第148話 下衆田下僕
中学三年の頃。
下衆田下僕は、足が速かった。
部活をしているわけでもない。
特別なトレーニングもしていない。
だが、速かった。
クラスで人気者でもない下衆田にとって、
それは――
ほんの少しの優越感だった。
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ある日。
運動会のリレー代表決め。
立候補は五人。
選ばれるのは四人。
当然、自分が入る。
そう思っていた。
そのとき。
「じゃあ投票で決めようぜ」
誰かが言った。
下衆田は理解できなかった。
投票?
なんのために?
リレーだろ?
速いやつが走れば、
勝つ可能性が上がるげす。
だが。
笑い声。
軽い空気。
冗談みたいな空気のまま――
投票は行われた。
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結果。
四人の中に、
下衆田の名前はなかった。
「は?」
思わず声が漏れる。
投票用紙を奪い取る。
一枚。
二枚。
三枚。
……
下衆田の名前は――
自分で書いた一枚だけだった。
教室の空気が冷える。
誰かが笑う。
失笑。
「だってさぁ」
「雰囲気悪くなるし」
「チーム戦だし」
「速けりゃいいってもんじゃないじゃん」
その言葉が、
胸に刺さる。
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耐えられなかった。
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数日後。
リレーメンバーの一人が、
階段から落ちて骨折した。
小さな人影が目撃されたが、
誰かは分からなかった。
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「代わりに走ってくれ」
声をかけられた。
下衆田は、断った。
「負ければいいでげす」
誰にも聞こえない声で言った。
「最下位になれでげす」
「自分たちで決めたんだから、
自業自得でげす」
運動会の歓声の中で、
下衆田はただ立っていた。
拍手も、
声援も、
すべてが遠かった。
リレーが最下位で、
悔しがるクラスメイトの中、
下衆田はこの日初めて笑った。
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高校卒業後。
下衆田は、ゲームセンターで一人の男を見た。
静かな観衆。
誰も声を出さない。
ただ見ている。
そのプレイは――
上手い、ではなかった。
違った。
次元が。
空気が。
支配されていた。
「……一条零」
プロクレーンゲーマー二期生。
有名な存在だった。
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下衆田は勇気を振り絞った。
「あの……」
声が震える。
自分でも驚くほど小さな声。
悩みを打ち明けた。
評価されなかったこと。
認められなかったこと。
理不尽だったこと。
すべて。
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零は一言だけ言った。
「くだらん」
下衆田は固まった。
だが。
続けて言った。
「強いものが正当に評価される世界など存在しない」
「綺麗事だ」
「ならどうするか」
零は盤面を見たまま言った。
「次元の違いを見せつければいい」
「比較対象になり得ないほどの差を作れ」
「理解されようとするな」
「圧倒しろ」
静かな声だった。
だが。
下衆田の胸の奥で、
何かが弾けた。
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救われた気がした。
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「おれはプロで証明する」
零は言った。
下衆田の中で、
世界の構造が組み替わった。
評価されないのではない。
足りなかったのだ。
差が。
圧倒的な差が。
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下衆田は誓った。
この人についていく。
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卑怯な手を使った。
不正もした。
妨害もした。
勝つために。
評価される側になるために。
プロになった。
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プロになってからも、
零のそばにいた。
「おい、下衆」
「はいでげす」
「缶コーヒー買ってこい」
「ただいまでげす」
乱暴な扱い。
雑な命令。
名前ではなく呼び名。
それでも。
下衆田は離れなかった。
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理解されたかった。
認められたかった。
否定されない世界にいたかった。
零のそばは、
それが許される唯一の場所だった。
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現在。
売田が盤面を動かす。
不利な条件の中で。
確実に。
前に進めている。
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下衆田の指が震える。
(なぜでげす)
(最適化は完璧)
(不利条件は揃えた)
(それなのに)
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売田は言った。
「現場でやるもんだ」
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その言葉が、
胸の奥の古い記憶を
わずかに揺らした。
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教室の笑い声。
投票用紙。
自分の名前が一枚だけ。
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下衆田は首を振る。
(違うでげす)
(弱さは罪でげす)
(強さこそ正義でげす)
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それなのに。
なぜか。
胸の奥がざわついていた。




