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Ⅰ 暗い窓辺

以前の物を多少、手直ししました。

   Ⅰ 暗い窓辺



     1 



 僕は小人だ。

 僕は母にとって最初の子供だった。

 産婆の手によって抱え上げられた身長が一フィートもない僕の姿を見て、そまつな農家の一室は、水を打ったように静まり返ったと言う。

 僕の姿を見た母は強いショックに陥り、父は口にすべき言葉を全て失い、僕は全く泣かなかった。

 村で唯一の産婆である村長の母だけが、なるべく平静を装うように努めながら、僕の体を暖かい産湯に浸した。

 僕の体は小さかったが、明らかに未熟児のそれではなかった。まるで、完成された子供が縮小された状態で生まれて来たようだった。

 東洋の聖人のように杖をついて出てきたとか、彼がしたようにすぐに立ち上がり、聖なる言葉を口にするような大仰な事はしなかったが、僕の姿は立ち会った人々をしばし絶句させるのに十分だった。

 初めて吸う空気、初めて見る光。

 まるで母の体内にいるような心地のいい産湯に浸り、僕はゆっくりと微笑んだが、その微笑みに応じる事のできる人などいるはずもなかった。

 そして僕は、生まれて三日目にして、村はずれの教会で異端審問に掛けられるはめになった。

 悪魔の子かどうか調べるため、十字架を顔の前にかざされたり、奇妙な呪文と共に蝋燭の火であぶられたり、はたまた、聖水なる水を頭に掛けられたりしたが、聖衣のポケットの中にウイスキーの小瓶を忍ばせた飲んだくれの無能牧師に、そんな事が分かる訳がなかった。

 珍しい儀式を見るために、暇をもてあました多くの村人がやってきたが、集まった人々に分かったのは、僕が泣くと言う事実だけだった。

 牧師は慣れない儀式に疲れてしまい、馬鹿馬鹿しくなった見物人も、日を追うごと

に減っていった。

 やがて牧師は、父の差し出したワインと僅かな賄賂で手を打つ事にし、僕の誕生は不問に付される事となった。

 両親も、最初のうちは異様なその姿に強いショックを受けていたのだが、しかし、次第に僕に暖かく接するようになっていった。

 僕は彼等の最初の子供で、何も知らない無垢な幼児だった。

 ちょっと人と姿が違うだけで他には何一つ違う所はないではないか、と言う結論に自分達の気持ちを持って行くように努力したし、村の人達も僕を『天使の子』と呼び、少なからず偽善的な感情を持ちながらも、僕を暖かく、新たな村民として受け入れようと努めた。

 しかし、当時、最も僕の心を開いてくれた村民は、僕の家で飼われていた老猫のロマノフだった。

 なかなか家族になつかず、自分の産んだ子供の世話をせず死なせてしまった事もあるこの気位の高いアラビア猫は、晴れた午後には僕の服をくわえて、村で一番高い木の上に連れていってくれたりした。

 ゴチック教会の塔を見下ろす木の上からは、開拓地のつつましやかな東欧風の村落と、それを取り囲んだ地平線まで続く小麦畑が、さわやかな風に揺れるのが一望できた。

 僕はそよかぜに包まれて無邪気に笑い、ロマノフはそんな僕のそばにちょこんと座り、遠くの方を眺めていた。


 そうやって夏が過ぎ、秋が過ぎたが僕の体は一向に成長の兆しを見せなかった。

 両親は僕を、悪魔払いをすると言う祈祷師や、細胞を活性化する薬を与えるという医者に見せたりしたが、どれも彼等の一抹の期待を裏切っただけに終わった。


 開拓地の人工太陽は季節を造る為、年に三ヶ月の出力低下をする。そうしないといい麦が作れないのだ。

 そうして、寒い冬がやって来る。

 暖炉の炎は優しい光で冷えた空気をかき回し、人々の凍り付いた冬の心をなごませる。 出力低下のせいで遥か地球が微かに見えるようになるこの季節は、自然と人々を悲しい気分にするのだ。


「この子はね」

 食器のあと片付けをしながら、母は幾分誇らしげに言った。「とても頭が良くて、心が優しいのよ。ロマノフがこんな風に子供になつくのを見た事があって?」

 父は、暖炉の側にロッキング・チェアを置いて新聞を読んでいた。

 暖炉の前で、僕はロマノフの軟らかい毛にもたれて、すやすやと眠っている。

 それはとても幸せそうな、家族の一シーンにも見えた。

「昔読んだロシアの作家が言ったよ。才能には何かの代償を払わなくてはいけないってね」

 そう言って彼は僕に目をやり、僕の寝顔を覗き見る。

 ロマノフは大きくあくびをした。

 窓からは微かな太陽の光が差し込み、その薄いベールのような光の粒子の隙間から、遥か彼方の地球が見えた。彼は故郷のドネツクに思いを馳せ、今日までの長い道程を思った。 彼は暖炉の炎の下の僕に優しく微笑んで、新聞に目を移した。

「きっと、これでいいのさ」


 

    *


 僕が三才になる頃から、ロマノフは次第に僕を子供達の中に連れ出すようになった。彼女は、僕を人間の社会に適応させなくてはならないと考えたようだが、それはとても難しい試みだった。

 僕は子供達に相手にされないか、または空瓶に押し込まれて坂の上から転がされるなどの酷いいたずらをされるだけで、ロマノフの試みは結果として僕をより閉鎖的にした。

 僕はそんな時、いつも自分の家に逃げ帰り、書斎の窓辺から一面の麦畑を眺める事にしていた。ロマノフはそんな僕をいつも悲しそうな目で見ていた。

 窓から見える麦畑を、僕は海と呼んでいた。

 父から聞いた、空とつながるまで広がり、始終波打っていると言う青い海の姿は、村はずれにある南の貯水池よりはむしろ地平線まで広がる青々とした麦の大地に近い様に思えたのだ。

 開拓地で生まれた子供は、共通して海を上手く想像する事ができなかった。そして二つの太陽に囲まれて育った開拓二世の子供達は、その後、一生海を見ずに死んで行く事になるのだ。

 開拓団がこの土地に来た後、地球では世界的な革命が起った。旧政府間の協力により進められていたこのプロジェクトは、孤立を余儀なくされ、その後地球との関係は序々に険悪になって行くのだが、その頃の僕はそんな事を知る由もなかった。

 僕は窓辺に座り、心地良い風に吹かれながら日だまりの中で眠りに落ちていった。


     *


 僕が六才になる頃、ある一人の青年が僕の部屋にやってきた。僕はいつもの様に窓から麦畑を眺めていた。

「何を見てるんだい?」

 背の高い、丸い眼鏡を掛けたその青年は、細い体を折るようにしてかがみ、僕に話しかけた。

「海」

 僕が答えると、青年は大きな声で笑った。

「これは海じゃないよ。海はもっと大きくて深くまで塩水が詰まっているんだ」

「塩水?」

「ああ」

「誰が塩を入れたの」

「最初から塩水だったんだよ。それに海の中には色々な生き物が住んでいる」

「生き物?」

 僕が聞き返すと彼は得意げに言った。

「ああ、細い体で海を泳ぎ回る魚と言う生き物とか、八本の足がある蛸と言う奴とか、色々さ」

「牛や羊もいる?」

 開拓地にいる動物は、皆地球から連れてこられた家畜とペットばかりだった。

「牛や羊は無理だけど、魚の様な形をした牛や羊の仲間はいるよ」

「塩辛くないのかな?」

 青年はまた笑った。

「彼等の意見を聞かないといけないね」


     *


 彼は地球の大学で生物学を学び、宇宙開拓局からここに派遣されていたクリスと言う青年だった。革命で宇宙開拓局がなくなり、失業中の彼に、両親は僕の家庭教師を頼んだのだった。

 クリスは週に三回やってきて、僕に読み書きから算数まで全てを教えてくれた。

 しかし、僕が最も興味を持ったのは、クリスが家から持ってきた一冊の大きな動物図鑑だった。

 そこには、僕には生きている姿が想像もつかない様な動物もいたし、よく見かける牛や犬といった動物もいた。

 CATと書かれたページには、ロマノフとそっくりな猫が描かれていた。僕は一度だけロマノフにそのページを見せてやったが、ロマノフはつまらなそうな顔で一瞥をしただけだった。

