教えたい願い
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祈りから逃げ出した俺が、一つの命に祈りを捧げることになるとは、誰が想像できただろうか。
水と生命の気配が満ちる店内で、俺はぼんやりと水槽を眺めていた。色とりどりのヒレが水を揺らし、フィルターの低いモーター音が絶え間なく響く。このアクアショップという空間は、俺が捨ててきた世界とはあまりにもかけ離れていた。
俺は、寺の跡取りとして生まれた。代々続く古刹の長男として、その将来は生まれた時から決められていた。父の厳格な視線は、経文の意味ではなく、ただ形骸をなぞることを求めた。染みついた線香の香りは、俺自身の心を燻し、窒息させようとしていた。祈りは喜びではなく、心を蝕む義務だった。その息苦しさに耐えきれず、ある日すべてを投げ出して都会へ逃げ出した。
当然、何の伝手もない都会での暮らしは厳しい。日銭を稼ぐためにアルバイトを転々とし、偶然目にした求人広告で辿り着いたのがこの店だった。魚にも生き物にも興味のなかった俺が、水槽の掃除に明け暮れることになるとは。人生とは、皮肉なものだ。
◆◇◆◇
その店に、いつも人の少ない時間を見計らって現れる女性がいた。
彼女は、まるで音のない時間を連れてくるかのような人だった。店に入ると、まっすぐ淡水フグの水槽へ向かい、ただじっと見つめる。小柄で華奢な体に、控えめなベージュのワンピース。長い黒髪を後ろで一つにまとめ、清潔感のある薄化粧が、伏し目がちな横顔を静かに引き立てていた。彼女の視線に時折浮かぶ寂しげな影は、失われた何か──大切な人か、あるいは自身の健康か──を、声なく物語っているようだった。
最初の言葉は、不意に訪れた。
「あの……このメコンフグは、どういう環境で飼うのが一番いいのでしょうか」
驚くほど小さく、しかし一語一語が丁寧で、ためらいがちな声だった。
最初のうちは、義務として言葉を返していた。飼育書を棒読みし、先輩の受け売りを並べる。かつて経文を諳んじたときのように、心のない音を並べるだけだった。
だが、彼女は違った。俺の言葉を、驚くほど真剣な眼差しで受け止めていた。
「水質は、やはり弱アルカリ性が……。それから、水流は強くない方が……」
その問いかけには、知識を誇るような気配は微塵もなかった。ただ知りたいという純粋な渇望だけがそこにあった。彼女の真摯な眼差しは、俺が捨ててきたはずの「信じる」という行為そのものだった。その純粋さが、乾ききった俺の心に小さな波紋を広げた。
◆◇◆◇
最初は億劫だった調べ物が、いつしか習慣になっていた。店長に専門書を借り、ネットの海を彷徨う。メコンフグの生態、最適な水温、好む餌。未知の世界を知ることは、思いのほか楽しかった。それは、誰かに強いられることのない、初めての自発的な探求だった。
そして何より、彼女の真剣な問いに、自分の言葉で応えられるようになることが、いつしか俺の目標になっていた。彼女の伏し目がちな横顔に、かすかな期待の色が浮かぶ瞬間を見るのが、密やかな喜びとなっていた。
一ヶ月が経つ頃には、彼女のどんな質問にも滞りなく答えられるようになった。相変わらず言葉は少なかったが、水槽の前に立つ彼女の表情には、確かな信頼の色が見え始めていた。
◆◇◆◇
ある日、いつものように会話が終わった後、彼女はふと、白いメモ用紙を差し出した。
「実は、水槽のことでご相談したいことがあるんです。もし、ご迷惑でなければ……来ていただけませんか」
最後の言葉は消え入りそうだったが、その頬には微かな笑みが浮かんでいた。それは、まるで陽だまりのように暖かく、俺の心にそっと触れる。これまで一度も見たことのない、しかしずっと見たかった、安堵と期待に満ちた笑顔だった。
