幼馴染と埋めたタイムカプセルに、好きって書いてあった
──10年後、またここで会おうね
久しぶりに、地元の空気を吸った気がする。
子どものころに比べると、駅前のロータリーは少しだけ整備されていた。スーパーが1つ増えて、コンビニの位置も変わっている。実家の周りの田んぼも、ずいぶん減ってしまった。
車を降りて、ぼんやりと空を見上げる。
青すぎるくらいの空。じんわり暑いのに、不思議とイヤじゃない。東京の、じっとりと肌にまとわりつく空気と比べたら、こっちはちゃんと“夏”って感じだ。
「……ほんとに、来ちゃったな」
つい、そんな独り言が漏れた。
俺――神崎遼は、今年の夏休みに3連休を取った。
お盆だし、たまには実家に顔を出すのも悪くない。祖母の墓参りっていう建前もある。……けれど、実のところ、それは“ついで”でしかなかった。
本当の目的は、あの約束の確認だ。
10年前、中学3年の夏。
突然の転校が決まった幼馴染の橘沙耶と、別れ際に埋めたタイムカプセル。実家の近所にある公園、その大きな木の根元に、ふたりでこっそり埋めた缶の箱だった。
『10年後、25歳になったら、一緒に掘ろうね』
笑ってそう言った沙耶の顔は、なぜか少し泣きそうでもあった。
それっきり、というわけじゃなかった。手紙は何通かやり取りした。けれど、しばらくして届かなくなって……それでも、彼女の存在は、ずっと胸の奥に燻ったままだった。
だからといって、本当に10年越しに来るなんて。
我ながら律儀というか、未練がましいというか。社会人になってもなお、そんな子どもみたいな約束を引きずってる自分に、思わず苦笑いが出る。
「……ま、いいか。約束は約束だしな」
実家に荷物を置いてから、両親に「少し散歩してくる」と伝えて外に出た。
手の中のスコップを握り直す。
目指すのは、昔よく遊んだ公園の、大きな木の根元。季節の匂いも、蝉の鳴き声も、そのときの空気のざわめきさえも、不思議と忘れていなかった。
* * *
アスファルトが焼けるような匂いが鼻をつく。
遠くで鳴く蝉の声が、耳にまとわりつくように響いていた。
少し歩いただけなのに、シャツの背中がじんわりと汗で滲んでいる。
俺は、昔よく沙耶と遊んだ公園に立っていた。滑り台の色は少し褪せ、鉄棒の支柱には薄っすらと錆が浮いている。
けれど、大きなクスノキだけは、10年前と変わらず真夏の空を堂々と突き刺していた。
「……ここ、だったよな」
日差しを避けて木陰へ入り、靴先で軽く土を探る。
記憶の奥をたぐるように。
10年前、沙耶とふたりで埋めたタイムカプセル。
このクスノキの根元――確か、少し左に寄った場所だった。
「あれ……?」
土の感触が、ほんのわずかに違う。
踏み締めた部分が他より柔らかい気がした。
(誰かに掘られたか……?)
そんな考えが頭をよぎる。けれど、確かめるには結局、掘るしかない。
俺はポケットからスコップを取り出し、しゃがみ込んだ。手のひらにじっとりと汗がにじむ。だけど、不快さよりも、胸に広がっていたのは妙な緊張だった。
そして――
「だーれだっ!」
突然、後ろからひんやりとした手で目を塞がれた。
同時に、陽気な声が耳元に飛び込んでくる。
「うわっ……!」
びっくりして心臓が止まりそうになった。
条件反射のように、口から名前がこぼれる。
「……沙耶?」
「正解っ」
塞がれていた手が、ゆっくりと離れていく。
俺は太陽の眩しさに顔をしかめながら、ゆっくりと振り返った。そこに立っていたのは、夏の光を背にした、ひとりの女性だった。
白いワンピースが静かに揺れている。
栗色の髪は肩までまっすぐに伸びていて、風にそよぐたび、太陽の光をやわらかく反射していた。透き通るような肌。ほんのり丸みを残した輪郭。日焼けのない素足が、夏の影のなかにすっと伸びている。
――そして、笑っている。懐かしい、あの笑みで。
10年分の時間が、風にさらわれたみたいだった。
振り向いた瞬間、記憶と現実が静かに重なった。
声も、笑い方も、あの頃のまま。
けれど、光の中に立つ彼女は――確かに成長していた。少し背が伸びて、輪郭は大人びて、声には静かな余裕が宿っている。
その立ち姿には、街ですれ違えば誰もが振り返るような、洗練された美しさと透明感があった。
「本当に……沙耶、なのか……?」
俺の問いかける声は、少し、いやだいぶ震えていたと思う。
彼女は小さく首をかしげて、いたずらっぽく笑った。
「よっ。おひさ! ……まさか、本当に来てくれるとは思わなかった」
「約束。ちゃんと覚えててくれたんだね」
* * *
公園のベンチに、ふたり並んで座っていた。
10年ぶりの再会だというのに、これが現実だという実感はあまり湧いてこない。
夏の日差しは、木々の葉に遮られているはずなのに、背中にはじんわりと熱がこもっていた。さっきまで耳にまとわりついていた蝉の声が、少しだけ遠ざかって聞こえる。
沈黙。けれど、それは気まずいものじゃなかった。