 僕は一日中夢中になって、その本を眺めて過ごすようになった。

 クリスと過ごすのは楽しかったし、ロマノフは、誕生日に母が作ってくれた小さなボールで遊んでくれた。

 後になって考えると、その頃が僕の一番幸福な時期だったのかもしれない。

     2



 その頃の僕にとって最も大きな悩みは、日曜日の午前に教会へ行かねばならない事であった。

 教会では僕を異端審問に掛けた飲んだくれの牧師が、つまらない演説を聞かしたり、神に祈ったり、神を称える歌を歌ったりした。

 僕の宗教観はともかくとして、多くの人間の中に出かけると言う行為が、僕をとても憂鬱な気分にしたのだ。

 敬虔なキリスト教徒である父と母は、僕に特別に作ったよそ行きの服を着せ、毎週僕を教会に連れ出した。

 道中、母の腕に抱かれた僕は、何度もいやだと言ったが、決まって父は困った顔をして僕を諭した。

「そんな事を言う物じゃない。おまえだって神に守られているんだ。感謝しなくてはいけない」

 本当に神がいるなら、僕は日常の安全よりもむしろ、人々の僕に対する冷ややかな視線からの庇護を願っていた。

 日常生活の大半に於いて、その願いは適えられた。ただし、日曜の朝を除いて…。


 教会での僕は机の上に座らせられ、否応なしに人々の好奇と嘲笑の目に晒されなくてはならなかった。

 大人達は、もちろん、僕を受け入れたなっていたし、偽善ではあれ、めぐまれない子供を、ましてや教会に於いて、差別するべきではないと考えていた。

 しかし、彼等が時に、僕の出生を母の業病のせいだと噂し、哀れみの冷ややかな視線で僕達一家を見ている事は明らかだった。

 子供達はもっと露骨に僕をおかしな目で見た。僕を怪訝な目で覗き、小さな声で隣の子供に何か囁いているのを見る度、僕はいつも消えてしまいたいと願った。

 神が僕の庇護の代償としてこの様な罰を求めているなら、それはとても理不尽な事に思えた。

 僕は何度もその事を父に言ったが、父は黙って首を振るだけだった。


     *


 ある日、窓から外を眺めていると、一人の東洋系の少年が、下から覗いているのに気付いた。

「なにか用?」

 僕の問いには答えずに、少年は一方的な調子で言い放つ。

「おまえ、俺達の仲間に入れてやってもいいんだぜ」

「どういう事?」

「仲間が南の貯水池にいるんだ。おまえを仲間にしてやってもいいと言っている」

「………」

 床に座っていたロマノフを見る。ロマノフは少し疑い深い目で僕を見返した。

 僕は少し考えたが、窓の下の少年にそこで待っている様に頼んで、部屋を出て階段を降りた。ロマノフも心配気な様子で僕の後をついてきた。


「なあ、おまえは学校に行かないのか?」

 南の貯水池がある森へと続く道を歩きながら、少年は聞いた。

「学校?」

「ああ、そうさ。普通の子供達はみんな学校へ行くんだ」

「そこで何をするの?」

「勉強をしたり、色々さ」

「勉強は家でしているけど、学校って楽しい所?」

「友達がいるからね。楽しいよ」

 もし普通の子供のように学校に行けたら、それは、きっと楽しい事なのかもしれない。

 僕はそう考えた。


     *


 鬱蒼と木が茂った湿った森の中に、南の貯水池はある。森には空気を合成して水を作る装置があって、一年中じめじめとしていた。

 水や汚れる事が嫌いなロマノフは、今までこの場所に入るのを嫌っていたが、僕を心配してか、その日は森の奥へ続く山道を登り、僕の後を追って来た。


「連れて来たぜ」

 貯水池のほとりには三人の少年が待っていて、そのうちの一番大柄な一人が、僕の前に立ちはだかった。

「僕を仲間にしてくれるの?」

 僕は聞いたが、彼は答えずに一人の背の低い、すばしっこそうな少年に何かの合図をした。

「ただで仲間にする訳にはいかねえんだ」

 少年は木の小さな棒を持って、貯水池の端にあるコンクリートの取水口の上に立った。 貯水池の真ん中には小さな細い塔が立っていて、その塔の一番上に向けて、用水路の取水口から電力供給用の金属製のパイプが伸びていた。

 少年は棒を持って、そのパイプをよじ登って行く。

「あいつがこれから塔の上にあの棒を置いてくる。あれを取って来たら、仲間にしてやるよ」

「あそこに登るの?」

 言うと、彼は口を歪めて笑った。

「怖じ気づいたのか、勇気のない奴は仲間になれないんだぜ」

「ここにいるみんなは、それをやったの?」

 彼等は歪んだ笑顔でお互いに目配せをした。

 しばらくの沈黙の後、彼は返した。

「ああ、みんなやったさ」

 用水路の取水口には大量の水が流れ込み、パイプの下で大きな渦を巻いている。かなり危険である事は明らかだった。

 小柄な少年は塔の上に棒を刺して、パイプをするすると下りてくる。

「さあ、やるのかやらないのか、決めな」

 彼は催促するように言った。

 僕は木の影で事の成り行きを見守っていたロマノフを見る。ロマノフは僕の挑戦には反対なようだった。そんな意義の分からない冒険に、誰かが挑もうとしているならば、僕だって止める事だろう。

 それでも、僕は迷っていた。

 それは、この冒険が、僕の人生を一気に好転させる出来事になりそうな予感がしていたからだ。

 ここで僕の勇気を示す事で、彼等は僕を対等に扱ってくれるだろう。もう、人々の視線に怯える必要がなくなるかもしれないと言う誘惑は、例えどんな危険と引き替えであったとしても、とても禁じ得るものではなかった。

「分かった。やるよ」

 彼等は、一瞬、戸惑った顔をした。

「やめるなら、今のうちだぜ」

 構わず、僕は取水口に向かって歩き始めた。

 僕の心臓は高鳴っていた。ロマノフは心配そうに後をついてきた。その後ろから少年達もぞろぞろとやってくる。

 僕はパイプの前に立った。取水口はまるで地獄への入り口と入った様相で、ごうごうと大きな渦を巻いていた。

 パイプを掴む。腕に金属の冷たい感触が触れる。僕は意を決してそれを登り始めた。なるべく下を見ないようにして、ただ頂上を目指す。下で少年達が何かを言っていたが、もはや耳には届かなかった。

 取水口の低い唸りが、ゆっくりした、それでいて力強い水流の存在を示していた。

 水流が僕を飲み込もうと下で待ち受けている事を、なるべく頭の隅に追いやった。そして、少し上だけを目指して登り続けた。

 僕は希望を信じた。

 掴んだ金属のパイプだけがそれを保障してくれるのだと、自分に何度も言い聞かせた。 緊張した腕は果てしなく同じ動作を繰り返し、頂上は限り無く遠く感じた。


 僕はあまりに緊張していたので、自分がこれ以上登る必要がない事を確認した時、それが頂上だと考えるまで、少し時間がかかった。

 塔の上に立って辺りを見回す。

 水分観測の為の設備らしく、その狭い頂上部には色々な観測器具らしいものが置かれてあった。それほど高い塔ではなかったが、塔の上からは南の貯水池が一望出来た。

 少年達とロマノフは、取水口の上から、僕の様子を固唾を飲んで見ている。

「やったんだ」

 小さく呟いた。そう口に出すと、小さな体の隅々にまで震えが来るようだった。

 なるべく興奮しないように、自分のすべき事を冷静に思い出した。

 観測器具の間に刺された小さな木の棒を抜いて脇に抱え、元の場所へ戻るため、パイプに手を伸ばす。そして、僕はもう一度高みから少年達を見下ろした。

 少年達は少し驚いたように僕を見ている。

 ロマノフは、まだ心配そうに僕を見ていた。

 僕は英雄になったのかもしれない。

 だとしたら、僕はこの契約の棒を持って自らを解放する、自由の英雄なのだ。


 突然の風が唸りを上げたのは、僕が片足を上げた瞬間だった。

 突然の事態に、不安定な態勢だった僕の体がぐらついた。近くのパイプを掴もうと手を伸ばしたが、風が足もとをすくった。

 あっ、と思った時には遅く、体は宙に浮き、水流が渦を巻く水面に引き込まれて行く。

「うあっ、助けてくれ!」

 水面に落ちた僕の体は、水流に揉みくちゃにされ、何か大きな力に引き寄せられる。

「なんてこったい」「俺は知らねえぜ」

 少年達が口々に叫んでいるのが途切れ途切に聞こえる。僕の体が強大な力で取水口に吸い込まれて行くのが分かる。トンネルは村まで続いていて、落ちればもう助からないだろう。必死に抵抗を続けたが、僕の小さな手はあまりに無力だった。

 僕の体が取水口に吸い込まれる。

『もうだめだ!』

 そう思った瞬間。後ろから大きな固まりが僕の体を押し戻すのを感じた。僕は夢中で目の前にある棒にしがみつく。

 それは取水口にひっかかった木の棒で、しばらくして、人の手が僕を掴んで引き上げるのを感じた。


      *


「ごめんよ。こんなつもりじゃなかったんだ」

 しばらく気を失っていたのか、気が付くと、僕を家に迎えに来た少年が僕を覗き込んで言った。

 彼のほか、辺りに人影はなかった。

「大丈夫かい。僕はもう、君が死んだのかと思ったよ」

 少年は今にも泣きそうな様子で言った。

「心配しないで、僕は大丈夫だよ。それよりロマノフはどうしたの」

「ロマノフ?」

「そうさ、僕と一緒にいた猫さ」


     *


 その日、ロマノフは見つからなかった。

 翌朝、用水路の出口で、溺れて死んでいるロマノフが発見された。

 水嫌いのロマノフは、僕を助ける為に自らの命を顧みず、貯水池に飛び込んだのだ。

「ロマノフも年だからな、足でも滑らして用水路に落ちたのだろう」

 庭にロマノフの墓穴を掘りながら、父は言った。

 僕は冷たくなったロマノフの腕を、いつまでも握っていた。

 僕は事件の真相を父には話さなかった。

     3



 僕を南の貯水池に連れ出した少年は、タケシと言う名前だった。

 ロマノフを葬った翌日、彼は僕の家を訪ねて来た。

 友人が僕を訪ねて来るなどと言う事は、わが家にとって初めての事件だった。

 母はたいそう興奮して、最高級の紅茶を普段は使わないティーカップに注ぎ、焼きたてのアップルパイと共に二階の書斎に運んで来た。

『ゆっくりしていってね』と言う母の言葉に、タケシは曖昧に答えた。


     *


「君にはとても悪い事をしたと思っているよ」

「………」

「あの猫は君にとって、大切な猫だったんだろう」

「ああ、ロマノフは…」

 言った所で、僕は言葉を失った。目を閉じて心を静めようと試みる。

 僕はこの先、ロマノフなしで生きていかなくてはならない。それは、とても悲しく、寂しく、そして不安な未来を意味していた。「彼女は…、とても大切な猫だったんだ」

 僕はやっとの事でそう言った。

「僕はそんなつもりじゃなかったんだ。君をあんな目に合わせるつもりじゃ」

「仕方がないさ、あれは取り引きだったんだ。危険は僕も分かっていたよ」

「いいや」

 タケシは首を振った。「アルベルトは君をからかっていただけだ」

「からかう?」

「そうだ、君は、気を悪くしないで欲しいんだけど、小人だからきっと臆病ものに違いない。だから、からかって遊んでやろうってね」

「でも、仲間にしてやるって…」

「君を対等に扱う気なんかまったくないさ。奴等は君を笑い物にして遊ぶだけなんだよ」「………」

 僕にとって、その言葉はあまりに衝撃的だった。

 僕は甘すぎた。そんなに易々と人を信じるべきではなかったのだ。そんな見返りのない賭けに命をかけ、ロマノフが犠牲になったのかと思うと、心が押し潰されそうだった。

「本当に御免よ」

 タケシは涙を流さんばかりだった。

「もういいよ。済んだ事だ」

 僕が言うと、タケシは『ありがとう』と呟いた。


 タケシが帰った後、声を出さずに僕は泣いた。

 僕のような特殊な人間が、外部に救いを求めてはならないのだ。神の救いを否定した僕が、あんな連中に救いを求めるなんて、全くどうかしていたのだ。ロマノフは、そんな馬鹿な僕の為に犠牲になった…。

