第75話 もう言葉はいらない
寸胴は、最後まで崩れなかった。
寸胴姫歌の操作は、
一手ごとに無駄がなく、
失敗を前提にしていない。
アームは迷わず、
箱は確実に“取れる位置”へと近づいていく。
——ああ、これだ。
舞子は歯を食いしばった。
フィギュアスケートの大会で、
何度も味わった空気。
一位と二位の背中が、
遠ざかっていく感覚。
氷の上では、
いつも決まっていた。
一位、雨瑠凛。
二位、銀泉舞子。
三位、寸胴姫歌。
”永遠の三番手”からの視線を
舞子は今、初めて真正面から受けている気がした。
刺し回し。
狙いは悪くない。
けれど、
ほんのわずか、足りない。
「……っ」
指先に走る痛み。
血豆。
合宿の夜。
誰もいない時間。
——積み上げてきた。
——それでも、正解は遠い。
そのときだった。
「違う!!」
背後から、張り裂けるような声。
「舞子!!
そこじゃない!!」
凛だった。
「私を見るな!!」
一瞬、世界が止まる。
「そんな場所、
もう、見なくていい!!」
舞子の肩が、わずかに震えた。
——見ていた。
ずっと。
氷の上で、
誰よりも綺麗に跳ぶ背中。
でも。
血豆を作ったのは。
回転の感覚を指に刻んだのは。
クレーンゲームを続けてきたのは。
全部、自分だ。
舞子は、静かに息を吐いた。
視線を上げる。
対戦台の向こう。
寸胴姫歌は、黙ってこちらを見ていた。
追いかけてきた人間の目。
舞子は、何も言わない。
言葉は、もう要らなかった。
足の位置を、ほんの少し変える。
フィギュアで、
回転に入る直前の感覚。
——”シングル”
アームが、角を押す。
——”ダブル”
箱が、回る。
——”トリプル”
橋が、きしむ。
会場が、息を呑む。
——”クワッド”
迷いはない。
箱が、反対側へ激しく回転する。
——ゴトンッ!!
一瞬の静寂。
次の瞬間。
割れるような拍手。
立ち上がる観客。
止まらない歓声。
実況の声は、
その中に溶けていった。
寸胴は、
台を見つめたまま、
静かに息を吐く。
——また届かなかった。
それだけで、
十分だった。
勝利の瞬間、舞子は、
何も言わない。
凛に勝てるかどうか……
どうでもよくなったことを、
スタンディングオーベーションが代弁してくれた。
⸻
トレ高ベンチ。
凛は、
力が抜けたように座り込む。
舞子は、振り返らない。
それでも、
その背中は、確かに前を向いていた。
⸻
アナウンスが、遅れて響く。
「次鋒戦、勝者——
トレ高・銀泉舞子!!」
拍手は、
しばらく止まらなかった。
——努力は、ここに在った。




