第52話 声にならない
―― 1年前
その日、教室は少しだけ静かだった。
放課後。
窓から入る風が、カーテンを揺らしている。
豚田武は、黒板の前に立っていた。
手の中にある封筒は、何度も開いては閉じたせいで、少しだけ角がよれている。
書いた文字は短い。
けれど、それを書くのに、何日もかかった。
(……今なら)
誰もいない。
笑われない。
邪魔されない。
そう思った、その瞬間だった。
――がらり。
扉の音。
「あ、なにそれ」
声に振り向くと、財前ロリ子が立っていた。
後ろには、クラスメイトが数人。
豚田の喉が、きゅっと縮む。
「……それ」
ロリ子は、迷いなく近づいてくる。
「ラブレター?」
ひょい、と封筒を取る。
「うわ、重っ」
「や、やめ……」
止める言葉は、最後まで出なかった。
紙が引き抜かれ、
視線が走り、
一瞬の沈黙。
「……はぁ?」
ロリ子は、心底不思議そうな顔をした。
「好きです、って」
読み上げる。
「誰が?」
誰かが言った。
「え、豚田?」
「マジ?」
笑い声が、広がる。
ロリ子は、肩をすくめた。
「冗談きついんだけど」
そう言って、黒板に歩く。
磁石で、紙を留める。
「みんな見て」
楽しそうに。
「これ、告白だって」
笑いが、弾けた。
豚田は、その場で動けなかった。
怒鳴りたかった。
やめてほしかった。
恥ずかしかった。
でも。
どの感情も、言葉にならなかった。
ただ。
胸の奥で、何かがすっと引いていく感覚だけがあった。
⸻
それからの日々は、静かだった。
暴力を振るわれたり、物を隠されたり
イジメられることはなかった。
ただ、少し距離ができた。
「……あのさ」
「この前のさ」
言いかけて、やめる声。
笑われる前に、笑う。
からかわれる前に、冗談にする。
「別にいいブヒ」
その言葉が、癖になった。
家でも、同じだった。
「学校どう?」
母の問い。
「……普通、ブヒ」
それ以上、聞かれない。
それで、助かった。
夜、鏡の前に立つ。
どんな顔をしていたのか、
よく分からなくなっていた。
(……別に)
(感じなくても、困らない)
そう思うことで、全部が楽になった。
⸻
駅前の掲示板。
何気なく見た、一枚のポスター。
萌たん LIVE TOUR。
派手な色。
笑顔。
(……アイドル)
興味は、ない。
好きでもない。
ただ。
(……何も感じないし)
それが、理由だった。
⸻
会場は、眩しかった。
暗転。
光。
音。
思わず、肩がすくむ。
「萌たーーーん!!」
周囲の声に、圧倒される。
(……帰ろうかな)
そう思った瞬間。
曲が始まった。
リズム。
一定のテンポ。
体が、勝手に揺れた。
「初めて?」
隣の人が、笑って声をかけてくる。
「……はい、ブヒ」
「じゃ、こう」
ペンライトを振る。
「タイミング、これ」
トン。
トン。
手を動かす。
考えなくていい。
説明しなくていい。
ただ、音に合わせる。
「……あ」
声が、出た。
自分でも、驚いた。
叫びでも、言葉でもない。
ただの、声。
でも。
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
誰も、笑わなかった。
誰も、止めなかった。
ただ、一緒に振ってくれた。
(……ここなら)
(出して、いい)
それだけで、十分だった。
⸻
ライブが終わる頃。
汗をかいて、
喉が少し痛くて、
でも。
久しぶりに、
「楽しかった」と思った。
帰り道。
夜風が、気持ちよかった。
(……また、行こう)
その感情を、
言葉にする必要はなかった。
大切なのは、
感じられたこと。
⸻
現在。
1回戦中堅戦
名前が、呼ばれた直後。
豚田は、深く息を吸った。
「……ブヒ」
胸の奥に、あのリズムがある。
トン。
トン。
言葉はいらない。
感情は、もう閉じていない。
ただ、まだ
声にしていないだけだ。