「……ほんとに遼ちゃんだね」
沙耶が、ぽつりと口を開いた。
俺は少しだけ横目で彼女を見る。肩まで伸びた髪が、風にさらっと揺れた。
「背も伸びたし、声も低くなったし。なにより……身長、抜かされちゃったし」
「いや、さすがに10年も経てばな」
少し夢見心地な気分で、俺はそう返す。
沙耶は「だよねー」と軽く笑った。
子どもの頃と変わらない口調。でもその笑い方には、どこか落ち着いた余韻があった。
「今って何してるの? お仕事」
「東京で、システムエンジニアやってる」
「わっ、なんかかっこいい!」
「……横文字なだけだろ。実際は下働きみたいなもんだよ」
「わお。ブラックってやつ?」
「……俺の残業時間、聞いたら腰を抜かすぞ?」
「あはは、こわいね!」
ケラケラと笑う沙耶の笑顔を見ていると、不思議と時間が巻き戻っていくような気がした。
このままずっと昔みたいに話をしていられそうな、そんな錯覚。
けれど、ふとした間に、沙耶が真面目な表情に変わる。俺の顔を覗き込むようにして、訊いてきた。
「ねえ……東京、戻るのっていつ?」
少し間を置いてから、俺は答える。
「明後日。夕方には帰ろうかなと思ってる」
「ふーん……じゃあさ」
沙耶は少しだけ視線を遠くに向けて、口元に微笑みを浮かべた。
「明後日の朝、一緒に掘ろうよ。タイムカプセル」
「え、今日じゃなくて?」
「うん、明後日」
「……なんで?」
「順番って、あるでしょ?」
その答えは、理由になっているようでなっていない。けれど、有無を言わせない不思議な力強さがあった。
「さーてと」
沙耶が勢いよく立ち上がる。ワンピースの裾が、ひらりと軽やかに揺れた。
振り返った彼女は、腰に手を当て、子どもの頃と変わらないあの笑顔で言う。
「午後ヒマ? ……デート、行かない?」
* * *
突然デートに行こうと言い出した沙耶に、どこに行くのか訊いたところ、元気よく「海!」という返事が返ってきた。
特に予定があったわけでもない俺は、素直にその提案を受け入れて、自分の車を出すことにした。
――というわけで今、俺たちは高速を走っている。
車を走らせながら、10年分の空白を埋めるように、ずっと話し続けていた。さっきまで現実味がなかったのに、こうして隣で沙耶が笑っていると、不思議と実感が湧いてくるような気がした。
「覚えてる? 小学校の修学旅行で、私が迷子になったの」
「あー、2日目だったっけ。集合時間に来ないから探しに行ったら、お前、ひとりっきりで泣いてたな」
「そうそう! 遼ちゃんが見つけてくれたんだよね。めっちゃ嬉しかった〜」
「集合場所、間違えてただけだったよな」
「旅行で浮かれてたんだもん。仕方ないじゃん!」
沙耶が助手席で肩を揺らして笑う。その声が、夏の風といっしょに車内を満たしていく。
「でもさ、遼ちゃんが運転してるの、ちょっと感動かも」
「……何がだよ」
「だって、子どもの頃は自転車すら危なっかしかったのに。今はちゃんと車運転して、助手席に私が乗ってて……」
ちらりと沙耶がこっちを見る。
「うん、なんか、かっこいいじゃん」
「……お、おう」
「あっ、照れた! かわい~」
10年という時間があったのに、関係性だけは、そのまま置いてあったみたいで。
途中、サービスエリアで沙耶が「靴、濡れたらイヤだ」と言い出し、コンビニでサンダルを買った。そんな些細なやり取りすら、懐かしくて、どこかくすぐったい。
小1時間ほど走ると、視界が開けた。
青。空と海の青さが溶け合うように、水平線までまっすぐに伸びている。陽光を反射した波が、きらきらと跳ねていた。
「わー、海だ~~!」
沙耶が助手席で嬉しそうに声を上げる。しばらく海沿いを走って、砂浜が近くて車が停められそうな場所を見つけて停車した。
「お、ここよくない? ちょっと穴場っぽいし」
「うん、ナイス遼ちゃん!」
サンダルに履き替えて、ふたりで浜辺へ降りる。砂の感触がじわっと足裏に伝わってくる。熱いけど、どこか心地いい。
波打ち際を、ゆっくりと並んで歩く。足元を掠める水が冷たくて、さっきまでの暑さが嘘みたいだった。
「あっ、見て! 魚跳ねた! あそこ!」
「どこだよ……って、ほんとだ。ちっちゃいやつ」
「ね? ちゃんと魚だったでしょ?」
「いや、別に疑ってないし」
「ちょっと目が『また沙耶が適当なこと言ってる』って言ってたよ?」
「言ってねえよ。……たぶん」
「ふふっ。遼ちゃんって、昔からそういうとこ変わんないよね」
俺たちは波打ち際を歩きながら、ふざけたり、黙ったりを繰り返した。
空は高く、風は涼しい。
「……なんかね、海の音って、思ったより優しいんだね」
「優しい?」
「うん。もっとバシャーン!って感じかと思ってた。映画の影響かも」
「たしかに。実際の波音って、案外地味だよな」
「でも……こういう音、すごく落ち着く」
「落ち着くって、まあ都会の喧騒と比べたら癒される感じはあるか」
「でしょ! たぶん、あっちは頭に響いて、これは心に染みるって感じ」
