第153話 鏡の世界
扉に入った瞬間。
世界が――
静かに、割れた。
音はしない。
衝撃もない。
ただ、空気の層が一枚剥がれたように、
現実の輪郭がわずかにずれる。
羽澄京子の足元から、
透明な波紋が広がった。
次の瞬間。
景色が反転する。
⸻
そこは、無限の鏡の世界だった。
前も、後ろも、左右も、上も下も。
果てのない鏡。
映っているのは——
無数の自分。
笑っている自分。
不安そうな自分。
無表情な自分。
昔の、地味だった頃の自分。
「……わぁ」
声が、反響する。
⸻
鏡の中の一人が言う。
『見られてるよ』
別の一人が笑う。
『ずっと見られたかったんでしょ?』
また別の一人。
『地味子って呼ばれてた頃の分まで』
胸の奥が、熱くなる。
逃げたい?
違う。
羽澄京子は、ゆっくりと微笑んだ。
「うん」
「見てて」
⸻
鏡の表面に、景色が映り始める。
観客席。
カメラのレンズ。
スマホを構えるファン。
固唾を呑む受験者たち。
阿達豪の視線。
すべての「見る」が、像となって重なる。
その中心に——
自分の台。
自分の手。
自分の角度。
死角が、消える。
盤面が、立体として把握される。
重心。
傾き。
落下軌道。
すべてが、同時に理解できる。
⸻
現実世界。
羽澄の瞳に、光が宿る。
アームが動く。
横移動。
止める位置は、観客の目線から見て最も美しく映る角度。
奥行。
アームの影が箱の角をなぞる。
下ろす。
掴む。
持ち上がる箱。
観客の視線が、一斉に追う。
その視線の流れすら——
羽澄には見えていた。
「……なんだ今の操作」
「見せ方が違う…」
「え、魅せてる?」
⸻
箱は落ちない。
だが。
完璧な位置に整う。
観客席が、ざわめき始める。
阿達は初めて、明確な違和感を覚えた。
(盤面が変わった…?)
違う。
整い方が違う。
理詰めではない。
だが最短距離で完成へ向かう流れ。
⸻
羽澄の唇が、小さく動く。
「ねぇ」
「見えてる?」
鏡の世界の自分たちが微笑む。
『全部』
『全部、あなた』
『全部、味方』
⸻
次の一手。
空気が、明らかに変わった。
静かな職人の試合だったはずの舞台に、
熱が灯る。
観客が前のめりになる。
スマホの録画ランプが一斉に点灯する。
羽澄京子は、微笑んだ。
「——ここからよ♡」




