第61話 破壊の扉
――詠回想
朝は嫌いだ。
眠いし、寒いし、世界が静かすぎる。
賭良詠は、自転車を止めて新聞を束から抜き取った。
手際は早い。慣れている。
部活に入らなかった理由も、誰にも言わなかった理由も、全部ここにある。
「おはよう、賭良詠さん」
声をかけられて、詠は眉をひそめた。
振り返ると、制服姿の女子が立っていた。
姿勢がいい。視線が真っ直ぐ。
――なに、こいつ。
「……誰」
「生徒会長の雪平杏。全校生徒、顔と名前は覚えてるの」
さらっと言い切るその感じに、詠は鼻で笑った。
「はっ。
変わった狂い方だな♡」
雪平は気にしない。
むしろ、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「やっぱり。
賭良さん、普通じゃない目をしてると思った」
「褒めてないでしょ、それ」
「褒めてるよ。すごく」
次の日も、雪平はいた。
その次の日も、そのまた次の日も。
詠が新聞を配るルートの角。
自販機の前。
マンションの裏手。
「……しつこ」
「偶然だよ。毎朝偶然」
「偶然が連続すると、それはもう事件なんだけど」
ある朝、雪平は言った。
「新聞配達、手伝う」
「は?」
「その代わり、空いた時間にクレーンゲーム。一緒に行こう」
詠は一瞬、言葉を失った。
そして、口角を上げる。
「……いいよ。
どうせ暇だし」
久しぶりのクレーンゲームだった。
部活の練習台。
見慣れた景品。
でも、詠の手は――いつも通りじゃなかった。
アームを斜めに当て、
押し、回し、
正攻法を無視して、景品を“崩す”。
「……」
周りの部員が、ざわつく。
「え、なに今の」
「そんな取り方ある?」
「危なくない?」
雪平だけが、目を輝かせていた。
「……ねえ」
詠が振り返る。
「詠って、変わったやり方するね!
見てて、すごくわくわくする!」
「……そう?」
「誰に教わったの?」
「誰にも。
勝手にやってたら、こうなっただけ」
部員たちが集まってくる。
質問が飛ぶ。
視線が集まる。
詠は一歩、引いた。
そのとき――
少し離れた場所で、雪平と目が合った。
押し付けない。
引き留めない。
ただ、そこにいる。
(……あぁ)
詠は思う。
(チームプレイなんて、柄じゃないんだけど)
でも。
(このチームは――
なんか、居心地がいい)
現在
副将戦は、拮抗していた。
凛の一手一手が、
確実に盤面を積み上げていく。
それを見つめる詠の目は、
いつの間にか、ギラつきだけではなくなっていた。
(……このままじゃ)
胸の奥が、ざわつく。
中学の頃なら、
こんな感覚はなかった。
勝っても、負けても。
壊しても、壊せなくても。
どっちでも、脳汁は出た。
でも――今は違う。
視界の端で、
かもめ高校の仲間たちが見える。
派手な詠に最初は戸惑っていた一年生。
恐る恐る見ていた二年生。
初めから受け入れた雪平。
誰一人、詩から目を逸らしていない。
逃げ場がない。
――いや。
居場所が、ある。
「……」
詩は、息を吸った。
その瞬間。
胸の奥で、
何かが軋む音がした。
ずっと、閉じてきた場所。
破壊の扉。
そこには、
何重にも鎖が巻きついている。
自分で、縛った。
壊しすぎないために。
楽しめなくなるのが、怖かったから。
けれど今――
(雪平に……繋ぎたい)
その想いが、
初めて“快感”を上回った。
鎖が、一本、外れる。
続けて、二本、三本。
鍵が、音を立てて落ちた。
破壊の扉が、初めて開く。
詠の周囲に、
禍々しい気配が溢れ出した。
空気が、重い。
「……なんだ、これ」
観客席が、ざわつく。
協会長の額に、汗が浮かんだ。
「……まさか」
晴谷も、無言で息を詰める。
詠の一手。
アームが降りる前から、
台が悲鳴を上げた。
ミシ、ミシ、と。
橋渡しの橋が、
耐えきれずに軋む。
次の瞬間。
――バキン。
橋が、折れた。
景品が、
重力に引かれるまま、落ちる。
「え……?」
「今の、何?」
「勝手に取れた……?」
会場が、どよめく。
「先生!」
針千が、思わず叫んだ。
「……あれ、ありなんすか?」
間髪入れずに続ける。
「獲得無効!」
審判の判断
橋のバーを交換しての再開。
詠は、笑っていない。
ただ、必死だった。
繋がなきゃ。
その破壊は、
台の外にまで波及する。
凛の視界が、揺れた。
――扉の中。
終わりの見えない階段が、
軋み始める。
(……来る)
次の瞬間、
段が、崩れ落ちた。
「……っ!」
凛は、歯を食いしばる。
止まれない。
立ち止まったら、
ここまで積み上げたものが、
全部、崩れる。
凛は、走った。
一段。
また一段。
背後で、階段が崩れていく。
それでも。
上へ。
必死に、必死に。
副将戦の残り時間が、
無情に削られていく。
詠は、知ってしまった。
――怖い。
負けるのが。
自分が負けて、
雪平に繋げない未来が。
その恐怖が、
破壊を、鈍らせる。
壊しきれない。
追い詰めきれない。
そして。
ブザーが、鳴った。
副将戦、終了。
静寂。
次いで、アナウンス。
「――勝者。
トレトレ高校、雨瑠凛」
準決勝進出、トレ高。
凛は、深く息を吐いた。
詠は、
その場に立ち尽くしていた。
破壊の扉は、確かに開いた。
けれど――
その力は、
恐怖に縛られていた。
遠くで、
雪平が、静かに詠を見ていた。
責める顔じゃない。
誇らしげでもない。
ただ、
成長を見届けた者の目だった。
賭良詠は、負けた。
でも。
壊すだけの人間では、
もうなかった。