「……お前、たまに詩人だよな」
「たまにじゃなくて、けっこういいこと言ってるでしょ?」
「はいはい」
そんな会話を交わしながら、砂浜をしばらく歩いたあと、沙耶がふと立ち止まり、俺の方を見た。
「……わたし、夏に遼ちゃんと海に来たかったんだ」
その声は、いつもの明るさよりほんの少しだけ抑えめで、波音にそっと溶けていった。
「夢、叶った!」
そして、笑った。
満面の――というより、どこかまっすぐすぎて、嘘みたいに純粋な笑顔だった。
「なんだよ、それ。そんなの言ってくれれば、いつでも連れてきてやるよ」
本音だった。
ただ、自分でも気づかないうちに、少しだけ息が詰まっていた気がする。
「遼ちゃんは優しいね」
沙耶がにっと笑ってそう言う。
その笑顔を見て、俺はなぜか、胸の奥がそわそわするのを止められなかった。
あまりにも自然で、あまりにも理想通りすぎて――
その笑顔に、安心と同時に、どこか現実感のないざらつきが残った。
* * *
夕暮れが、少しずつ町を染め始めていた。
帰り道の車内は、さっきまでの笑い声が嘘みたいに静かだった。
沙耶は助手席で、ずっと窓の外を見ていた。
開けた窓から吹き込む風に髪が揺れる。顔は見えないけれど、表情がやけに落ち着いて見えた。
海の匂いが、まだどこかに残っている気がした。
「どこまで送ればいい? 家……って、近いのか?」
俺がそう訊くと、沙耶はほんの少し首を振った。
そして、まるであらかじめ決めていたかのように言う。
「ここでいいよ」
言われるまま、ブレーキを踏む。
気づけば車は、例の公園の前で止まっていた。
沙耶がシートベルトを外して、静かにドアを開ける。靴がアスファルトに触れたときの、乾いた音だけが妙に大きく響いた。
「明日も、きっと暑いね」
降り際、沙耶はふとそう言って、こちらに笑いかけた。その笑顔は、朝と同じなのに、どこか少しだけ寂しげに見えた。
「明日も暇?」
「まあ、特に予定はないかな」
「なら明日も午後からデートね! ここ集合!」
それだけ言い残して、俺の返事を待たずに背を向けた。
ワンピースの裾が、夏の風に揺れる。
公園の木々の間を、白い姿がすっと遠ざかっていく。
さっきまであんなに近くにいたのに、なぜか手が届かない場所に向かっているような気がした。
「おい、ちょっと待てって……」
そう言いかけた声は、口の中で消えた。
俺は何も言えずに、その後ろ姿を見送った。
ひとつ、深呼吸をしてからハンドルにもたれかかる。
窓の外を見上げると、空はもう茜色に染まりはじめていた。
風の音だけが、静かに車内をすり抜けていく。
「……ちゃんと、来たんだな」
ぽつりと、口に出た言葉は、思ったよりも小さかった。
胸の奥に湧いていた感情。
それがなんだったのかは、まだ言葉にならなかった。
* * *
蝉の声が、朝からずっと途切れない。夏の風物詩といえば聞こえがいいが、いいかげん耳が痛くなってきた。
俺は昨日と同じ公園のベンチに座りながら、ぼんやりと空を仰いでいた。
時刻は、昼少し前。
風はあるのに蒸し暑くて、背中にじんわり汗が滲んでいる。
スマホの画面を見るふりをしながら、何度も入口のほうに視線をやった。
本当に来るのか。そんな不安が頭をよぎりはじめた頃――
そこに、現れた。
白地に朝顔の模様が入った浴衣姿。
肩まで伸びた栗色の髪がふわりと風に揺れて、沙耶がこちらに手を振っていた。
思わず息を呑む。
「遼ちゃん、待った?」
沙耶は、昨日と同じような気軽な笑顔で近づいてくる。けれど浴衣姿のせいか、どこか現実に足がついていないような、淡い輪郭をまとっていた。
「……いや、その。浴衣、似合ってる」
自然に出た言葉だった。
沙耶は嬉しそうに目を細めて、わざとらしく胸を張る。
「でしょー? 流石私!」
「調子乗んな」
俺が顔をそらすと、沙耶はくすっと笑った。
ああ、この感じ。昔と変わらないやり取りが、やけに心地いい。
けれど、帯を結ぶ細い腰や、うなじににじむ汗に、昨日よりも強く“成長した沙耶”を意識してしまう。
「あれあれ〜? どこ見てるのかな〜? 遼ちゃんも男の子だねぇ」
「ち、ちがっ……!」
いや、違わない……か。見透かされたみたいにニヤニヤ笑う沙耶に、なんだかムカついてしまう。
「今日はね、すごく楽しみにしてたんだ」
「デートだから、気合い入れたの」
そう言って沙耶は、裾をつまんで、くるりと一回転した。
その笑顔があまりに無邪気で、俺は思わず苦笑するしかなかった。
「……はいはい。で、お嬢さま。今日のご予定は?」
「ふふーん、それはねぇ……」
沙耶がいたずらっぽく指を立てる。
「お祭り! 昼からやってる縁日、行こ?」
そう言って、俺の目をまっすぐ見つめてきた。
その瞳の奥には、子どもの頃と変わらない無邪気さがあって。
俺は小さく息を吐いて、苦笑しながらうなずいた。
* * *
神社の下にある広場は、思っていたよりもずっと賑わっていた。屋台の熱気と、漂ってくる焼きそばの香りが、夏の空気をさらに濃くする。
