第46話 好きだから
朝の空気は、少しだけ澄んでいた。
合宿所の窓から見える山の稜線。
昨日までのざわつきが、嘘みたいに静かだ。
部室代わりの広間には、片アームのクレーンゲームが一台。
逃げ場のない配置。
「じゃ、再開」
晴谷の一言で、空気が切り替わる。
「今日は“昨日の続き”だ」
⸻
最初に立ったのは、凛だった。
不規則箱。
中で重心が動き、予測を拒む音がする。
一手目。
外れる。
二手目。
修正。
――止まる。
凛は、深く息を吸った。
(閉じるな)
三手目。
計算しきれない。
それでも、手は迷わない。
ゴトンッ
――落下。
小さな音。
「……取れた」
凛自身が、一瞬だけ驚いた顔をした。
晴谷が頷く。
「今のは、理論じゃないな」
「……はい」
「でも」
続ける。
「扉、閉じてない」
凛は黙って筐体を見つめる。
開いたまま、耐えた。
⸻
「次、沙希」
「はーい」
沙希は筐体の前に立つ。
いつも通りの距離。
いつも通りの構え。
――なのに、手が止まる。
「……浅い」
「え?」
針千が聞き返す。
「海」
沙希は苦笑した。
「扉の中は、海だった」
一歩、前に出る。
いつもより、深く。
一手目。
――失敗。
「うわ」
「珍しい」
沙希は笑わなかった。
「……もう一回」
二手目。
躊躇が消える。
ゴトンッ
――落下。
沙希は息を吐いた。
「……冷たい」
「何が?」
「海」
でも、足は引いていなかった。
⸻
舞子は、静かに筐体の前に立つ。
昨日と同じ箱。
同じ角度。
刺す。
押す。
――クルッ。
落下。
再現。
「……安定してきましたわ」
晴谷が、少しだけ笑う。
「集中できてるな!」
「はい」
舞子は頷いた。
視線が、凛に向く。
それでも、目線は箱に戻る。
⸻
豚田は、少し離れた場所で立ち尽くしていた。
景品棚。
そこにある箱。
――『萌たん』。
見慣れた色。
何度も画面で見てきたアイドル。
「……俺」
声が小さい。
「……あれ」
喉が鳴る。
「取りたいです」
針千が振り向いた。
「え?」
「……ブヒ」
深呼吸。
「俺、あれ……取りたいです」
凛が、静かに聞く。
「理由は?」
豚田は、少し考えてから答えた。
「……好きだから」
それだけだった。
「いいじゃん」
沙希が言う。
晴谷が、豚田の隣に立つ。
「真似しなくていい」
「……はい」
「見るのは、重心」
「でも」
一拍置いて。
「考えるより感じる」
「……感じる?」
「うん」
豚田は筐体の前に立った。
姿勢が、少し変わる。
背中が伸び、
指先が、自然に動く。
――トン、トン。
一定のテンポ。
まるで、オタ芸のペンライトみたいなリズム。
(……いつもの感じ)
一手目。
ズレる。
二手目。
引っかかる。
三手目。
止まる。
指先が、同じ間を刻んでいる。
トン。
トン。
トン。
呼吸と、操作が合う。
「……なんか」
針千が小声で言う。
「ノってない?」
四手目。
角度が、変わる。
五手目。
――落下。
小さな音。
「……取れた?」
豚田の声が、震える。
「取れてる!!」
針千が叫ぶ。
「……ブヒ」
笑っているのか、泣いているのか分からない顔。
でも、はっきりしていた。
プレイしている顔だった。
⸻
針千が、ゆっくり晴谷を見る。
「……あの」
「ん?」
「今の豚田のやつ」
「……あぁ」
「……あれって」
一拍。
「扉っすよね?」
「もう、開いてません?」
全員の視線が、晴谷に集まる。
晴谷は、少し考えてから言った。
「……さあな」
「え?」
「分からん」
「分からん!?」
針千が叫ぶ。
「今まであんなに説明してたのに!?」
晴谷は、肩をすくめた。
「理屈に当てはめられるなら」
「それはもう、武器じゃない」
一拍。
「たぶん、あれは」
豚田を見る。
「まだ名前がついてない」
「……ブヒ?」
「その反応で十分だ」
⸻
すきは、少し離れた場所から全員を見ていた。
理論。
安定。
執着。
リズム。
(……扉って)
名前がつく前に、
もう人を動かすもの。
(……順番じゃない)
強さの順番でも。
開く順番でもない。
踏み出した順番だ。
晴谷が、全員を見て言う。
「いいな」
「今日」
少しだけ声が低くなる。
「全員、一歩は踏み出してる」
合宿所の空気が変わる。
重さでも、圧でもない。
熱だった。
合宿は、まだ続く。
でも。
もう誰も、
立ち止まってはいなかった。