そこに書かれていたのは、都心に建つ新しいマンションの住所だった。
◆◇◆◇
休日の午後、俺はその住所を訪れた。オートロックのインターフォンを鳴らすと、聞き慣れた彼女の声が応答する。
「来てくださって、ありがとう。今、開けますね」
いつもより少しだけ弾んでいるように聞こえる声に、俺の胸も静かに高鳴った。エレベーターで指定階へ上がり、部屋の前でチャイムを押す。だが、何度鳴らしても返事はない。
おかしい。胸騒ぎがした。ゆっくりとドアノブに手をかけると、カチャリと音がして、施錠されていないドアが静かに開いた。
途端に、死の香りがした。甘くまとわりつくような腐敗臭。それは、孤独という病が、ついに命を喰らい尽くした後の残り香だった。吐き気をこらえ、奥へと足を進める。薄暗いリビングの床に、彼女は横たわっていた。蝋のように静まり返った白い肌。その傍らには、濁りきった水槽と、骨と皮だけになったメコンフグが底に沈んでいた。
なぜだろう。この絶望的な光景の中で、俺は不思議なほど冷静だった。パズルのピースがはまるように、これまでの彼女の言葉、眼差し、そして最後の笑顔の意味が、一つの答えとなって胸に落ちてきた。
水槽の「相談」。それは助けを求める声ではなく、命のリレーのバトンだったのだ。
彼女が俺に託したかったもの──それは、この小さな命。自分がもう世話をできないと悟った彼女は、俺がこのフグを守れるだけの知識を持つようになるのを、じっと待っていたのだ。その途方もない孤独と、それでも他者に希望を託そうとした彼女の想いが、胸に迫る。部屋には家族の写真一枚なく、代わりに薬瓶が散らばっていた。
震える手でスマートフォンを取り出し、警察に連絡を入れる。ふと、店長たちの曖昧な反応が頭をよぎった。「メコンフグの女性? さあ、知らないな」。誰の記憶にも残ることなく、彼女はこの部屋で一人、最期を迎えたのだ。
警察への説明を終えた俺の手は、自然とメコンフグの水槽に向かっていた。父から押し付けられた「家」の命運ではなく、誰からも顧みられない、この掌に乗るほどの小さな命。それなら俺にも背負えるかもしれない。いや、背負いたいと思った。
近づくと、フグがゆっくりとこちらを向いた。まだ、生きている。濁った水の中で、力なく漂うその姿は、かつて祈りから逃げ出した俺自身が向き合うべき“命”そのものに見えた。
◆◇◆◇
数日後、俺は彼女の墓前に立っていた。真新しい墓石に、小さな骨壺が納められたばかりだという。
ポケットからスマートフォンを取り出し、その画面を墓石にかざす。そこには、澄んだ水槽の中を、以前よりふっくらと泳ぐメコンフグの姿があった。
風が静かに吹き抜ける。自然と、唇から言葉がこぼれた。
「無量寿経……如是我聞。
一時、仏、舎衛国に住したまえり──」
少年の頃に叩き込まれた読経の一節。二度と口にすることはないと思っていた言葉。
父の声も、家の重圧もない。ただ、目の前の墓石と、画面に映る小さな命のためだけに、言葉が紡がれていく。ああ、これが本当の祈りなのか。義務でも、形式でもない。誰かの安寧を、ただ純粋に願うこと。あれほど憎んだはずの行為が、今、俺の心を温かいもので満たしていく。
「安心してください。俺が、この子を守りますから…」
スマートフォンの中のメコンフグが、ゆっくりとヒレを動かした。それはまるで、彼女の魂が俺の祈りを受け取ってくれたかのような、静かな肯定に見えた。
彼女が遺したかったのは、メコンフグの命だけではなかった。それは、孤独な魂が交わした、声なき約束。祈りから逃げ出した俺が、再び祈りを見つけるための、儚くも美しい道しるべだった。
水槽の中を泳ぐ小さな姿は、まるで彼女の魂そのもののようだ。俺はこの命と共に、生きていく。彼女が教えてくれた、温かい願いを抱きしめながら。