「わっ、人すごい……!」
沙耶が目を輝かせて言った。
人波に押されるように進みながら、気がつけば俺の袖を掴んでいた彼女の手が、自然に指へと絡んでいた。
――いや、正確には、いつの間にか手をつないでいた。
子供の頃のようなその自然さに、何も言えずに歩を進める。
「ねえ、あれ食べたい。綿あめ」
沙耶が指差した先には、昔ながらの綿あめ屋台。
キャラクターの袋が風に揺れて、子どもの頃にタイムスリップしたような錯覚に陥る。
「綿あめって……子どもかよ」
「いいじゃん! 縁日といえば綿あめでしょ!」
まあ、その気持ちは少し分かる。
俺は軽く肩をすくめて屋台に並び、無難そうな袋を選んで買った。
「はいよ」
「ありがとー!」
沙耶は嬉しそうに受け取って、もこもこの綿を指でちぎると、一口。
そのあと、俺の方に綿あめを差し出してきた。
「ちょっと食べる?」
「いや、いいよ」
「遠慮しないで〜、ほら」
彼女が少し距離を詰めてきて、綿あめを俺の口元に。
「はい、あーん」
「……ん」
ちょっとだけ口に含む。甘くて、やたらと気まずい。
「照れてる照れてる〜! 顔、赤いよ?」
「うるさい」
「かわいい~」
沙耶は本当に楽しそうに笑っていた。
その無邪気な声に、思わず俺も吹き出してしまう。
次に目をつけたのは金魚すくい。
けれど、沙耶は屋台の前でぽんと手を打って、俺の腕を引いた。
「ねえ、代わりにやって。私、金魚すくい苦手なんだ」
そう言って、後ろから俺の背中に隠れるように立つ。
「……俺が?」
「うん。ポイの動かし方、ちゃんと覚えてる?」
「昔、けっこう得意だったけど……って、やらせる気満々か」
「やってくれたら、金魚あげるよ?」
「いらねえよ」
そう言いながら、俺は屋台にポイ代を出して、水面をじっと見つめる。軽くひとすくい――破けた。二枚目も失敗。
「やばいじゃん、ポンコツじゃん」
「黙ってろ、今のは水流が悪い」
三枚目。ギリギリで一匹、金魚をすくい上げた。
ポイが揺れて、金魚がきらりと反射する。
「おお、やった! 見た!? 遼ちゃんすごい!」
後ろから沙耶の声が弾む。
金魚すくいでここまで喜ばれたの、人生で初めてだ。
「ふふーん、これが執念の勝利です!」
何故か得意げに胸を張る沙耶。俺は小さく笑って肩をすくめた。
次は射的。俺が銃を構えると、沙耶がまた後ろからひょこっと覗き込む。
「当てて~。なんでもいいから、なんか取って」
「プレッシャー強いな……」
一発、外れ。二発、微妙にそれる。三発目も空振り。的にはかすりもしない。
「ぷっ、なにそれ。遼ちゃん、やっぱ意外とポンコツ説あるよ?」
「いや、銃が歪んでるだけだって」
「はいはい、言い訳〜〜」
肩を震わせて笑う沙耶に、思わず俺はため息をついた。それでも不思議と、腹は立たなかった。むしろ心がふわっと軽くなっていく。
その後も屋台を周り、気づけばいつのまにか結構な時間が経っていた。空が、ほんのり茜色に染まりはじめている。
通りを抜け、少し人の少ない参道に出た。石段に腰掛けて、俺たちは屋台で買ってきたラムネを飲んだ。
「ねえ、遼ちゃん」
「ん?」
「こういうの、大人になってから来るのって……なんか不思議だね」
「不思議?」
「うん。子どもの頃、憧れてたの。浴衣着て、大人になった遼ちゃんと縁日来て、手つないで……」
「俺と?」
「ふふ、光栄でしょ?」
沙耶が瓶を両手で包みながら、少し照れたように笑う。
俺はなんだか気恥ずかしくて目をそらした。
「……夢だと思ってた光景が、いま目の前にあるの。不思議だね」
その言葉は明るい響きのまま、どこか奥に切なさを含んでいた。俺はそれにどう返せばいいのか分からなくて、「そっか」とだけ言った。
沙耶は、瓶の口に唇を当てる。ラムネのビー玉が、カランと涼しい音を立てた。
──その音が、不意に昔の記憶を引き寄せた。
子どもの頃、親に連れられて沙耶と一緒に来た夏祭り。
金魚すくいに夢中になって、でも一匹も取れなくて、沙耶はぽろぽろと泣き出した。
見かねた俺が、自分で取った金魚を差し出すと、沙耶はすぐに泣き止んで、にこっと笑った。
『ありがと。遼ちゃん、やさしいね』
あのときも、確か――この石段にふたりで座って、ラムネを飲んだんだ。ビー玉の音が、今とまったく同じように響いていたのを覚えている。
あれから10年以上が経って、俺たちはまたここにいる。まるで時間がつながっているみたいに。
となりで笑っている沙耶と、記憶の中の沙耶が、ふと重なった。
* * *
参道を抜ける頃には、空がじわじわと茜に染まりはじめていた。縁日のにぎやかさの余韻をまとったまま、俺と沙耶は並んで歩く。
金魚すくいでとった金魚は飼えないので、その辺の子供に譲った。
「ねえ、今日ってさ、夜に花火大会あるんだよ」
沙耶がふと思い出したように言った。
「ああ、今日だったのか。子どもの頃は毎年のように見に行ってたけど、最近はさっぱりだな」
