第197話 一条零
中学三年、冬。
体育館の床を踏むたび、
音が整然と反響する。
キュッ。
キュッ。
そのリズムを、
一条零は無意識に数えていた。
一定ではない。
床の歪みでわずかに変わる。
シューズの擦れ方で音の高さが違う。
(左側の床は、少し高い)
誰にも言ったことはない。
言っても理解されないと分かっている。
零は、音の違いを“見て”いた。
⸻
「零、頼むぞ」
監督が肩を叩く。
「お前がいれば優勝だ」
チームメイトが笑う。
「今日は30点な」
「手加減すんなよ」
零は短く頷く。
当然の言葉だった。
エース。
絶対的得点源。
県内屈指。
高校スカウトも来ている。
そして今日は——
祖父母が来る。
離れて暮らす両親も。
他県の中学へ推薦入学し、
寮生活を始めて三年。
一度も試合を見せられなかった。
(今日、見せる)
アップのボール音が響く。
ドン。
ドン。
ドン。
革の張り。
空気圧。
床の返り。
完璧だ。
零は静かに息を吐いた。
⸻
スタメン発表。
名前が呼ばれていく。
ガード。
フォワード。
センター。
最後の名前。
そこに、
自分の名前はなかった。
一瞬、
音が消えた。
代わりに聞こえたのは、
観客席のざわめき。
「え?」
「なんで?」
「零じゃないの?」
ベンチに目を向ける。
監督の息子が、
コートに立っていた。
零は、
何も言わなかった。
問いかけもしない。
ただ理解した。
(そうか)
⸻
試合は崩れた。
パスは乱れ、
ディフェンスは抜かれ、
シュートは外れる。
ドリブルのリズムが狂っている。
足音が揃っていない。
呼吸が合っていない。
耳障りだった。
スコア差が開く。
観客席の奥。
祖父が立ち上がり、
また座った。
⸻
残り五分。
「交代だ」
思い出作りのように、
ベンチメンバーが呼ばれる。
零の名前も呼ばれた。
コートへ入る。
床の音が戻る。
キュッ。
キュッ。
(遅い)
残り十秒。
ボールが回ってくる。
祖母が手を合わせているのが見えた。
ドリブル一つ。
踏み込み。
ジャンプ。
世界が静まる。
ブザーのカウント。
4
3
2
1
ぱすっ。
ネットを抜ける音。
その音だけが、
異様なほど鮮明に響いた。
観客の声は遠い。
試合終了。
大差負け。
祖父母は拍手していた。
だが零の耳に残ったのは、
歓声でも、
悔しさでもなく、
ぱすっ
という音だった。
軽すぎる。
空虚な音。
勝利ではない音。
意味のない成功の音。
その音は、
鼓膜の奥に焼き付いた。
⸻
翌日。
部室は静かだった。
ロッカーを開け、
シューズを袋に入れる。
背後で声。
「お前のせいで負けたんだよ」
振り返る。
監督の息子。
取り巻きの笑い。
「エース気取り」
「出ない方がマシだったな」
ボールが投げられる。
胸に当たる衝撃。
床に落ちたボールが跳ねる。
ぱん。
ぱん。
音が不快に響く。
誰も止めない。
誰も視線を合わせない。
零はボールを拾わない。
バッグを持つ。
(強い者が勝つんじゃない)
(勝った者が強い)
部室を出る。
振り返らない。
⸻
バスケットボールをやめた。
だが音は消えない。
ぱすっ。
ぱすっ。
ぱすっ。
夜も、
朝も、
静寂の中でも。
呪いのように。
⸻
ある日。
ゲームセンター。
偶然立ち止まる。
透明なケースの中。
静かな世界。
コインを入れる。
アームが降りる。
持ち上がる。
落ちる。
何度も。
何度も。
そして——
景品が落ちた。
ゴトン。
床が揺れるような、
重い音。
その瞬間。
鼓膜の奥にこびりついていた音が、
静かに溶けた。
ぱすっ、が消えていく。
代わりに残ったのは、
確かな重みのある音。
ゴトン。
これは、
結果の音だ。
忖度も、
投票も、
血縁も、
情もない。
結果。
ゴトン。
零は、もう一枚コインを入れた。
⸻
やがて彼は理解する。
この世界には、
言い訳が存在しない。
⸻
強さだけが、
結果を決める。
⸻
そして零は、
静かに微笑んだ。