 せめてこれを教訓にしようと思った。

 他人が魂の救いなど簡単に与えてくれるはずはないのだ。


     *


 その日、僕のあまりもの落ち込みをみかねたクリスは、数学の授業を中止して、お話をしてくれた。光る星の話だった。

 開拓地の人工太陽は沈むことがなかったので、僕はそれを見たことがなかったが、北の極に行けば、一日の半分は闇に包まれるので、空一面に鮮やかな星空が現れるそうだ。

「光る星だって、みんな孤独なんだ」

 クリスは言った。「見た目には近くに見える星々も、ほとんどは、お互いが光の速度で何万年もかかるぐらい離れているんだ。生まれたばかりの星も死にかけた星も、一生孤独に光り続けるんだよ」

 僕は何も言わなかった。ただ、宇宙の片隅で静かに光を放つ青白い星に思いを馳せた。 僕も光を放っているのだろうか。

 だとしたらきっと、他の星と違うおかしな色なのだろう。そして、僕は宇宙の片隅で人知れず消えて行くのだ。


     *


 それからの僕の日常は、しばらくの間あまり変化のないものとなった。

 クリスの授業はだんだん難しくなり、僕はかなり高度な物理の法則や哲学について学ぶようになった。

 次第に、授業は僕がクリスの持ってくる厚い本を読み、その内容について語り合うと言う形式になっていった。

「君は驚く程飲み込みが早いよ」

 やがて、それがクリスの口癖になった。

 その頃の僕の楽しみは、膨大な書物を読み、それについてクリスと語り合う事だけだったのだ。

 時々、タケシが僕の様子を伺いに来てくれたが、それが決してロマノフを失ったさみしさを和らげてくれる訳ではなかった。


 ともかく、あの頃の僕はそういう日常がこれからもずっと続くものだと考えていた。

 あの出来事が起こるまでは…。


     *


 その日、僕は、地を揺るがすような轟音で目覚めた。

 窓に這い上がって外を見る。

 何が起こっているのか、事態が飲み込めなかった。

 太陽より大きな火球が、ゆっくりと西の風車の方へ流れている。火球は教会の影へと消え、やがて、激しい爆発音と共に西の丘で火柱が上がった。

 すぐに村中が目覚めた。

 男達が駆り出され、一斉に西の丘へと向かう。

 母は、不安げな顔で僕の部屋に入って来ると、父が西の丘に行った事を告げた。

 母の表情に象徴された通り、僕達は何か悪い事が起こりつつあるような不吉な予感を抱えて、父の帰りを待った。


    *


「なんてこった」

 父は首を振りながら帰って来た。「なんてこった」

 父は食卓の椅子に腰掛け、母が差し出す水を一気に飲んだ。「政府軍の軍艦だったよ。生存者がいてね、診療所に収容したのだが…。革命軍がもうすぐそこまで来ているらしい。地球政府は月の前線基地をも失い、敗走中なのだそうだ。いずれ、この開拓地も革命軍の手に落ちるかもしれん」

「そうなるとどうなるの?」

 母は不安げに聞いた。

「分からない」

 ただ、父は首を振る。


     *


 翌日、西の丘に政府軍の救急船が負傷者の収容にやって来た。救急隊と共に降り立った軍服姿の男が、村長との面会を求めた。

 夕方、救急船が軍艦の生存者を収容して去っていった後、村長は広場に村人を集めた。 

 僕も父や母と共に出かける事になった。

 広場には四百人程の村人全員が集まっていて、口々に政府軍の戦況と開拓地の将来について話していた。

 やがて村長が壇上に上がり、広場は静まり返る。村長は先日の政府軍の軍艦の不時着についての説明と救助活動への協力の礼を述べ、政府軍の戦況について話した。

「さて、本日お集まり頂きました、最も重要な要件について話さねばなりません」

 村長は改めてそう言った後、しばらくの沈黙をおいて口を開いた。「この村から十人の徴兵を行うように要請がありました」

 広場の人々がざわめいた。村長はそれを制するように沈痛な表情で続けた。「徴兵は志願制で行います。期限は三日後。迎えの艦が来る事になっています」

 村長はそう言い終えると、静かに演壇を降りた。

 その後も、村人は、口々に話しを続けていた。


     *


 翌日、クリスが大きな鞄を抱えてやって来た。クリスは父と母を前にして、徴兵に応じるつもりである事を告げた。

 開拓局と言う地球政府の機関から派遣されたクリスが、革命軍との戦いに参加するのはある意味では当然だったろうし、開拓地にいながら農地も持たず、仕事のない状態にあるクリスが、村にいずらかったのも事実だったろう。

 父はクリスの手を握り、肩を叩いた。

 クリスは授業が続けられない事について、僕に詫びた。

「でも、君は学び続けなくてはならない。学ぶことは人間の使命なんだ」

 クリスは僕に手を差し出した。僕はクリスの細い指を握った。「君はとても優秀な生徒だった。平和になれば、地球の大学に行くといい」

 僕はクリスに礼を言い、彼は鞄を置いて去って行った。クリスが去った後、プレゼントだと言うその鞄を開けてみた。

 鞄の中味は学術書や様々な文学全集だった。

 クリスは大学時代、生物学が専門だったので、動物や植物の百科事典や、生物学の専門書も多かった。

 何冊もあったので、僕は夢中でページをめくり続けた。

 彼の本の中には、想像上の生物について書かれた本もあった。世界の文献から集めた幻想生物とその文化的背景について考察を加えた書物だが、その最初のページに僕の関心は引き寄せられた。

 一番最初のページは天使と妖精だった。村の人が僕の事を天使の子と呼んでいる事は知っていたが、僕は天使がどんなものかも知らなかった。

 天使は、頭に輪があり、背中に羽が生えた裸の少年だった。(雄でも雌でもないと解説にあったが)妖精は、それを小さくした感じの少女だった。

 僕は、本当はこういう姿に生まれるべきだったのかもしれないと思った。


     *


 村人が見つめる中、十人の若者を乗せて政府軍の小形輸送機が飛び立って行った。クリスを見送ったのは僕達の家族だけだった。

 村長は、口を強く結んだ表情を全く変える事なく、消えていく輸送機をじっと見つめていた。村長の二十四になる息子も、その輸送機に乗っていたのだ。

 アルベルト(僕を南の貯水池に呼び出した少年)はあたりをはばかる事なく、大きな泣き声を上げていた。アルベルトの兄も徴兵に応じたのだと、後になってタケシから聞いた。 クリスは小さな鞄を一つ持っていた。グリーンのジャケットのポケットには読みかけのペーパーバックが突っ込んであり、その姿は戦争に行くと言うよりは、旅行に行くと行ったような印象だった。

 彼は僕に笑顔で手を振って、タラップを登って行った。

        4



 それから、僕は部屋でクリスからもらった書物を眺めて過ごしていた。

 ロマノフを失い、クリスのやって来ない僕の生活は単調そのものだった。一日中の退屈の為、憂鬱で無気力になって行く自分を感じていたが、どうする事も出来なかった。

 ある日、僕を訪ねて来たタケシが、僕にある提案をしてくれた。

 タケシは僕に学校に来る様に勧めてくれたのだ。彼は学級委員をしているそうで、先生に僕の事を話した所、本人が望むならそうした方がいいと言われたという事だった。

 その時、僕は曖昧に頷いただけだったが、正直、彼の話にはかなりの興味をかきたてられていた。


 タケシが帰った後、僕はキッチンでシチューを作っている母の所へ行った。

「僕、学校に行ってみようと思うんだけど」

 母は鍋を掻き混ぜる手を止めた。

「学校?」

「今日、タケシが言ってくれたんだ」

 母は喜んでいるようだったが、同時に、少し不安気な表情を浮かべた。

「とても、いいアイデアだと思うわ。でも、あなたは今まで、一度も大勢の子供達の中に入った事はないし、それにあなたは…」

 そこまで言って母は口籠った。逆に僕は、口に出してしまった事で、随分不安が和らいでいた。

「だからこそ挑戦が必要だと思うんだ」

 僕の力強い言葉に母は目を丸くした。

「あなたがそんな事言うのは初めてだわ」


 その後の母は、とても上機嫌だった。

 母も他の子供と違う家に籠もりっきりの僕を持って、ひけ目を感じながら生きていたに違いない。僕が人並みに社会に溶け込んでいく事を、きっと心の中で望んでいただろう。 僕もなんだかとても嬉しい気分になった。

 帰って来た父はさらに喜んで、倉庫にある地球製の年代物ワインを持ってこさせた。

 夕食では、神に祈りを捧げた後、僕のコップにもワインが少しだけ注がれ、乾杯が交わされた。僕はその赤紫の液体を少し口に含んでみた。甘いような苦いような不思議な味がした。