都会で働くようになってから、花火なんて見る機会もなくなった。……一緒に行く相手も、いなかったし。
「えー、それ寂しすぎ。たしか7時半くらいからだよね? せっかくだし、見に行こうよ!」
そう言って、沙耶が軽く俺の腕をつつく。
断る理由なんて、あるわけがなかった。俺たちは人の流れを少し避けながら、花火大会の会場へと歩き出した。
日が沈むにつれて、蝉の声は次第に遠のき、代わりに夕暮れの風が頬をなでる。
「私、花火ってさ、1発目がいちばん好きなんだ」
「なんで?」
「音が鳴った瞬間、『あ、始まった!』って体がぞわってするの。……なんか、わくわくしない?」
「まあ、言われてみれば分かるかもな」
俺がそう返すと、沙耶は夕日に染まった頬で、ふっと笑った。
「……それに、終わりから1番遠いから」
その声は、少しだけ寂しそうに聞こえた。俺は何も言えず、足元の影を見つめる。
河原の近くまで来ると、すでに土手には人だかりができていた。けれど、少し離れた斜面の上には、まだぽつぽつと空いた場所が残っている。
「ね、あそこよさそうじゃない?」
「だな。シート出すか」
来る途中のコンビニで買っておいたレジャーシートを取り出し、俺たちは土手の上に腰を下ろす。
「こうやってシート広げると、ちょっと秘密基地っぽくてよくない?」
「小学生かよ……でも、まあ落ち着くな」
シートの上に荷物を置いて、俺たちは屋台のエリアへ向かう。
「うわっ、さっきの縁日より出店多い! やばい、テンション上がってきた〜」
「お前は最初からずっと上がってるだろ。……まあ、たこ焼きは鉄板だな」
「イカ焼きも食べたいし、じゃがバターも捨てがたい……あ、チョコバナナも!」
「胃袋に限界あるの忘れんなよ」
沙耶はあれこれ指さしては、「これ、半分こしよ?」と笑っていた。焼きそばの香りが鼻をくすぐって、俺もつい乗せられていく。
結局、たこ焼き、焼きそば、イカ焼き、じゃがバター、チョコバナナ、それにコーラを2本。両手いっぱいに袋を提げて、俺たちは再びシートに戻った。
「屋台の魔力ってすごい」
「いや、明らかに買いすぎ」
「こういうのはね、雰囲気だから! あっ、コーラで乾杯しよ!」
俺たちはシートに腰を下ろし、夜風に吹かれながら缶を持ち上げる。
「はい、遼ちゃん。今日のデートに、かんぱーいっ」
「……はいはい、乾杯」
缶同士がカツンとぶつかる音が、夜の空気にやさしく響いた。
* * *
空はすでに藍色に染まり、遠くの空に、一番星がちらりと光っていた。
「ねえ、なんかピクニックみたいだね」
沙耶が、たこ焼きをひとつ口に運びながら言う。
「まあ、レジャーシートに座ってるだけでそれっぽいな。……でも、夏にピクニックはやめといた方が良さそうだ」
この時間になっても、空気はまだむわっとしていて、座っているだけでじっとりと汗をかく。
「あはは、確かに。昼間だったら暑さで倒れちゃうかもね」
他愛ないやりとりを交わしながら、ふたりでたこ焼きをつついた。
特別なことは何もないけれど、そんな時間が心地よくて――いつの間にか、日はすっかり落ちていた。
遠くから、花火大会のアナウンスが風に乗って聞こえてくる。カウントダウンが始まると、周囲の空気がふっと静まり、どこか緊張に似たざわめきが広がった。
そして――
どん、と夜空に重たい音が響く。
視界の端で、光の花がぱっと咲いた。
「……始まったね」
沙耶がぽつりとつぶやく。次々と打ち上がる花火が、夜空を鮮やかに染めていく。
赤、青、白、金。
さまざまな色の光が弾けては、静かに溶けて消えていった。
「綺麗だねぇ……」
沙耶は空を見上げたまま、静かに言う。
その横顔が、なぜか少し寂しそうに見えた。声のトーンにも、さっきまではなかった、わずかな翳りが混じっていた。
気になった。でも、うまく言葉にできなかった。
「……そうだな」
それだけを返して、俺も空を仰ぐ。
花火がまた一つ、夜空に咲いた。
その明かりに照らされて、沙耶の瞳に一瞬、きらりと光るものが滲んだように見えた。
思わず顔を向けて、問いかける。
「……泣いてるのか?」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
沙耶は少し驚いたように目を丸くして、それから笑った。
「ううん。……ちょっと虫が目に入っただけ」
そう言いながら、目元を指先でそっと押さえる。本当かどうかは、わからなかった。
しばらくして――
沙耶が、ごく自然な仕草で、そっと俺の手の上に自分の手を重ねてきた。
指先は少し冷たくて、けれどそれが妙に落ち着く温度だった。俺は戸惑いながらも、同じくらいの力で、そっと指を絡める。
沙耶はそのまま、何も言わずに夜空を見上げていた。
俺も黙ったまま、ただ隣に座っていた。
腹の奥に響く、花火の音。
空に咲いては消えていく、光の連なり。
それを眺めながら、俺は――沙耶のことを考えていた。
