一瞬”なにか”に触れた。
⸻
現実。
凛の指が、
ボタンを押した。
迷いは、ない。
持ち上げない。
狙わない。
ただ、
触れた。
アームが、
箱の側面を撫でる。
横に上げながら
――ズレる。
”理のスライド”
次の瞬間。
ゴトン。
⸻
音が、遅れて届いた。
凛は、一瞬、理解できなかった。
盤面を見る。
獲得口を見る。
(……え)
次の瞬間、
歓声が、世界を揺らした。
⸻
凛は、立ち尽くしていた。
考えていない。
計算もしていない。
ただ――
一歩、踏み外した。
胸が、苦しい。
でも、
不思議と、息がしやすい。
⸻
凛は、ゆっくり拳を握った。
掌の中で、
萌えたん御守りが、温かい。
隣で、
舞子が跳ねている。
「凛……!」
その声で、
ようやく実感が追いついた。
(……勝ったんだ)
⸻
夢幻高校側。
運命は、動けなかった。
(……見えなかった)
想定した未来に、
今の一手は、なかった。
⸻
享楽は、凛を見ていた。
心の声は、聞こえない。
それでも。
凛が、
階段から一歩、外へ出たことだけは、
はっきり分かった。
⸻
副将戦、決着。
勝者:トレ高 雨瑠 凛。