「実は、僕にできるか少し不安があるんだ」

 僕が言うと父は大きくうなずいた。

「何でも、最初の挑戦と言うのは不安が付き物だよ。おまえはとても優秀だとクリスも言っていたじゃないか。きっとうまく行くさ。そう信じる事が一番大切だよ」

 食卓はとても明るい雰囲気だった。ワインも手伝ってか、僕はとてもいい気分だった。 その日、僕は少し興奮した気分で寝床についた。なかなか寝付けなかった。

 僕は今日のいい気分を思いだしながら、閉じられたカーテンの隙間から差し込む、人工太陽の光がつくる小さな日溜まりを眺めていた。


    *


 翌日、学校の先生が我が家にやってきた。

「私は五年生のクラスを担当しているアンソニーと申します」

 五十歳ぐらいのその銀髮のスコットランド紳士は、母に礼儀正しく挨拶をした後、僕の方を向き直った。

 彼は小柄ながらがっちりとした体格をしていた。彼の固く閉じられた口もとや、まっすぐ僕を見つめる目は、心の内に秘められた強固な意思を感じさせた。

「君は一度も学校に通った事がないんだね」

「そうです」

 緊張気味に僕が答えるのを見て、彼は表情を崩して言った。

「君にとっては新しい挑戦だろう。心配しなくても大丈夫だよ。意思と努力があれば、必ず道は開けるものだからね」


 その後、一同はテーブルについた。アンソニー先生は、紅茶を一口飲み、ティーカップをテーブルに戻して言った。

「もちろん、学校は一年生から始めるものですが、タケシ君から、彼はずっと家庭教師によって学んでいたと聞きました。彼の年齢なら普通は私のクラスに編入してもらう事になります。御両親の側に何らかの希望がありましたら、承りますが」

「息子は、本当に五年生の授業について行けるのでしょうか?」

 母は不安気な様子で聞いた。

「もちろん、私共もその点は心配があります。そこで、彼に試験を受けてもらおうと考えておるのですが」

「その試験と言うのは…」

「とても基本的なテストです。決して彼の能力を疑う内容ではなく、授業についてこれられるだけの知識があるかについて確認するだけの物です。できれば、今度の土曜日の午後に行おうと思うのですが、いかがでしょう」

 そうして、僕が学校で試験を受ける事が決まった。


    *


 土曜日、昼食を食べた後、僕を迎えに来てくれたタケシと一緒に学校に向かった。

 学校は広場を越えた街の反対側にある。

 僕はまだ一度も学校を見た事がなかった。

 少し緊張しながらタケシの後を追い、石畳の道を進んだ。背中のリュックに、クリスが作ってくれた僕用の鉛筆を背負っていたが、その重さすら感じなかった。

「ここが学校だよ」

 タケシが言った。

 僕は学校を見上げた。芝生の丘の上に、白い木造の二階建て校舎が建っていた。なだらかな緑のスロープの中に、校舎へ向かう石畳が続いている。

 先を進むタケシについて、学校への坂道を歩んだ。心地良い風が僕の頬に触れ、所々に咲いた黄色や白や紫の花々が、まるで僕を歓迎しているようだった。

 学校が近づくにつれ、僕の胸は不安に高鳴った。これからここで行われる試験について、そして、その後に始まる新しい日常について。

 後悔する事はないだろうか。

 僕は引き返したい気分にもなったが、遂にその決断を下す事ができなかった。

 タケシが教室の扉を開けると、窓際のアンソニー先生が一人の女生徒と何か話しているのが見えた。

「やあ、待っていたよ」

 アンソニー先生は僕に微笑みかけ、言った。

 しかし、僕の注意は彼よりも傍らにいるブロンドの少女に向けられていた。色白でほっそりした彼女は、青く澄んだ瞳で僕に微笑みかけた。

「彼女はエレーナさんで、タケシ君と一緒にこのクラスの学級委員をしてもらっている。今日は君の試験の手伝いをしてもらう事になっているんだ」

「あなたが私達のクラスの仲間になる事を祈っているわ」

 彼女は綺麗な笑顔でそう言った。

 僕は今まで、そんな素敵な笑顔を見た事がなかった。

「タケシ君、今日はもういい。ありがとう」

 先生は扉の所に立っていたタケシに言った。

「それじゃ、がんばれよ」

 タケシは僕に言う。

「うん…、ありがとう」

 僕が頷くと、タケシは教室を去って行った。


     *


「さあ、試験を始めよう。席についてくれたまえ」

 僕は先生が示した一番前の机によじ登る。 先生は僕の机に一枚の紙を置き、黒板に算数の問題を書き始めた。「この問題を三十分で…」

「先生、できました」

 先生が黒板に全ての問題を書き終わるのと、僕の解答が終わるのは、ほぼ同時だった。唐突に僕が答えたので、先生は目を丸くし、僕の答案を拾い上げた。

「君は家庭教師から数学を習っていたのかね」

「ええ、数学と生物と物理と歴史と文法と哲学と…」

 先生は僕の机に答案を戻し、眼鏡を外した。

「全て正解だ。特に五番の答え方は上級学校で習う方法だよ。おめでとう合格だ。君の実力は十分に分かった。後の試験はもういいだろう」

 先生は笑顔で僕に右手を差し出した。僕は両手でその手を握った。

「ありがとうございます」

 僕が言うと、アンソニー先生は何度も頷いて答えた。とても誇らしい気分だった。

「エレーナさん。彼を家まで送って行ってもらえるかね」

「ええ、構いません」

 エレーナは僕が机から下りるのを手伝ってくれた。彼女の手は軟らかく、肌は透き通るように白かった。


    *


「あなたって頭がいいのね」

 エレーナは、陽射しを避ける為に白い日傘を差し、白いつやのある素材で出来た手袋をしていた。

「別に頭がいいとかそういう事じゃないよ、知っている事を答えただけだよ」

「あなたって、面白いわ」

 エレーナは笑った。僕には彼女の笑いの意味が分らなかった。

「僕は他の子供の事をよく知らないけど、別に面白いとは思わないよ」

 そう言うとエレーナはクスクスと笑う。

「そういう所が面白いのよ」

 僕はエレーナを見た。

 エレーナは相変わらず笑っていたが、僕はどうしていいか分からずに、俯いてしまった。



     5



 土曜日、試験から帰った僕は、興奮して、キッチンの母に学校での出来事を何時間も話し続けた。

 タケシやエレーナがとても親切にしてくれた事や、試験の問題がとても簡単で、僕の出来の良さに、先生が答案を見るなり即座に合格を言い渡した事などを得意になって話すと、母はとてもうれしそうに聞いていた。

 そして、時々感極まった様子で『まるで、夢のようよ』と繰り返した。

 父は仕事から帰り、母から僕の話を聞いた。

 父は僕の頭を撫でながら、自分の息子として誇りに思う、と僕を誉め称えた。

 そして、彼は食事の前の祈りの言葉に、息子の成功に対する、神への感謝を付け加える事を忘れなかった。

 僕はとてもいい気分だった。

 どうして、もっと早くにこうしておかなかったのかと思った。

 僕はわくわくする気持ちを押さえながら日曜日を過ごした。今回の事で、神と言う者に感謝をしてもいいと思ったが、同時に彼が日曜日を安息の日とした事を憎んだ。

 とにかく、早く月曜がやって来る事を望んでいた。

 その時はそれが、僕の人生を変える記念すべき日になる様に思えていたのだ。


     *


 月曜日、机に座って先生を待つ僕は、昨日までとは全くの別人だった。

 まだ教科書がない為、タケシの隣に座った僕に、クラスメイト達は容赦のない視線を浴びせた。

 クラスのあちこちで僕の話を、ある者は小声で、ある者はおおっぴらに話している。

 ある少年は僕の前に立ち「変な奴」と短く言って立ち去った。

 一人は黒板の前から僕の方へ、大きく手を振りながら歩いて来た。彼の手が頬に当たりそうになり、慌ててそれを避けた。

「悪いな」

 彼は唇の端を歪ませて言う。「小いさ過ぎて見えなかったんだ」

 別の少年が言う。

「小さすぎて虫眼鏡がいるぜ」

 クラスの中にクスクスと言う笑いが起こった。

 僕はタケシの方を見た。タケシは黙って下を向いていた。


    *


 一時間目は物理の時間だった。

 授業の中頃、ある問題に誰も答えられなかった。それは滑車を使った少し複雑なてこの原理の問題で、僕はすぐに分かったが、クラスの空気を計りかね、答えるのをためらった。「誰も分からないのかね」

 先生が言ったが、みんなは黙っている。

「はい」

 少し迷ったが、思い切って手を挙げた。

 クラスの視線を感じながら、僕はできるだけ何も考えないで、解答とその理由を説明した。

 先生は黙って聞いていたが、僕が答え終わると静かに微笑んだ。

「正解だ。ありがとう。今の話を少し分かりやすく説明しよう…」

 僕はクラスを見回した。みんなが少し驚いている様子が分かった。悪い雰囲気ではなかった。僕は何だか救われた気分で席についた。

 

    *


 体操の時間は見学をする事になった。

 男の子たちはクリケット、女の子たちはテニスをしていた。楽しそうに見えたが、僕なんかにできるはずもなかった。

 エレーナも見学をしていたので、思い切って話かけてみる事にした。

「どこか悪いの?」

 彼女は陽射しを避けるように校舎の影に座っていたが、弱い太陽の光でも透けてしまう程、彼女の肌は白かった。

「いつもなの。体操の時間は」

「ああ言う事をすると、きっと楽しいんだろうね」

 僕はグラウンドを指差して言ったが、エレーナはその質問には答えず、透き通る瞳を僕に向けていた。

「あなたが解いた、物理の問題。みんな感心していたわ」

「ちょっと複雑になっていただけさ。ゆっくり考えれば、みんな解けたさ」

「でも、答えたのはあなただけだった」

「………」

 何て答えればいいのか分からない。

「何かお話ししましょう、あなたの話が聞きたいわ」

 僕は戸惑った。同じ年頃の女の子と話すのは初めてと言ってよかったし、エレーナが僕に何を期待しているのか、分からなかったからだ。

「何を話していいか分からないんだ」

 僕は彼女に、僕の戸惑いを正直に話した。「何でもいいの。あなたの知っている事や興味のある事や…、何だって」

 僕は少し考えた末に、最近読んだニーチェ哲学について話す事にした。神の観念の無力さを認めるべき事や、人の永劫性、超人たるべき自我について説明し。さらに、超人の概念については、むしろゴーダマ・ブッダの方が完成されている様に思うと、自分の見解を付け加えた。

