第45話 きっかけ
消灯時間を過ぎた合宿所は、驚くほど静かだった。
遠くで、虫の声だけが聞こえる。
廊下の灯りは落とされ、部屋のドアはすべて閉まっている。
――はずだった。
⸻
ロビーの隅。
カーテンの影で、筐体が淡く光っている。
舞子は、そこにいた。
手には、薄い手袋。
指先は、すでに赤く腫れている。
「……もう一度」
横に立った箱。
角。
狙いは、そこだけ。
アームが降りる。
――弾く。
――ずれる。
――動かない。
「……っ」
歯を食いしばる。
(違う)
凛の顔が、頭をよぎる。
氷の上の姿。
迷いのない回転。
「……違いますわ」
舞子は、首を振った。
(見ているのは、あの人じゃない)
目の前の箱。
角。
“回る余地”。
もう一度。
角に、刺す。
押す。
――ギィ。
わずかな抵抗。
「……?」
舞子の目が見開かれる。
押した反対側が、
クルッと回った。
景品が、落ちる。
――カタン。
音が、やけに大きく響いた。
舞子は、しばらく動けなかった。
「……回った?」
心臓の音が、うるさい。
指先が、熱い。
手袋を外すと、血豆が潰れていた。
それでも。
視線は、箱から離れなかった。
(……ここだ)
胸の奥で、何かが形になる。
それは、凛でも、氷でもない。
回転。
自分だけの。
⸻
翌朝
凛は、箱を前に立っていた。
中で、重心が動く音。
「……」
一手目。
予測。
操作。
――外れる。
二手目。
修正。
――ズレる。
三手目。
理論は、合っている。
それなのに。
「……閉じるな」
無意識に、呟いていた。
箱が、また動く。
計算が、追いつかない。
凛は、深く息を吸った。
(不確定……)
それでも、手を止めない。
閉じない。
閉じない。
結果は、まだ出ない。
だが。
逃げてもいなかった。
⸻
ロビーの片隅。
すきは、椅子に座っていた。
手は、膝の上。
触らない。
ただ、見る。
舞子の手応え。
凛の修正。
沙希のバランス。
(……同じ台でも、違う)
視線の置き方。
迷い方。
踏み込む瞬間。
(扉って……)
開く音は、聞こえない。
でも。
前に立つ感じだけは、分かる。
⸻
「……ブヒ」
声がした。
豚田だった。
「眠そう大丈夫?」
「……眠れなくて」
筐体を見る。
「俺」
小さく言う。
「真似しようとしてました」
「誰の?」
「……みんなの」
すきは、首を振った。
「やめたほうがいい」
「……ですよね」
豚田は、苦笑した。
「でも」
続ける。
「今日は、それでいい気もして」
視線は、景品棚。
そこに、見慣れない箱があった。
――『萌たんハイクォリティフィギュア』
豚田の目が、止まる。
「……あ」
声が、震えた。
「……あれ」
言葉が、続かない。
すきは、黙ってそれを見ていた。
(……動機)
初めて、はっきりとしたもの。
⸻
翌朝。
「……ちょっと待って」
針千が、舞子の手を見て固まった。
「血豆?」
「ええ」
「クレーンゲームで!?」
「集中すると、こうなりますの」
「ボタン押すだけじゃないの!?」
舞子は、何も言わなかった。
ただ、筐体を見る。
昨日と、同じ角。
昨日と、同じ距離。
アームが降りる。
刺す。
押す。
――クルッ。
落ちる。
全員が、息を呑んだ。
「……今の」
沙希が言う。
「技?」
舞子は、静かに頷いた。
「偶然では、ありませんわ」
凛が、舞子を見る。
初めて。
箱のほうを見ている目だった。
晴谷は、少し離れた場所で笑った。
練習はうそをつかない