ここにいるはずなのに、どこか遠い場所にいるような。声も、笑い方も、隣にあるはずの気配さえも、手のひらから少しずつすり抜けていくような。
そんな、不思議な感覚があった。
またひとつ、花火が夜空に弾ける。空に咲く花火が、まるで時限付きの夢みたいに消えていく。
空を見上げる彼女の綺麗な横顔を、俺は、目に焼き付けていた。
* * *
花火が終わると、人の波がゆっくりと動き出した。賑やかだった河原には、余韻のような煙と、まだ耳に残る破裂音の名残だけが漂っていた。
俺たちは人混みを避けて、少し離れた土手道を歩いていた。
空は夜の色にすっかり染まり、遠くで虫の声がかすかに響いていた。川の匂い、草の擦れる音、夜風に混ざる夏の温度――全部が、どこか遠くに向かって流れていく気がした。
「……終わっちゃったね」
隣を歩く沙耶が、ぽつりとつぶやいた。寂しさとも、満足ともつかない声だった。
「あっという間だったな」
俺もそう答える。実際、そんな感覚だった。
「でもね、今日も……すごく楽しかった」
沙耶はそう言って、小さく笑った。その横顔に照明の明かりが滲んで、なぜかやけに綺麗に見えた。
しばらく沈黙が流れたあと、沙耶がふと前を向いたまま言った。
「……ねえ、明日、いよいよだね。タイムカプセル」
その声はやさしくて、でも、どこか覚悟めいて聞こえた。
「……ああ。楽しみにしてるよ」
「うん。明日の朝、また――あの公園でね。寝坊、しないでよ?」
振り返った沙耶が、もう一度、笑った。その笑顔が、夜の空気の中でふわりと揺れて見えた。
それから何も言わず、浴衣の裾を揺らして、夜の道を一人でゆっくりと歩き出す。
「あ、おい。送るよ」
「だいじょーぶ!」
軽く手を振ると、沙耶はそのまま背を向けたまま歩き続けた。
その背中が、街の灯りに溶けていく。歩くたび、足音だけがぽつ、ぽつと夜道に落ちていく。
俺は沙耶の背中が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。
花火の残り香と、湿った草の匂い。温度を失った夜風が、肌の上を静かに通り過ぎていく。
たしかに今日、彼女は隣にいた。
声も、手のぬくもりも、確かにここにあった。
──花火の1発目が好きだって、沙耶は言ってたな。
終わりから、いちばん遠いからって。
あの言葉が、胸の奥にずっと残っている。
「……明日で終わり、か」
ぽつりとこぼれた声が、夜の風に溶けて消えた。
* * *
今日も朝から、蝉の声が、朝からけたたましく響いている。あまりに騒がしくて、まるで何かを誤魔化すようだとすら思えた。
俺は、昨日と同じ公園のベンチに腰を下ろしていた。
時間は午前八時ちょうど。沙耶と約束した、タイムカプセルを掘り起こす日だ。
けれど──
その沙耶の姿は、どこにもなかった。
「……寝坊、かな」
そんなふうに、自分に言い聞かせるようにつぶやいてみる。
10分。20分。
時間だけが、容赦なく過ぎていく。
汗が背中を伝って落ちる。
けれど暑さのせいだけじゃない。不安という名の体温が、肌にじっと張りついていた。
公園は、いつも通り静かだった。
子どもの声も、自転車のブレーキ音も、誰かの笑い声もない。ただ蝉の鳴き声と、風に揺れる木の葉の音だけが耳に残っていた。
まるで、世界に取り残されたみたいだ。
ひとつ深呼吸して、俺はベンチから立ち上がる。
鞄から、持ってきたスコップを取り出した。
古びた、園芸用の小さなスコップ。
握ると、手の中で少しだけ心許ない感触があった。けれど、その頼りなさが、どこか背中を押してくれる気がした。
「……行くか」
小さく呟いて、俺はゆっくりと歩き出した。
10年前、沙耶と並んで埋めた場所へ。
今は、1人で。
* * *
あの頃、俺と沙耶が夢中で埋めた、大きなクスノキのそば。
微かな記憶をたよりにスコップを入れると、やはりそこだけが明らかに、他より柔らかくなっていた。
……おそらく、誰かが掘り返したのだ。
違和感を覚えつつも、慎重に掘り進めていく。
土はそれでも重くて、何度もスコップが跳ね返された。額から汗が流れる。手のひらがじんわりと熱を帯びていく。けれど俺は、止まらなかった。
やがて――カン、と金属にあたる音がした。
息を呑む。スコップを置き、手で周囲の土を払う。
現れたのは、缶コーヒーが2本入りそうなほどの、小さなブリキ缶。錆びてはいるが、まだ原形は保たれていた。
両手でそっと取り出し、フタを開ける。
中には、ビニール袋に包まれた3通の封筒。そのうち2つは年季が入っていて、もう1つは明らかに新しかった。
俺は、いちばん古びた封筒を手に取る。
拙い字で、表に《未来の自分へ》と書かれていた。
封を開けると、懐かしい筆跡が目に飛び込んでくる。中学生の頃の俺の文字。丸くて、ちょっと癖のある字だった。
『10年後の俺へ。
沙耶が突然転校決まって悲しいけど、大人になってまた会えたらいいな。
将来はきっとお金持ちになっていると思うので、色々できるはず!