 彼女がこんな話に興味を持つのかはなはだ疑問だったが、僕は夢中で話し続けた。

 彼女は黙って僕の話を聞いていた。

「面白くなかったかな」

 話し終えた後、不安になった僕は、エレーナに聞いた。

 エレーナは首を振って答えた。

「少し難しいけど、私、そういう話は好き」

「よかった。僕はてっきり君が退屈なんじゃないかと、気にしていたんだ」

 エレーナは微笑みながら、僕を覗き込む。

「そういう事はどこで習ったの?」

「家庭教師に来てもらってたのと。本で読んだんだ。なにしろずっと家にいたからね。ずいぶんたくさんの本を読んだよ」

 その時、終業の鐘が鳴り、みんなが道具を片付け始めた。エレーナも立ち上がった。

「ありがとう。これからも体操の時間、私の話し相手になってくれる?」

「僕の話でよければ」

 エレーナは歩き始め、しばらくして僕を振り返った。

「また、ああ言う話を聞かせてね」

 彼女の笑顔を見て、僕もうれしくなった。

 

    *


「うまくやっていけそうかね」

 放課後、アンソニー先生に呼び出された僕は、職員室へ行った。

「まだ、よく分かりません」

 僕が言うと、先生はうなずいた。

「君は学校は好きかね」

 僕の脳裏にエレーナの事が浮かんだ。彼女と毎日会えるとしたら、それは楽しい事のように思えた。

「楽しそうな、気がします」

 それを聞いて、アンソニー先生は微笑んだ。

「そうかね、それなら大丈夫だよ。君には学校に来る権利があるんだ。君が望むならその権利は私が守る。約束しよう。何か問題があったらいつでも私に言いなさい」

 アンソニー先生は僕に手を差し出した。

「ようこそ、今日から君は我が校の一員だ」

 僕はその手を両手で握った。


 僕は帰り支度をして教室を出た。

 グラウンドで数人の生徒がサッカーをしている以外は、すでに殆どの生徒が下校してしまい。校舎の中はがらんとしていた。

 誰もいない廊下に、僕の足音がひたひたと響いた。校庭を抜けて校門へ向かう。

 西の丘に達した太陽が校庭を明るく照らし、時計塔が長い影を作っていた。


「よお、ちょっと待てよ」

 校門を出た所で数人の少年に囲まれた。いつか貯水池に僕を呼び出した少年達だ。アルベルトと言う少し太った少年が僕に言った。「どういうつもりかは知らんが、おれ達はおまえを仲間としては認めねえ」

「僕はあの時、南の池で棒を取ったよ。棒を取ったら仲間にする約束だったじゃないか」 僕は精一杯に胸を張って言い返した。

 こう言う事は想定できたし、彼等に負けたら、もう二度と学校に来れなくなると思った。「チビ、よく聞け。おれはおまえに取って来いと言ったんだぜ。それをおまえは不様に池に落っこちて『助けてくれ』だってよ…」

 そう言ったアルベルトは声を上げて笑った。

 周りの少年も口々に『野郎、小便ちびってやがったぜ』とか、甲高い声で『ママー、助けてぇ』等と叫びながら、品性のかけらもないような笑い声を上げている。

「君達に認めてもらう必要なんてないね。僕はただ学ぶために学校に来るんだ」

 それでも、彼等は僕を無視して笑い続けた。

「…とにかく、おれはてめえのようなネズミ野郎と、机並べてお勉強などまっぴら御免だって事よ。ようく覚えときな」

 最後にそう言って、アルベルトは立ち去った。
















  

     6



 翌日、教室は異様な雰囲気に包まれていた。

 教室に入る前、タケシは僕を物影に呼んで自分の無力さについて詫びたが、その意味について理解したのは、随分時間がたってからだった。

 教室には三分の二の程の生徒が来ていたが、僕が入るとすぐに教室はしんと静まり返った。

「おはよう」

 僕は机に座り、隣の生徒に話しかけてみたが、反応はなかった。後ろの女生徒も僕と目を合わさないようにしている。

 やがて僕は、アルベルトの手下の少年達が扉の前に立ち、新しく入って来る生徒に何か耳うちをしているのを見つけた。言われた方は黙って頷いたり、明らかに僕を避けるようにして自分の席に着いたりしていた。

 みんな、僕を見ないようにしていた。

 みんなで僕を無視する気なのだ。

 僕はアルベルトを見た。アルベルトは卑屈な笑いを浮かべながら僕を見下ろしていた。

 僕は事情を理解した。そして、僕は大きく動揺していた。アルベルトが何かしてくる事は分かっていた。しかし、それ以上に、僕にとってショックだったのは、クラスの全員がアルベルトの側にいると言う事実だった。

 やはり、僕は招かざる客だったのだと思った。僕はこの事を昨日のうちに気付いておくべきだったのだ。

 僕は帰り支度を始めた。そして二度と学校には来れないだろうと思った。

 やはり学校は、僕のような者の来るべき所ではなかったのだ。

 僕は鞄を持ち、机から降りようとした。


     *


「相手にしてはだめよ」

 頭上から声がした。見上げるとエレーナが立っている。「みんなどうかしてるのよ」

 僕はエレーナを見た。エレーナの存在は、僕にとって何よりも心強いはずだった。

 エレーナがいる限り、どうにかなる。

 僕は自分に言い聞かせて机に戻った。

「大丈夫、平気だよ」


     *


 数学の時間、アンソニー先生の見ていない時を見計らって、彼等は僕に物を投げて嫌がらせをしたが、僕はそれを無視し続けた。

 ある問題で、僕は手を上げた。

 僕が問題を解くと、アンソニー先生は僕の言った事に大きくうなずき、黒板に式を書き始めた。

「間違いではないが、しかし、こう言う解きかたもあるのだよ」

 そう言って、アンソニー先生が振り返って僕を見たのと、僕の背後から紙屑が飛んで来たのはほぼ同時だった。紙屑は僕の体に当たって、机の上に転がった。

「なんだね。それは」

 アンソニー先生が目を丸くする。

 僕が紙くずを広げて見ると『生意気な奴』と書いてあった。それを拾い上げたアンソニー先生の顔色が変わった。

「誰がやったのかね」

 先生は一番後ろの席の少女に歩み寄る。

「君の席からなら見えたはずだが」

 気の弱そうなその少女は、俯いたまま『見てません』と小さく呟いた。

「じゃあ、君は」

 少年は間髪入れずに言った。

「分かりません」

「先生」

 その時エレーナが立ち上がって一人の少年を指差した。「マイケルが投げました」

 マイケルは当惑したような表情を見せた。

「君かね」

 アンソニー先生が言うと、マイケルは泣き出しそうになって、助けを求めるようにアルベルトを見た。

「僕は…、その…」

「言い訳はいい。質問に答えたまえ」

 マイケルは下を向いたままうなずいた。「もういい。座りたまえ」

 アンソニー先生は教壇に戻った。「ここには大勢の思い違いをしている者達がいるようだ。確かに紙を投げたのはマイケルだ。しかし、それを黙って見過ごしている者も、彼と同じ事をしているのだよ」

「先生」

 タケシが立ち上がった。

「みんなは彼と口を利かないように言われ、僕もそれを守りました」

「そうなのかね」

 先生は全員に聞いた。誰も何も言わなかった。「よろしい。謝罪すべきと思う者は謝罪したまえ。そして、立ち去るべき者は今すぐ去りたまえ」

 アンソニー先生は教室を見回した。「昨日、私は彼と話をした。そこで私は、彼の学校に来る権利を守る事を約束をした。だから、私はその約束を果たすつもりだ。彼が学校に来る権利を認めない者はすぐにこの場を立ち去りたまえ。他人の権利を認めない者に、自分の権利などないのだ」

 アンソニー先生の口調は静かだったが、彼が本気で怒っているのは明らかだった。みんなは先生に圧倒されている様子だった。


     *


 それからしばらくして、生徒達が一人づつ立ち上がり、僕に謝罪をした。僕はこう言うのに馴れていないのでかなり戸惑った。

「これで全員かね」

 ひととおり生徒が謝罪を終えると、先生はみんなに確かめた。アルベルトは依然、知らん顔を決め込んでいた。

 それでも、先生は構わずに続ける。

「よろしい。君達の良心が決める事だ。誰も強制はできない。しかし、神と自らを偽る者は、必ずその罪に苦しむ事を忘れてはならない」

 そして、先生は僕に微笑みかけた。

「どうだね。彼等を許してやってくれるかね」

「ええ、もちろん」

 僕は答えた。

「そうか、では授業に戻ろう」

 そうして、先生は数学の授業を続けた。


     *


「面白くねえ」

 授業が終わり先生が去ると、アルベルトは僕の席に来て、そう悪態をついた。

「僕のせいじゃないさ。もとはと言えば君が始めた事なんだ」

 アルベルトは、僕の顔をしげしげと見つめた後で、もう一度ゆっくり言い直す。

「面白くねえぜ。ネズミ野郎」

 アルベルトはそう言って教室を出た。

「気にするなよ」

 アルベルトが去った後、タケシが言った。「それより、昼休み僕らと卓球をしないか」

「僕と?」

 「卓球なら君にもできるだろう。どうだ、ミハイル」

 タケシは僕の隣の席の少年に言った。

「いいとも」

 ミハイルはタケシにそう言った後、僕の方を見て言った。

「構わないかな?」

「もちろんだよ」

 僕は慌てて答えた。


      *


 僕はその日、意気揚々として家に帰る事ができた。僕は長い間、友達と遊んだ事なんてなかったし、初めてやった卓球はとても楽しかった。それは、家にいて本を読んで、母親の作ってくれたお菓子を食べるのとは、全く違った楽しみだった。

 しかし、更に僕を幸福にしたのは、クラスの雰囲気が僕を受け入れる方向に傾いていると言う感触だった。もちろん、まだ、みんなの心の中には、僕に対する違和感の様なものがあるに違いなかったが、それでも、彼等はできるだけ理性的に僕と接しようとしてくれていた。

