愛されたいから、牙を隠すの
いつだって思い出すのは、幼い頃の、加減を知らない大喧嘩。
男だろうが女だろうが関係なく、どちらかが一発殴るまで、どちらも自分の正当性を主張して。
幼馴染の、なんてことはない言いがかりだった。
もう何が原因だったのかも思い出せないほど本当に些細なことで。ただ、言われたそれが気に障った。
年齢は私と同じ。けれど男と女、身体の成長速度は違ったみたい。私よりもいち早く大きくなった相手に対峙して、果敢に挑んだ。健闘するも付けた傷は擦り傷程度で、大きな一発には程遠かった。
ああ、負ける。
強く握られた幼馴染の拳を見て、そう思った一瞬だ。
視界いっぱいに白銀の髪が見えたかと思うと、押された反動で地面にお尻をついた。
「女の子を殴るなんて、いけないことなんだよ!」
そう言って間に入ってきたのは、見たことのない、幼馴染の彼よりも随分と華奢な少年だった。
驚いた。
特徴的な歪曲した二本の角と白い髪を持つ種族を、これまでこんな間近で見たことはない。しかも交戦中に割って入ってくるなんて。
予想外のことに、私も、幼馴染も、停止して。
その大喧嘩は、闘いの最中に庇われた私の負けで勝負がついた。
幼馴染は少したじろいだものの、勝ったことで満足したのか、ふん、と鼻息を残して去っていった。
負けたことは悔しかった。けれども、これは私の人生で、なくてはならない出来事だったのだ。
◆
草葉の陰。満面の笑みで見つめる先にはいつだって、彼がいた。
スラリとした体躯、光る知性、物腰も柔らかで、紳士的。ヤギの獣人である証——歪曲した二本の角を持つ者は他にもいるけれど、いつだって彼が光って見える。
陰に潜む私を見つけて微笑みかけてくれる姿には、何度見ても、天にも昇る。
「またきたの?」
初めて会いに来るまで、三年間。
それからは半年に一度、三ヶ月に一度、一ヶ月に一度と少しずつ回数を増やして、それからは時間が許す限り会いに来た。
でも、周りから陰口を叩かれていることも知っている。
ああ、怖い。食べられそう。強いんでしょう。私たちなんてあっという間にやられちゃうんじゃ。ほら見て牙もあんなに鋭くて。
ヤギ獣人の町では、私はひどく浮く。
頭の上には大きな耳、鋭い牙と爪を持ち、灰色の髪を靡かせる私は、オオカミ族だから。
「こっちおいでよ。お菓子も用意してる」
けれど、この優しい笑顔で誘われるたび、吸い寄せられるように向かいの席に座ってしまう。彼の迷惑も考えずに、自分の幸せを優先して。
「アーギー。また来ちゃった」
「そんなところで隠れてないで、普通に入ってきたらいいのに」
優しい言葉にぶんぶんと頭を振った。
一、二回。そんな頻度ならいい。けれど、月に何度も玄関から入るところを他のヤギ族に見られれば、アーギーが何と言われるかわからないから。
だからいつもそっと裏から入る。
「また何か作ろうか?」
「……わ! じゃあ、たまごサンドがいいな」
野菜は得意じゃないけれど、アーギーが作るサンドだけは特別だ。
「ミィはいつもたまごサンドだね。別にカツサンドだって、ハムサンドだって作れるんだよ?」
「いーの! ここにきたら、アーギーのたまごサンドが食べたくなるの」
家での食事はいつも肉料理で、それをいつもペロリと平らげる。
けれどヤギ族のアーギーの前だけでは隠すのだ。
「だって、いつも作ってくれるたまごサンド、とっても美味しいもの!」
「ふふ、そう言うと思って、いつも卵は多めに茹でてるんだ。早く作るね、待ってて」
そう言ってアーギーは背を向けてキッチンへ向かった。
こうして待つ時間も幸せで、胸が躍った。
人間と獣の間。獣の姿に変身できる獣人は、大きく二つに分類される。肉食動物系と草食動物系だ。
獣が混じるとはいえ、食べ物は人間と同じ。獣人が獣人を捕食することはないけれど、混じる動物の本能から、住処を分けた。
肉食系と草食系とで分けられた区画は、その中だけで生活に困らないから、普通、あまり行き来はしない。
ことりとテーブルに置かれたたまごサンドには、いつものようにレタスもきっちり挟まれている。
「いつも思うけど、ミィって食べるのゆっくりだよね」
「うーん、そうかな。でもオオカミはみんな結構、食べるの早いかも」
本当は一口で食べられる。
でも牙を見せたくなかった。
細心の注意を払って、少しずつ小さな口で、味わいながら。
「ありがとう。今日もおいしかった。ごちそうさま」
苦手な野菜も飲み込んで、手を合わせた。
この時間が何とも贅沢で、ずっと続けたいと思う。
◆
森の中に作られた肉食系区画と草食系区画の間には、一つの看板がある。
それを記しただけの、小さなものだ。