そんで、もしまだ沙耶のこと好きだったら、ちゃんと伝えること!』
――はは。
思わず、吹き出してしまう。
ガキっぽい。だけど、あの頃の俺らしい。
好きな気持ちを、ちゃんと未来の自分に託していたんだな。
二通目。淡い水色の封筒。
表に《遼ちゃんへ》とだけ、やさしい文字で書かれていた。
(俺宛……?)
不思議に思いながらも開くと、沙耶の筆跡が並んでいる。中学生の頃とわかる、少し丸みのある、丁寧な字。
『遼ちゃんへ。
ほんとはね、お父さんの転勤じゃなくて、病気で転校すること、ちゃんと言えてなかった。ごめん。
でも、10年後には絶対ここに戻ってくるって決めたんだ。そのときには元気になって、いっしょに――デート、したいな。
海に行ったり、縁日に行ったり、花火を見たり。
大人になった2人で、いろんなことできたらいいな。』
一行、空けて。
『もしまだ遼ちゃんのこと好きだったら、ちゃんと伝えるから。』
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
俺たちは――
海に行った。縁日にも行った。花火も、いっしょに見た。
そのすべてが、沙耶の“10年前の願い”だった。
指先が、わずかに震える。
10年前に書かれた手紙。10年越しの約束。
それを、あの笑顔で実現させに来てくれたんだ。
……沙耶は。
そして、もう一通――
白く新しい封筒が、そっと俺を待っていた。
* * *
残った封筒は、白くて新しい。
筆跡も、宛名の雰囲気も、明らかに他のふたつとは違っていた。
封を開けると、几帳面で整った文字が並んでいた。
――見覚えのない筆跡。だけど、なぜか、読む前から胸がざわついていた。
『この手紙は、沙耶の母が代筆しています。
娘はもう、自分で手紙を書くことができませんでした。』
最初の一文で、指先がわずかに震えた。
それでもページをめくるように、目を滑らせていく。
『遼ちゃんへ。
ごめんね、約束、守れなかった。
ほんとは、最後の最後まで、自分で書きたかったけど、体がボロボロで、ペンも握れなくなって……。
それでもね、ずっとずっと楽しみにしてたんだよ。
遼ちゃんに会える、10年後の夏を。
それだけが、わたしの希望でした。』
行間からにじむ、言葉にできない感情があった。
ひとつひとつの文が、まるで絞り出すように綴られている。
『最後にお願い。
私のことは、忘れていいから。
遼ちゃんには、幸せになってほしい。
本当は――ずっと隣にいたかった。
でも、もう、それは叶わないから。
ただ、最後に一言だけ言わせて。
――ずっと好きだったよ。』
文末に、滲んだインクの染みがあった。
涙かもしれない。母の、それとも沙耶自身の。
少し空けて、追伸。
『遼くんへ。
親の立場から、ほんの少しだけ言わせてください。
娘は、あなたとの約束を心の支えにして、生きていました。医師には余命半年と告げられましたが、そこから3年近く――
奇跡のように、生きてくれました。
タイムカプセルの話をするたびに、
目を輝かせていた娘の姿を、私は忘れません。
本当に、ありがとう。』
読み終えた瞬間、手から手紙が滑り落ちた。
ひらりと舞い、膝の上に落ちる。
風が吹いても、蝉が鳴いても、音が届いてこない。
ただ、胸の奥からこみ上げる何かが、喉を塞いでいた。声にならない嗚咽。呼吸すらも、うまくできない。
俺は天を仰いだ。
夏の空は、ひどく眩しかった。
* * *
「――遼ちゃん、手紙、読んでくれた?」
風に乗って、背中から届いた声。
ゆっくりと振り向くと、そこに沙耶が立っていた。
昨日と同じ、白地に朝顔模様の浴衣。
髪が風に揺れて、日差しのなかに輪郭がにじんでいる。
言葉が、出てこなかった。
胸の奥に何かが詰まっていて、呼吸すらままならない。
「……まさか、泣いてた? えー、もう、らしくないなあ」
沙耶は笑っていた。あの頃と同じ、からかうような声で。
首をかしげ、軽く手を広げてみせる。
「実はわたし、幽霊でした~。びっくりした?」
俺は一息入れてから答える。
「最初から知ってたよ。バカ。……お前の葬式、行ったんだぞ」
「うわ、マジか……つまんないな。やだなー、ボロボロの私、見ちゃった?」
「見てねえよ。お前の親に止められた。『見ないでやってください』って……俺も、怖かった」
言いながら、息を詰まらせる。
沙耶はふっと目を伏せ、「……そっか」と、小さくつぶやいた。
「でもね、遼ちゃんが約束ちゃんと覚えてるか心配で……だから、こうして化けて出たの」
「なんだよそれ。勝手すぎんだろ……」
それでも、自然と笑っていた。沙耶も、同じようにくすっと笑う。
「でもさ、まさか10年前にやりたかったこと、ぜんぶ叶えてくれるなんて……やるじゃん、遼ちゃん。これで、わたしも……ほら、心置きなく成仏できるってやつ?」
わざとらしく肩をすくめてみせる沙耶。