 僕は人並みに知性があるつもりだし、彼等に危害や面倒をかけるつもりはない。普通に接してくれさえすれば、何も問題はない筈なのだ。


     *


 その日の事を母に話すと、母はたいそう喜んだ。しかしすぐに、どうして昨日アルベルト達に囲まれた事を自分に話さなかったのか、僕を責めたてた。

 彼女は今日の事も、もっと早く先生に話して、みんなを注意してもらうべきだったと考えているらしかった。

 僕は母の言い方に少し不満を持った。僕は母が考えるよりずっと強いのだと思ったのだ。 少なくともその日の気分は、僕にそういう自信を持たしてくれていた。

 だから、アルベルトが謝らなかった事は、母には話さなかった。


      *


 その日の始業前。

 沈痛な顔のアンソニー先生は、教室にやって来るなり、みんなを席に着かせた。

 先生はみんなが静かになってから、ゆっくりと話を始めた。

「この中にも兄弟を兵隊に取られた者もいると思います。彼等は私達の仲間であり、開拓団の同志であり、そして何より、かけがえのない友人でありました」

 先生は少し間を置いてから、再び口を開いた。「今、私はとても悲しい知らせせねばなりません。…彼等はもう戻らないのです。三日前、私達の村の若者達は戦死しました」

 アンソニー先生は、三日前に政府軍の人工惑星要塞がミサイル攻撃を受け、守備隊が全滅した事。そして村から徴用された兵士が、みんなそこに配属されていた事などを話した。「私は怒りを感じます。彼等は何故に死なねばならないのか、殺し合ってまで我々が守るべきものなど、何があるのか。私は彼等の死を名誉とは思いません。彼等は彼等と関係のない者達により、死を押し付けられたのです」

 先生の声は震えていた。何を言っていいのか分からず、みんな、静まり返っていた。

 僕はクリスの事を考えた。

 クリスは、戦いとは無縁の平和的な青年に見えた。だから彼が銃を持って戦い、死んで行ったと言う事がうまく想像できなかった。

 でも、それは事実なのだ。

 僕はもう二度と彼とは会えないのだ。

 僕は、彼が僕に地球の大学に進学する事をすすめた時の笑顔と、手の温もりを思い出していた。


     *


 授業は中止となり、広場で合同葬儀が行われる事になった。

 息子を亡くした村長が、それでも毅然と弔辞を述べた。彼は、息子達の死は正義の為に尽くした名誉の戦死であったと言ったが、それが嘘である事は集まった村民だけでなく彼自身が知っていた。

 葬儀の間中、すすり泣く声以外、誰も口を利こうとはしなかった。

 地球の問題をこの平和な開拓地に押し付けられる事には、みんな怒りを感じていたのだ。「馬鹿馬鹿しい」

 葬儀から帰るなり、父は声を荒げた。


     *


 翌日は喪に服す日とされ、学校が始まったのは二日後だった。

 兄を失ったアルベルトの憔悴は誰の目にも明らかだったが、誰も何て声をかければいいのか分からなかった。彼は授業中も俯き、何かを考えている様子だった。


 昼休み、僕は校舎の影に座っているアルベルトを見つけた。彼はフットボールをしている仲間の方を、ぼんやりと眺めていた。

「ネズミ野郎か」

 アルベルトは僕を見つけて言った。「いい気味だと思ってやがるんだろ。畜生。からかいに来たのか」

「いや、そんなつもりはないよ。ただ、通りがかっただけだ」

「ケッ、くそったれ」

 溜め息を漏らして、彼は自嘲気味に笑った。

 僕は、言葉を捜した。

「何て言ったらいいか分からないんだけど、とにかく気の毒に思うよ。僕の家庭教師をしていたクリスも死んだんだ」

「………」

 アルベルトは何も言わなかったので、僕は続けた。

「昔読んだ小説にこういう言葉があるんだ。主人公の葬式で牧師が言う言葉なんだけど、『人は神に愛された者から順番に死んで行くのだ』って言うのをさ」

「うるせえよ」

 アルベルトは僕を見ずに言った。僕は悪い事を言ったのかもしれないと思った。

「気に障ったら悪かったよ」

「ああ、気に障るぜ。その話が正しければ、不様な姿のてめえなんぞは、俺の倍は生きるんだろうぜ。ハハハハ…」

「…………」

 僕は、そのまま立ち去ろうとした。

「おい、ネズミ野郎」

 僕の背中をアルベルトが呼び止めた。「みんながやさしくしてるからって、あまり調子に乗るんじゃねえぞ」

 僕はアルベルトを見た。アルベルトは続ける。「誰もてめえのような変人を受け入れやしねえんだ。タケシは小心者。エレーナはいい子ぶってるだけだ。すぐに分かるだろうよ。そのうち、奴等の化けの皮がはがれら」

「………」

 僕は、哀れで卑屈なアルベルトの姿に、一種の同情すら感じながら、その場を後にした。「おれは正直な人間だ。まあ、感謝するんだな」

 アルベルトは最後に吐き捨てた。    







    7



 政府軍が人工惑星より撤退した事で、開拓地は丸裸同然となった。

 もちろん、革命軍がやって来れば、村に戦う武器など何もない。

 そして、革命軍の侵攻は時間の問題だった。

 革命軍の影をよそに、僕達は毎日学校に通い、いつも通りの授業を続けていた。

 僕にとってはとても楽しい時期だった。クラスのみんなとも打ち解け、授業中ものびのびと発言した。

 僕はどうやら同じ年代の子供に比べて驚くべき程の知識を持っているらしく、僕の発言にみんなは驚嘆し、それはやがて、僕に対する一定の敬意となって現れた。

 僕が『博士』と言うあだ名で呼ばれるようになったのはその頃だ。

 でも、それより楽しく思ったのは、エレーナといろいろな話をしたりする事だった。

 僕達は放課後や休みの日まで一緒に過ごす様になっていた。

 放課後、エレーナはよく音楽教室でピアノの練習をした。そんな時、僕は鍵盤の端に座り、彼女がピアノを弾く様子を飽きる事なく眺ていた。

 彼女のしなやかな細い指が音符を紡ぎ出し、軽ろやかにメロディを奏でる様は、まるで魔法の様だった。

 ある日、それを彼女に言うと、彼女はおかしそうに笑った。

「魔法なんかじゃないわよ。練習すれば誰でもできるようになるのよ」

「とても、そんな風には思えないよ」

「弾いてみる?」

 彼女は透明な瞳で微笑みかけた。僕の手を取り、鍵盤の真ん中に引き寄せる。「いい?私が弾くように鍵盤を踏んで」

 彼女はそう言って、ゆっくりと旋律を弾き始めた。僕は彼女の指を見て、その通りに鍵盤の上を飛び回った。

 僕が足で踏むと、ピアノはやはりちゃんと鳴った。最初はあまりうまく行かなかったが、何度もやっているうちに序々に彼女が弾くメロディに近付くのが分かった。

 僕は何だか楽しくなって、夢中で鍵盤を踏み続けた。

「今のメロディを続けていて」

 僕がある程度弾けるようになると、彼女はそう言って、僕をガイドしていた手を低い音の鍵盤の方へずらし、僕の弾くメロディに伴奏を付け始めた。

 最初は僕が間違えたりしていたが、慣れて来て、僕がだんだんスムーズに弾けるようになると、エレーナの伴奏もだんだん複雑で軽快なものに変化していった。

 僕は音楽の上で軽やかに踊っていた。

 エレーナの横顔が、リズムを取りながら軽く揺れている。太陽の光が彼女の長い髪に反射して、きれいな横顔が光の中に浮かび上がっていた。エレーナは時々、僕の旋律を確かめるように僕の方を見た。

 僕の奏でる音とエレーナの奏でる音が、美しいハーモニーを作ってピアノから紡ぎ出されている。

 僕にはやはり、それは魔法のように思えた。

     *


 休日には二人で散歩に出かける事もあった。

 そんな時、僕達は西の丘の上に登り、一面に広がる麦畑を眺めながら一日を過ごした。

 僕達は色々な話をして、エレーナの作ったサンドウィチを食べ、そして少し疲れると、午後の人工太陽の陽射しを避けるように木陰で昼寝をした。

「ねえ」

 エレーナは目を閉じたまま寝言のように呟く。「あなたといると何だかすごく楽しいの、できればずっと一緒にいたいわ」

 僕がうなずくと、彼女は静かに微笑む。

 僕はエレーナの膝にもたれるようにしてまどろんだ。そして、エレーナとこうやってずっと一緒にいられたら、きっと幸せだろうな、と思い、そういう生活を想像しながら眠りの中に落ち込んでいった。

 羊飼いに飼われた羊たちは、僕達の周りでゆっくりと丘の草を食べ、開拓地の心地好い風は、二人の体を包んで緩やかに流れていった。


     *


 しかし、そういう日々が長くは続くことはなかった。

 ある日、眠りの時間にあった僕は、けたたましい拡声器によって叩き起こされた。

 拡声器の声が、村人は全員、至急広場に集まるように、と繰り返し告げていた。

 窓の外を見ると、制服を着て銃を抱えた男達が、二人一組で村の家々のドアを激しく叩いて回っていた。

 それが、革命軍だった。


     *


 村の広場の演壇には、村長と一緒に、制服を着て帽子を深くかぶった、背の高い神経質そうな男が立っていた。

 男は村長から革命軍の司令だと紹介された。

「君達は幸福である」

 村人を前にして、彼は甲高い声で演説を始めた。「君達は偉大なる皇帝陛下の御命によって、本日より、搾取的な旧地球政府からの解放が約束されたのだ。革命に賛同せよ。革命に参加せよ。旧態たる非合理を打破し、迷信を否定せよ。皇帝陛下の御恩に報い、革命を支持せんとする者は、革命の発展的推進により、自らもに最大の富と幸福を与える事ともなろう…」