区画を繋ぐ長い道の真ん中に置かれた板一枚が、見えない大きな壁のように立ちはだかっていた。
「今日も楽しかったな……」
何度も後ろを振り返り、名残惜しみながら、とぼとぼと帰路に着く。
アーギーってばどうしてあんなに格好いいんだろう。いつ行っても驚きもしないし、大きな声も出さないし、いつも笑顔で迎えてくれて。こんなのちょっと期待しちゃうっていうか。
「おい」
こんな「おい」だなんて乱暴な言葉も使わないし。「おい!」穏やかでいつも手料理も作ってくれ「聞けや!」「無視すんな!」
「……もううるさいなぁ。何、オーカ」
人が幸せを噛み締めてるって時に。
目を吊り上げた同族のオーカが、鼻息荒く道を塞いでいる。
昔、幼い頃、喧嘩で負けたあの幼馴染だ。そういえばあの時も、区画をつなぐ道の途中だった。
ことあるごとに突っかかってくるから、イライラする相手だけれど、アーギーとの出会いがあんまりにも美しくて、それだけは感謝していたりもする。
「お前、また白髪のとこなんかに行って!!!!」
「何よ。悪い? あんたには関係ないでしょ」
つん、と耳を立てると、オーカは牙を見せて笑った。
「ハッ! あんな気弱な白髪、何がいいんだ。草ばっか食べやがって、喧嘩もできねえ。付き合うんならどう考えても肉食獣だろうが!」
真っ当なオオカミ族なら、同じ意見を持つはずだ。
食べ物の好みが違うこともあるけれど、そもそも本能的に、草食系は肉食系に怯え、肉食系は草食系を下に見る。
「何言ってんの。こっちに彼みたいな男はいないでしょ。あんなに優しくて穏やかで素敵な……オオカミ族なんて筋力馬鹿ばっかり」
「はぁ? お前こそ何言ってる。力こそ至高! 力で勝てないなら何も守れねえだろうが」
「でもアーギーは、それでも私を庇おうとしてくれた」
負けるとわかっている相手の前に飛び出してくれたのだ。
もう随分と前の話だけれど、今もなお鮮明に思い出せる。
「好きだもん。なかなか会えないけど、私のことも好きになってもらいたいじゃない」
肉食獣系と草食獣系の恋愛も、極々少ないけれど、なくはない。区画間の森にはそんな集落があるという。
鼻をひくりとさせて、オーカは顔を顰めた。
「におうぞ、葉っぱの匂いだ。……お前、あいつなんかのために、嫌いな草も食べるのか?」
「何よ、喧嘩なら買うわよ」
いつものように両手を鳴らす私に、オーカは指を差す。心なしかその顔は面白がっていた。
「本当か?」
指の先を追って後ろを振り向くと見慣れた二本の角と白銀の髪。
「——ミィ?」
「アーギー!? どうしてここに……」
「なんだか嫌な感じがして」
にやりとしながら喉を鳴らすオーカには戸惑いつつも、私をしっかり見てくれる。
そんな優しいアーギーを怖がらせたくなくて、オーカから隠すように間に入った。
「お? やるか?」
いつもの私だったら、すぐに喧嘩だ。
男だから女だからは関係ない。鋭い牙で威嚇して、髪を振り回して大立ち回り。
でも、アーギーの前で、歯を見せるなんて。
グッと奥歯を噛み締めた私を見て、オーカは面白くなさそうに灰色の耳を垂らした。
「ほら見ろ。こいつはただ守られるだけ。お前も力を出せない。そんな弱者になんの意味がある? お前はただ、自分より弱い男に庇われたってことが物珍しいだけ! 目を覚ませよ。この俺がいるじゃないか」
少しでも可愛いと思ってもらいたくて、白くてふわふわした洋服を着ていった。
おんなじご飯を食べたくて、大好きなお肉は食べなかった。
穏やかな時間を壊したくなくて、鋭い牙は見えないようにして。
全部全部、アーギーに良く思われたかったから。
だけど。
「うるさいっ」
アーギーのかわいい私は、これでおしまいだ。
歯を剥いた。
威嚇のために喉も鳴らした。
でも、いい。
「オオカミしか知らないあんたが、アーギーを馬鹿にしないで!」
そんなあんたが、肉食獣の私に歩み寄ってくれたアーギーを馬鹿にしていい理由なんかない。
少し腰を落として睨みつけると、オーカは私に興味を取り戻した。
嬉しそうに、それからアーギーに勝ち誇ったような顔を見せてから、対峙する。
「やっぱり、いいな、お前。そうこないとなあ」
「うるさいってば。その口閉じて」
背中に庇ったアーギーのことは、一体どんな顔をしているのか、怖くて見られなかった。
強い風が吹き、髪が視界を遮るその瞬間に、落ち着いた優しい声がした。
「——ちょっとやめてくれない? せっかくミィが僕を追いかけてくれてるのに」
声色とは似つかわしくないその言葉はオーカを煽った。
視線の先が、私から、私の背後へゆっくりと移る。私はそれでもまだ、振り向けなかった。
