第80話 拮抗
盤面は、動いていなかった。
副将戦は続いているはずなのに、
時間だけが、奇妙に引き延ばされている。
雨瑠凛、享楽伝。
2人の実力は高い位置で拮抗していた。
そんなとき享楽伝は、ボタンから手を離したまま、
ふと、昔のことを思い出していた。
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享楽は、幼い頃から
”人の心の声”が聞こえた。
期待。
嫉妬。
軽蔑。
打算。
言葉にされる前の感情が、
濁った音として頭に流れ込んでくる。
父の心は、冷えていた。
母の心は、空虚だった。
家に集まる大人たちは、
金と肩書きのことしか考えていなかった。
それが「普通」だと思っていた。
世界は、こんなものだと。
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中学のある日。
校舎裏で、タバコの煙が揺れていた。
不良として有名な男――
織田拳。
目が合った瞬間、
享楽は反射的に逃げようとして、捕まった。
「はい共犯」
そう言って、織田は笑った。
煙を吐きながら、
どうでもよさそうに笑った。
そのときだった。
――嫌な音が、聞こえなかった。
織田の心の声が、
不快にならなかった。
享楽は、驚いた。
そして、気づけば笑っていた。
理由は分からない。
ただ、安心した。
初めて、
“分からない相手”と一緒にいられた。
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二人でつるむようになった。
悪いこともした。
くだらないこともした。
その中で、
織田が誰かを好きになった。
柚木運命。
「告白したほうがいい?」
享楽は、運命の心の声を聞いた。
澄んでいた。
曇りがなかった。
だから言った。
「いける」
織田は告白し、
三人でつるむようになった。
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ある日、ゲームセンター。
織田は必死にクレーンゲームをやっていた。
取れない。
焦って、台を揺らした。
振動で、ぬいぐるみが落ちた。
近くで見ていた女の子が、
目を輝かせた。
運命は、迷わずそのぬいぐるみを拾い、
女の子に渡した。
そして、織田を叱った。
「それ、ダメだから」
正しい声だった。
織田は苦笑いしながら、
それでも嬉しそうだった。
享楽は、その光景を見ていた。
心の声は、
相変わらず澄んでいた。
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雨の日だった。
織田がバイクで迎えに来た。
高校の話をした。
部活の話をした。
「クレーンゲーム部とか、どう?」
享楽が答える前に、
甲高いブレーキ音が響いた。
視界が、暗くなった。
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病院で目を覚ましたとき、
享楽は生きていた。
織田は、死んだ。
葬式の日。
泣きながら話しかけてきた運命の声を、
享楽は聞くのが怖かった。
聞いたら、壊れてしまいそうだった。
それでも――
聞こえてきた心の声は、
本当に享楽を心配していた。
だが、ほんとに壊れてしまいそうなのは
運命のほうだった。
その瞬間、
享楽は誓った。
この人のそばから、離れないと。
なにがあっても自分が守ると。
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でも、分かってしまった。
心の声が聞こえるからこそ、
気付いてしまう。
離れる未来。
壊れる未来。
失う未来。
おれだけ分かっているまま、
そばにいるのは――
卑怯だ。
織田の隣にいたとき、
享楽は何も分からなかった。
それでも、笑っていた。
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現在。
副将戦の盤面は、まだ動いていない。
神咲の声が、遠くで聞こえる。
「……使えば、勝てるんじゃ」
運命は、何も言わない。
享楽は、
自分の内側に立っていた。
そこには、扉がある。
人の心が聞こえる才能。
傷つかないための力。
その向こうに、
楽な未来が見えている。
享楽は、扉に手をかけた。
そして、静かに言った。
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「放棄する。」