 彼は延々と演説を続けた。村民は彼の演説の為ではなく、銃を抱えて自分達を取り囲む兵隊に怯え、沈黙を続けた。


 彼等が革命と銘打って最初にした事は、教会を焼き払う事だった。彼等は村民を教会の前に集め、牧師に神の否定と自らの特権階級の放棄を宣言する事を要求した。

 しがない田舎牧師が特権階級かどうか、はなはだ疑問だったが、飲んだくれの彼は突然の事態に震えながらあっさりと神を否定した。

 村民が見守る中、彼等は教会の周りに油を撒き、火を放った。

 火はまたたく間に巨大な炎となり、教会を包んだ。黒い煙が立ち登り、崩れ落ちる教会の奥の聖母像が、炎によってみるみる黒く焼かれていくのが覗き見えた。

「なんと言う事だ」

 父は目を閉じて呟いた。


     *


 翌日から、学校の授業は午前中だけとなり、午後は子供達にも労働が要求された。

 教育は革命軍から派遣された教育官と言う軍服の男がおこない、それまでいた先生達は学校を追われた。

 先生達は自分達が知識を独占した特権階級で、労働者から無意味な教育で搾取を行なった事を謝罪し、労働を賛美する事を求められた。

 アンソニー先生は労働の賛美には異論はないとしながらも、自分は無意味な教育などしたおぼえはない、と主張して逮捕された。

 教育官は革命の歴史や正当性、皇帝の慈悲とそれに対する尊敬について高圧的に教えた。 質問や反論は許されなかった。僕は彼等から、労働のできない有害な人民とされ、事あるごとに非難された。

 ある日、タケシが勇気を振り絞り、僕が科学や哲学に造詣が深く、有害な人間ではないと発言したが、教育官は机を蹴飛ばしタケシを殴り付け、そういう思想こそが腐敗を生むと一喝した。

 それからは誰も何も言わなかった。


     *


 彼等は反革命的と言う名目で何人かの村人を逮捕した。そして、彼等は村の外れに連れていかれたまま、二度と帰っては来なかった。

 村外れは立ち入り禁止にされたため、真相は誰にも分からなかったが、もはや彼等が生きて戻らぬ事は誰にも容易に想像できた。


     *


 例外的に、アンソニー先生が釈放された。

 先生の釈放は広場に村人を集めて行われたが、その姿は人々に少なからず衝撃を与えた。

「まず、私は革命軍に感謝をせねばならないでしょう」

 釈放に際して、演壇に立ったアンソニー先生は、人々に向けて高らかに演説を始めた。「彼等は私が長年抱いて来た、誤った認識を打破してくれました。私は知識と言う頽廃の縁から救い出されたのです」

 彼の精神はまるで遠くに行ってしまったように見えた。彼の焦点の合わない目は常に虚空を眺め、意思のないその目とは別に、決意に満ちた口もとからは力強く言葉が溢れた。「私は人民に対して償えない程の罪を犯しました。私は尊い労働に対して無意味な教育で搾取を行なって来たのです。私の万死に値する重罪を、彼等は偉大なる皇帝陛下の御名に於いて免じてくれました。私は今後たゆまぬ労働により、皇帝陛下の御恩に報いるべきであると考えます」

 アンソニー先生は、以前から正直で清潔な人物として村人の尊敬を集めていた。今回の事件についても、多くの村人は先生の態度に密かな誇りを感じ、自分達のプライドを保っていたのだ。

 それだけに、今、目の前で自己批判を繰り返し、革命軍と皇帝を称える彼の姿を、どう受け止めていいのか戸惑っている様子だった。

 彼が革命軍の手前、自分を偽った発言をしていると考える事もできるのだろうが、それにしては、彼の口調は余りに激しく決意に満ちていた。

 彼は変わってしまった。

 そう考えるのが一番妥当なように見えた。

 村民たち、それぞれの動揺は明らかだった。 革命軍の司令は、上機嫌な様子でその光景を眺めていた。

     8



 二人の憲兵が僕の家の扉を激しく叩いた。

「反革命的人物の引渡しを要求する」

 応対に出た母に向かって、彼等は抑揚のない声で言い強引に家に押し入ってきた。

 母は悲鳴のような声を上げ彼等を止めようとしたが、憲兵は母を突き飛ばし部屋中をひっくり返し始めた。

 僕は二階にいて、階段から様子を見ていたが、彼等が僕を捜しているのだという事が分かるととても恐ろしくなった。

 彼等は僕を捕らえるつもりなのだ。今まで逮捕された村人は、こうして連れ去られたのだ。労働のできない僕は処刑されるのだろうか。

 憲兵の一人が二階へ登って来た。僕は慌てて自分の部屋のクローゼットに入り、床板の隙間から天井裏に隠れた。僕は憲兵が寝室にいるのを確認して、通気孔からキッチンに降り、裏口から外へ出た。

 外には見張りの憲兵がいて、僕の姿を見つけると大きな声を上げた。

 僕は慌てて路地を走り、側溝の入り口の石盤を開けて、そこに潜り込んだ。側溝は道路の排水のために地面に埋められた細いトンネルに通じていて、大人が這ってしか入れない大きさしかなく、村中に迷路の様に張り巡らされていた。

 僕は夢中で走った。トンネルは何度か枝別れした後、村の外れで行き止まりになった。 石盤の隙間から外を見た。そこは村の南の井戸で、夕食時の為、村の女達が何人か水を汲みに集まり、話をしているようだった。

 僕は石盤を少しずらして、様子を伺い、すぐにエレーナの姿を見つけた。

「エレーナ!」

 僕はトンネルを飛び出し、驚いた様子の女達には目もくれず、エレーナ目掛けて駆け寄った。

「どうしたの」

 僕の慌てた様子を見て、エレーナは不思議そうな顔をした。

「話している時間はないんだ。一緒に来てくれ。僕は奴等に殺されるかもしれない」

 遠くで激しい軍用犬の鳴き声がしていた。

 時間がなかった。

「行こう」

 僕はエレーナの手を引いて青々と伸びた小麦畑の中に駆け込んだ。小麦畑には風が吹いていて、一面ざわざわという音を上げる。その度、追っ手の物音の様に思い、僕らは更に速度を上げて走った。

 僕は南の森を目指した。あそこに入れば隠れる場所はあるし、高台になっているので見晴らしもきく。その後はさらに南を目指したほうがいいのだろうか。南には政府の開拓地総督府があり、革命軍の勢力がまだ及んでいないかもしれないと言う話を父から聞いた。 もちろん確証は無かったし、未開拓の砂漠地帯を横切る行程は、村を一度も出た事のない僕には苦難の旅になるのだろう。

 しかし、僕は僕の小さな手の先を通じて、エレーナの手の暖かさを感じていた。

 エレーナが息を切らしながら、懸命に僕の手を握っているのだ。

 エレーナは今の僕にとって唯一の、そして強力な希望だった。彼女の存在は僕に、未知の世界を目指して旅立つ勇気を与えてくれるようだった。僕は彼女がいる限り、どれだけでも強くなるつもりだった。

 僕は走りながら、彼女の手を強く握り締めた。


     *


「ちょっと待って」

 小麦畑の真ん中で、エレーナは僕の手を払い、立ち止まる。「どういう事なの?」

 息を切らしたエレーナの声は、明らかに僕を非難していた。

 僕は憲兵が僕の家を捜索した事、そして、逮捕されれば殺されてしまうかもしれない事をエレーナに話した。

「それで?」

 エレーナは不機嫌な調子で僕に言うと、その場に座り込んだ。

 僕は戸惑った。

「だから、一緒に逃げて欲しいと…」

「きっと私は足手まといになるわ」

 エレーナは、僕を見ないで言う。

「いや、そんな事はないよ。君がいてくれないと僕はそんな旅には耐えられない。一緒に彼等のいない土地に行って二人で暮らすんだ」

 エレーナは何も言わなかった。僕は続けた。「僕は君の為ならどんな事でもするよ。きっと君の為なら誰より強くなれるし、それに…」

「やめて」

 エレーナは短く口をはさんだ。そしてもう一度ゆっくりと同じ言葉を繰り返した。「やめて。正直言って困るのよ。そんな事言われても困るの…」

「でも、君はずっと一緒にいたいと言ってくれたじゃないか」

 エレーナは頭を抱えた。

「あの時はあの時よ。状況が違うわ。こんなのって…」

「迷惑…、なのかい?」

 僕はなるべく何も考えないようにして、そう聞いた。

「あなたと二人で見知らぬ土地で暮らす?」

 エレーナは僕を睨みつけた。「どうして私がそこまでしてあげなくてはいけないの?」「………」

 僕は言葉を失った。大きな過ちを犯した事に、ようやく気づいたのだった。

 エレーナは僕を受け入れてくれていた。

 僕が彼女に甘えるのを、彼女はやさしく許してくれていた。しかし、甘え過ぎてはいけなかったのだ。

 僕は明らかに要求し過ぎた。

 彼女は黙って俯いていた。彼女は怒っているのだ。そして(どうして私にこんな事まで言わせるのよ)と思っているに違いなかった。

「ごめんよ。僕は…」

 その後に続ける言葉が見つからず。僕は口を閉ざした。

 沈黙を破るように,エレーナが少し軽い調子で言った。

「南に行きなさいよ。きっとまだ政府が管理する土地があるはずよ…。きっとあなたなら大丈夫よ」

「………」

 エレーナは立ち上がった。

「奴等には、あなたは別の方角に逃げたと言っておくから」

「エレーナ…」

 僕は立ち去ろうとする彼女の背中に呟いたが、エレーナは振り返る事もなく、聞こえない様子で歩き続けた。

 僕は青い麦の中に彼女の姿が消えていくのをじっと眺めていた。


    *


 僕は一人で南の貯水池へ行った。

 僕はまた過ちを犯してしまった。今度は随分巧妙に仕組まれていたが、結局は僕をさらに悲しませる、やはり、罠だった。

 今回はロマノフを失わなかっただけましかもしれなかったが、どうしようもない悲しみが、僕の小さな体にのしかかるようだった。

 僕のようなおかしな人間と一緒に逃げるなんて、誰だって望む筈がないではないか。

 きっとエレーナでなくても同じ考えを持っただろう。僕はみんなと違うのだ。僕はみんなとの距離を知っておくべきだったのだ。

 革命軍のせいではなく、僕は最初から一人ぼっちになる運命で生まれて来たのだ。


 それを、僕だけが忘れていた。


 僕は馬鹿なのだ。なんの取り柄もない、おかしな姿をした、まるっきりの馬鹿なのだ。 僕は声を出さずに泣いた。

 涙は次から次へとめどなく流れてきた。

      9



 翌日、僕は村に戻った。

 まだ学校の始まらない時間だったが、校庭に座っていると、見回りの警備兵がやってきて、たちまち僕を拘束した。

 やがて、知らせを聞いた宿直の教育官もやって来た。

 僕が抵抗も逃亡の意思も見せなかったので、彼等は手荒な事はしなかった。

 その代わり、嫌な薄ら笑いを浮かべ僕を見下ろした。

 僕は殺されるのだろうか。

 僕はもう、何も期待をしなかった。


    *


 彼等は僕を殺さなかった。

 その代わり、僕を青い小さな小瓶の中に閉じ込めてしまったのだ。

 分厚い小瓶の中には全く音が聞こえず、中からは少し歪んだ外の世界が、青く見えるだけだった。

 しかし僕は、自分でも以外な程、その場所を不快とは感じなかった。僕はここにいる限り安全で、無理に誰とも仲良くする必要もなかった。外には一切出れなかったが、結局のところ、僕にそんな必要などなかったのだ。