「は、あ? お前……今、何言った……?」
「大きな耳して聞こえなかった? 邪魔すんなって言ってんの」
変わらず穏やかな声は、聞き間違えようもなく、アーギーのものであるはずだ。
「おまえ、誰に口聞いてるかわかってんのか。草野郎が」
「わかってるよ。僕のミィに昔からずっと興味を示してるオスのオオカミでしょ」
「黙れ……!」
殴りかかったオーカに慌て、振り向いた私が見たのは、高いジャンプを披露して道横の木々に飛び移ったアーギーの姿だった。
オオカミには届かない高みから見下ろしているアーギーは、少し怒っているように見える。そんな顔は、初めて会った時以外で、見たことはない。
「ハッ、それでどうするって? 確かに俺らにその高さは無理だ。が、所詮逃げてるだけだろうが! こいつに好かれてるからって調子乗ってんな、気に入らねぇ! 降りてきてみろよ、逃げてばかりで守ることもできない腰抜けが」
私の首に尖った爪と、牙を押し当てる。
自分が獲物になったような感覚に襲われて、いつもの喧嘩は仲間内のじゃれ合いだったのだと、初めて手加減されていたことを知った。
「だからさ、女の子に手をあげるなんてやめたら? それにわかってないね、牙と爪を持ってんのは自分たちだけだとでも思ってる?」
アーギーが細い短剣を胸の内ポケットから取り出した。
「そんなの、外付けすればいいだけなの。君たちの爪も牙も、当たらなきゃ怖くないわけ」
アーギーは木の上でぐっと膝を曲げた。
揺れた枝から葉が落ちる。
「あと、君が本気ではミィを襲えないことも知ってるから」
たーん、と静かに跳躍したアーギーは、オーカの背後に着地し、地面に屈みながら片足を繰り出した。オーカの足を払えばバランスを崩して、私を爪で傷つけないためか、パッと離した。
その隙を逃さないよう、アーギーに抱き抱えられた私は、目を瞑った数秒の間に木の上にいる。
「ねえ。救うのもできるんだよ」
オーカに向かって言った台詞が、耳元で聞こえる。
いつもより近くて、いつもとは違う状況で。だからか、いつもよりも格好良くて。
その声が、どことなく甘さを含んでいるような気がするのは、気のせいじゃない、って思いたい。
ドキドキする心臓を抑えて俯いた。
「ミィ? 大丈夫? 具合、悪い?」
こんなふうに心配して話しかけてくれるだけで、胸がいっぱいだ。
首を横に振りながら、自分の手の甲を爪で引っ掻く。痛い。
思いがけずヤギに打ち負かされたことで、オーカは地面の上で、口をぽかんと開けたまま魂が抜けたように呆けているけれど。
私はまだふわふわの中にいる。
「……アーギーって強いのね」
「嫌?」
その問いには、また首を振る。
アーギーはほっとしたように表情を緩めた。
「良かった。弱い僕が好きだったらどうしようって思ってたから」
近づいた顔が、一層輝いて見えた。
と同時に、あまりの近さに慌てて口を押さえる。
「そんなわけ、ない。けど、ちょっと離れて。牙が」
「これ? 大丈夫。全然怖くない。だってミィだもの」
すぐに俯く私の顔を両手で包み込まれ、目の前にはアーギーの整った顔。やっぱり近い。
「いつになったら見せてくれるかなって思ってた。ミィだって見てたでしょ、弱いだけの僕じゃないの。絶対にミィを怖がらないから、これからは僕には見せてよ、ずっと」
真正面から初めて目が合って、アーギーにどぎまぎした。
優しくて穏やかで、いつだって紳士的で。それだけじゃなくて、強くもあって。
いつも私には笑顔を見せてくれて——だから、こんなのちょっと期待しちゃうっていうか。
「ど、どうして……?」
それには答えてくれず、アーギーはちらりとオーカを見下ろした。
「良かった。今日は追いかけてきて」
小首を傾げた私をアーギーは意味ありげに見つめ、爪で傷ついた手の甲をゆっくり撫でた。
「ミィの牙だって見れたし、本当の僕だって見せられた。——それに、ちゃんとミィのこと、僕も格好良く助けたかったってこと」
そっと額に触れるようなキスに気づいた時には、牙のこととか嫌いな野菜のこととか全部すっかり吹き飛んでいて。
額を押さえながら、私は一切俯くことなく、満面の笑みを見せたのだ。
お読みいただきありがとうございました!
女の子が可愛く見せたくて我慢してることを、実は男の子が知ってて打ち明けてくれるの待ってたら可愛いなと思って。
共感してくださる方いたら嬉しいのですが!!!
ちなみにオーカくん、昔ミィにちょっかい出してた(喧嘩ふっかけてた)のは完全に「好きな子に構ってほしい」アレでした。 「喧嘩=コミュニケーション」脳。
結果、自分で恋敵を作り、見事に取られるという…
自滅しました。




