第192話 神域
足が地面に触れた瞬間、
音が消えた。
重力が、やわらぐ。
空気は静止しているのに、
呼吸はできる。
静寂。
だが、不思議と怖くない。
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目の前に広がる景色。
真っ白な空。
雲は流れず、
時間の概念すら存在しない。
中央には、
澄んだ水を湛えた噴水。
水音は聞こえない。
ただ水は絶えず湧き続けている。
その向こう。
古びた城。
石壁は崩れかけ、
幾千年もの風雨に晒されてきた痕跡。
周囲を囲むのは、
巨大な樹々。
一本一本が、
千年、万年という時を生きているかのように、
静かに世界を支えている。
すきはゆっくり歩き出す。
足音は響かない。
ただ存在だけが進んでいく。
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城門は開いていた。
導かれるように中へ入る。
長い回廊。
崩れた柱。
差し込む白い光。
時間が止まった王国の残骸。
やがて、
広い扉の前に辿り着く。
ゆっくり押す。
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そこは、
王の間。
天井は高く、
玉座は崩れかけている。
だが、
空間の中心に
“それ”は立っていた。
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人の形。
だが輪郭は揺らぎ、
光でも闇でもない。
まるで影のようで、
まるで光の残像のよう。
存在しているのに、
存在が定まらない。
“ シルエット”
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ドクン。
ドクン。
ドクン。
鼓動が響く。
すきは息を止めた。
(この音……)
胸の奥が理解する。
(この音の持ち主だ)
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シルエットが口を開く。
「……やっと来たのか」
低く、
静かで、
どこか懐かしい声。
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すきはゆっくり近づく。
「あなたは……だれ?」
シルエットはわずかに揺らぐ。
「だれでもないさ」
一拍。
「ただ、ずっと待っていた」
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ドクン。
鼓動が静かに響く。
⸻
「何を……待っていたの?」
シルエットは答える
「門を開ける者だ」
静かな声。
「辿り着く者はいた。だが――」
間。
「開ける者は、いなかった」
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すきは目を見開く。
「私は……どうして開けられたの?」
「押しても開かなかったのに……」
シルエットが微かに揺れる。
「真の理解者を得たからだ」
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「真の理解者……?」
「そうだ」
一拍。
「鍵は、“扉を持たぬ者”にしか開けられない」
静寂。
言葉がゆっくり沈む。
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すきの胸に理解が広がる。
「……全くんが」
「鍵を開けてくれたから……門が開いたんだ」
「そうだ」
わずかな肯定。
「境地に到達した者には分かるようにしておいた」
「だが皆、扉を持つ者ばかりを見ていた」
かすかな寂しさが滲む。
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すきは小さく息を吸う。
「門が開いたあと……」
「全くんと意識が繋がってるみたいで」
「同じ感覚を共有できたの」
シルエットが静かに頷く。
「特典のようなものだ」
「ここまで辿り着いた者への」
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静寂。
世界は止まっている。
⸻
「ここまで来た者には、
望むものを与えよう」
声は穏やかだった。
「何か、願いはあるか?」
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すきは黙る。
迷い。
戸惑い。
思い出。
仲間。
扉。
戦い。
未来。
全。
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やがて、
小さく口を開く。
その言葉は――
聞こえない。
音が途切れる。
世界がモザイクのように歪む。
⸻
シルエットが揺らいだ。
初めて、
驚いたように。
「……それは」
わずかな沈黙。
「もちろん可能だ」
一拍。
「だが、いいのか?」
静かに告げる。
「扉そのものが、
消えることになる」
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すきは迷わない。
小さく、しかし確かに頷く。
「うん」
柔らかな笑顔。
「ありがとう」
「ここに来られて……よかった」
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シルエットは、
ほんの少しだけ寂しそうに揺れた。
「……そうか」
長い静寂。
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「叶えよう」
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その瞬間。
鼓動が止まる。
光が消える。
音が消える。
存在が途切れる。
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プツン。
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世界がブラックアウトした




