第116話 使わねぇ
五手目。
九條の台は、
誰が見ても――リーチだった。
一手。
あと一手で、獲得口に届く形。
「……おい」
低い声が飛ぶ。
売田転だった。
「九條」
「今だ」
視線は台から外さないまま、
売田は言う。
「初期位置戻し、使え」
周囲がざわつく。
正しい。
合理的だ。
ここで使えば、この試合は取れる。
売田は続ける。
「権利は使うためにある」
「これは試験だ。勝て」
九條は、ボタンから手を離したまま、動かない。
視線は、箱。
(……分かってる)
頭では。
(使えば勝てる)
だが、
胸の奥に浮かんだのは、
返信の来ないスマホの画面だった。
「元気?」
既読もつかない文字。
この勝ち方で、
胸を張って会いに行けるのか?
九條は、ゆっくり首を横に振った。
「……使わねぇ」
売田が目を見開く。
「は?」
「それで勝っても、意味ねぇ」
九條は、初めて売田を見る。
「誤魔化した勝ち方だけは、
したくねぇんだ」
売田のこめかみに血管が浮いた。
「……バカだな」
そう言いながら、
それ以上は言わなかった。
五手目。
九條は、
自分の手で、最後まで攻めた。
荒い。
だが、迷いはない。
箱は――
わずかに、足りなかった。
会場が息を呑む。
その瞬間を、
梅田芭蕉は、確かに見ていた。
(……使わなかった)
理解する。
勝率でも、効率でもない。
あれは、
選択だ。
五手目。
芭蕉は、
自分の台の前に立つ。
ボタンに手を置いたまま、
ほんの一瞬だけ、目を伏せた。
——息を、整える。
深く吸って、
静かに吐く。
まるで、
茶を点てる前の所作のように。
雑念が、すっと消えていく。
勝ちたい。
負けたくない。
そんな言葉すら、
今はもう無い。
あるのは、
この一手だけ。
芭蕉は、アームを動かした。
速くもなく、
遅くもない。
アームが描く軌道は、
茶筅を回す円のように、
無駄がなく、滑らかだった。
触れる。
押す。
乱さない。
箱は、
抵抗することなく、
その動きに身を委ねる。
——仕上げ。
最後に、
ほんのわずかだけ、力を抜いた。
ゴトン。
澄んだ獲得音が、
湯気が立ち上るように、
会場に広がった。
「第一試合、勝者――
梅田 芭蕉!」
拍手。
だが、
芭蕉はすぐに動かなかった。
点て終えた茶を前に、
一礼するように、
静かに手を離す。
……だが。
胸の奥に残ったのは、
いつもの“整った感覚”ではなかった。
(……苦い)
理由は分からない。
ただ、
今までで一番、
味のある一服だった。
一方、九條は。
負けた台の前で、
肩をすくめる。
悔しい。
それでも。
胸は、張れていた。
(……まだだ)
売田が隣に立つ。
「……ほんと、バカだなお前」
そう言ってから、
小さく笑う。
「でもまぁ」
「嫌いじゃねぇ」
九條は何も言わず、
前を見た。
勝った者は、答えを失い。
負けた者は、次へ進む理由を得た。
第一試合は、
こうして幕を下ろした。
——だが。
物語は、
ここからさらに、深くなる。