 僕は最初、指令部として徴用されている村長の家の地下室の冷たいテーブルの上に置かれていたが、3日後、許されて瓶に入ったまま家に帰る事になった。

 父と母が、そろって僕を迎えに来た。

 彼等は僕の姿を見て驚いたようだったが、何も言わず僕の瓶を持ってきた籠の中に入れた。

 家路についた彼等は、一言も言葉を発しなかったようだった。

 家に帰ると、僕は僕の部屋の出窓の上に置かれる事になった。

 そうして、僕は一日中沈まない太陽に囲まれた開拓地の退屈な風景を眺めながら、夢想を繰り返し、気が向いた時に眠る生活を始めたのだ。


     *


 僕は気が向いた時、気の向くままに思索を繰り返した。

 デモクリストの段階からマルクスに至るまでの弁証法的唯物論。ウィルヘルム・ヴントの心理学やピタゴラスの純正調音階。ジャン・クリストフのストーリーを忠実に辿り、ラテン語の不規則動詞の活用を暗唱する。アインシュタインの量子論。エジプト王朝の歴史的変遷…。

 考える事はいくらでもあった。そこは誰にも邪魔されない自由な空間だった。

 時々、母は悲しそうな顔をして僕と過ごしたが、僕はもう、恐らく彼女が思う程、不幸ではなかった。


     *


 小麦などの農作物は、革命軍の指導により合理的耕作が計られているようだった。

 例えば彼等は機械を導入した。それは6本の足を持つ蒸気で動くシステムの機械で、昆虫のような姿をしていた。鋼鉄の兜虫は畑の中をくまなく走り回ったが、最初はそれが何をしているのか僕には良く分からなかった。

 僕はある日、兜虫が一人の青年を触角で拘束しながら畑を出てくるのを目撃して、兜虫は労働者の管理をしているのだと知った。何だか馬鹿げた気がしたが、確かに合理的耕作には役立ちそうだった。

 革命軍は村の中にスピーカーのような物を巡らし始めた。それは畑の中までくまなく置かれ、何かの音楽を流しているようだった。

 二、三日もすると村人の様子が変わっていくのが分かった。村人達の目付きは変わって、みんな焦点の合わないような目をして、黙々と仕事を続けた。

 やがて、彼等はとても楽しそうになった。

 彼等は上機嫌に労働をして、終わると小躍りしながら畑を出てきた。そして革命軍の憲兵にすら何ごとか言って笑いかけた。

 憲兵は全く反応を見せなかったが、彼等は全くお構いなしに笑っていた。

 父や母もニコニコしながら家へ帰る様になったが、彼等はもう、僕の所には来なくなった。


     *


 ある日、革命軍の兵士達は突然村を去って行った。

 彼等は荷物をまとめ、隊列をなし南の方角へ行軍して行ったのだ。

 村人は畑に出ていたが、その様子を見ても何の反応も起こさず、相変わらずうれしそうに仕事を続けていた。


     *


 そして、村人達も出て行った。


 彼等は、ある日突然、家からフラフラと出て来て、二列に並び、北の方角を目指して歩き始めた。父も母も一度も僕の方を振り向かず、その列についていった。

 僕はその光景を眺めた。

 僕の青い歪んだ世界から見える彼等は、背中をゆらゆら揺らし、陽炎のように彼方に消えていった。


 

    *


 僕は一人、残された。

 そして今日も、僕の思索は白日夢のように、青い瓶の中を限り無く駆け巡っている。

 僕は今、僕の半生を振り返っていたが、ようやくここまでを語り終える事ができた。

 僕はこの物語を自分に捧げようと思う。

 他に捧げる者など、もういないのだから。

 創造主という者がまだ近くにいて、僕を忘れていないのならば、別に彼でも構わない。

 でも、僕は彼の祝福など期待しない。

 暗い窓辺に祝福などないのだ。


     *


 平原を抜ける風、揺れる麦。沈まない太陽。羊の群れ、鋼鉄の兜虫、そして、村人たちとの思い出…。

 風は吹き抜け、やがて、限りない地平線の彼方へと消えて行く。

 僕は今日も、そんな景色を暗い窓辺の青い小さな小瓶の中から眺めている。


 太陽はもう、南の塔を過ぎて、西の風車の近くに達している。

 僕はもう、眠る時間だ。

 僕は青く歪んだ小瓶の中で目を閉じる。

 この土地では太陽は決して沈まない。

 でも、そんな事は、暗い窓辺には何の関係もない。


 暗い窓辺に祝福などないのだ…。




 『詩篇』


 羊飼いを失った羊の群れが、青い草を捜してなだらかな丘を下りてくる。

 鋼鉄の太陽が軋みをあげるように、青い空をゆっくりと転がって行く。

 南風に包まれた二階の部屋から見えるのは地平線まで続く小麦畑だ。黄金の麦の穂がこの部屋をかき混ぜているのと同じ風を受けて音もなく揺れている。同じ風を受けている麦たちは、同じ方向に撫で付けられ、一面にざわざわとした微笑みを浮かべて揺れている。真っ青な空の下、それはとても幸せそうな光景に見えた。


 僕はそんな景色を暗い窓辺の青い小さな瓶の中から眺めている。僕の小瓶は二階の書斎の隅にある小さな暗い出窓の窓辺に置かれている。

 暗い窓辺には決して光がささない。きっと太陽は麦を育てるのに手一杯で、暗い窓辺の事など忘れているのだ。それとも神様が、日曜の礼拝に行けない僕に怒って、暗い窓辺から太陽を奪ったのかもしれない。

 雲のない青い空に、鋼鉄の太陽は誇らしく輝いている。

 この土地では太陽は決して沈まない。そのため麦たちは果てしなく成長し続けて、やがて腐ってビールになって行くのだ。

 秋にはそんなビールの匂いが、暗い窓辺の小さな青い瓶の中にも香ってくる。

 でもそんなことは暗い窓辺にとって何の意味もない。


 暗い窓辺に祝福などないのだ。


 この土地には僕以外もう誰も住んではいない。

 人々は列を成して暗い北の空へ歩いて行ってしまった。彼等は黒い雲が垂れ込め、空気が薄く、雪と氷に閉ざされた[北の都]へ歩いて行ってしまった。


 皇帝の北の都。


 そこは一年中太陽が閉ざされ、夜は永遠に明ける事がない。

 彼等は太陽に追われてこの土地を出たのだ。

 出発の時(この土地に朝などないのだ)彼等は無表情に口もきかず一斉に北を目指した。

 農民達は熟れたトウモロコシを放り出して。

 女達は汚れた皿を台所に重ねたまま。

 親友のタケシは愛犬の鎖を外しもせずに。

 母は僕にさよならのキスもしないで。


 着のみ着のまま、みんな一斉に出て行ってしまった。タケシの犬は主を失って三日間啼き続けたが、四日目に死んだ。

 そして僕は暗い窓辺の青い瓶の中からこうして外を見ているのだ。


 青い空、地平線の彼方に白い蒸気が上がる。

 奴が来たのだ。

 奴は地を揺るがし唸りを上げながら小麦をなぎ倒して大地を駆け抜ける。

 蒸気動力コンピューターを積んだ鋼鉄の巨大な兜虫。6足駆動の動力体が激しく速度を上げながら無人の畑を走る。

 6本の足節が踊る様に大地を蹴り、小麦を踏み付ける。

 巨大な首節を上下させる度、側体部に並んだ気孔から白い水蒸気が勢いよく噴き出し、大地は熱風にさらされる。

 鋼鉄の兜虫はその頭部にある複眼網膜体により得た外界の視角情報を内部に搭載された高性能蒸気動力コンピューターに伝え、速度を落とす事なく視角情報を分析して進む事ができる。


 しだいに奴の息遣いが聞こえる。

 鋼鉄の兜虫はそのグラスファイバーの触角端子で道を開きながら、僕の視界に入り込んで来た。

 羊達は兜虫に気づいて丘の方へ逃げ始めた。兜虫はその群れの中に突っ込み、自分の進路上にたった羊を容赦なくミンチにしていく。

 何十もの羊の悲鳴が響き、兜虫の通った後にポタポタと肉片が重なって行く。

 そうしながら兜虫は西の丘から東の地平線に走り抜けて行った。


 そして、辺りにまた静寂が訪れる。

 太陽はもう南の塔を通り過ぎて、西の風車の近くに達している。

 僕はもう眠る時間だ。

 僕は青い小瓶の中でゆっくりと目を閉じる。

 そして、北へ行ってしまった人々の事を考える。

 北の都は僕に深海に沈んだ古代の都市を連想させる。

 北の都には太陽が届かず。街は深い雪と氷に閉ざされているそうだ。

 僕は沈んだ古代都市と北の都とそのどちらにも行った事はないので、人々がそこでどんな生活をしているのか見当もつかない。

 皇帝はなぜそんな所に都を築いたのであろうか、人々はいつかこの土地に帰って来るのであろうか。


 鋼鉄の太陽がゆっくりと西の風車を越えて北へ転がる。この土地では太陽は決して沈まない。しかし、そんな事は暗い窓辺には何の関係もない。


 暗い窓辺に祝福などないのだ。     


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