ふざけているはずなのに、その声の奥には、ほんの少しだけ震えが混ざっていた。
だからこそ――
「……手紙、最後まで読んだよ」
その言葉に、沙耶の笑みが、すこしだけ翳った。
「『私のことは忘れて、幸せになって』……なんてさ。そっちこそ、らしくないじゃん」
「だって、仕方ないじゃん。死んじゃったのに、遼ちゃんが私のこと引きずってたら……かわいそうだもん」
沙耶は、笑みを浮かべたまま、目を逸らす。
「だから、私のこと……忘れて、新しい出会い、見つけて……幸せになって……」
でも、そこから先が続かなかった。語尾が震え、沙耶はうつむいたまま黙り込む。
俺は静かに、言葉を置いた。
「……お前、ほんとに昔から嘘が苦手だな」
その一言で、沙耶が一度空を見上げて沈黙する。そして、堰が切れたように――
「そうだよ……! ほ、ほんとは、忘れてほしくなんて、なかったよぉ……!」
沙耶の頬を、涙が一筋、二筋と伝う。とめどなく、こぼれていく。
「もう一回だけでも会いたかった。昔みたいに、ずっと一緒にいたかった。……ずっと、私のこと、覚えててほしかった!」
その想いは、ただの記憶じゃなかった。今もここに、生きていた。
あまりに鮮やかで、あたたかくて、切なくて――胸を締めつけられるようだった。
「でも……もう無理なんだよぉ……私は、遼ちゃんの隣に……立てないから……っ」
聞いていた俺の胸も、張り裂けそうだった。もう、抑えきれなかった。
「俺だって……俺だって、本当は全部、知りたかった!」
「病気のことも、苦しかったことも、寂しかった夜も……ぜんぶ、一緒に受け止めたかったのに……!」
気がつけば、俺の腕は、沙耶を抱きしめていた。
細くて軽い肩。浴衣越しのぬくもり。
けれど、どこか頼りなくて――まるで、指の隙間からすり抜けていく夢のようだった。
それでも、離したくなかった。
ただ強く、強く抱きしめた。
沙耶の手が、そっと俺の背中に回る。胸元に顔を埋めながら、小さな声でつぶやく。
「……ありがと、遼ちゃん。やっぱり、遼ちゃんは……優しいねぇ」
その声が、あまりにもか細くて。
俺はもう、なにも言えなかった。
ただ、ふたりで。音もなく、泣いていた。
蝉の声すら遠くに感じるほど、世界は、静かだった。
* * *
涙を拭って、沙耶は顔を上げた。まだ少し赤い目で、それでも笑おうとしている。
「ねえ、遼ちゃん……」
俺の胸に顔を寄せながら、沙耶はそっと囁いた。
「私ね――遼ちゃんのこと、好き」
「今も、これからも……遼ちゃんのこと、永遠に愛してるよ」
その言葉だけで、胸の奥が熱くなる。
俺は目をそらさず、まっすぐに沙耶を見つめた。
「俺も……お前のこと、ずっと、ずっと好きだった」
ふたりの距離が、ゆっくりと近づいていく。
指先と指先が触れ、額が重なる。
そして――
唇が、そっと重なった。
柔らかくて、あたたかくて、けれどあまりに儚い感触だった。
やがて唇を離したあと、沙耶は少し照れくさそうに笑いながら、こう言った。
「これは、私のファーストキス。……そしてラストキス。ね、ちょっとロマンチックじゃない?」
その言葉に、俺は思わず笑ってしまう。
「……ああ。そうだな」
沙耶は目を細めたまま、俺の腕の中で小さくつぶやいた。
「私たち、両想いだったんだね……うれしいな」
その声が、少しずつ遠のいていく。
気づけば、沙耶の身体の輪郭が、淡くにじみ始めていた。浴衣の裾が風に揺れながら、光の粒となって空気に溶けていく。
俺はその姿を、必死に抱きとめようとする。けれど、確かにあったはずの温もりは、指の間から静かにすり抜けていった。
沙耶は、最後に微笑んだ。
「遼ちゃん、幸せになってね。……それが、私の本当の願いだから」
「でも……たまにでいいから、思い出してくれると嬉しいな」
「……ずっと、だいすきだよ」
「ああ……! 忘れるわけないだろ!」
その声が、夏の空気の中へ溶けていった。
「ああ……幸せだな。遼ちゃんの腕の中、あったかい……」
触れられそうで、もう触れられない――
俺はその最後の光を、ひとつ残らず、目に焼きつけていた。
――もう二度と会えなくても、忘れない。絶対に。
* * *
光がすべて消えたあと、そこには静寂だけが残っていた。
沙耶がいた場所を、俺はしばらく動けずに見つめている。風が吹き抜け、淡く香る夏の匂いだけが、彼女の気配をわずかに残していた。
俺は、両手でそっと缶を拾い上げる。
タイムカプセル――10年の時を越えて、ふたりを繋いだ、小さな約束の証だ。
「……ありがとう」
ぽつりと呟いて、俺はその缶を、もとあった場所に戻した。
これは俺たちの過去だ。だから、ここに置いていこう。
スコップで、柔らかくなった土を丁寧にかぶせていく。一掬いごとに、まるで誰かを見送るように、そっと、そっと。
最後に手のひらで地面をならすと、そこに一筋の、木漏れ日が落ちてきた。
俺は立ち上がり、空を見上げる。
雲ひとつない、まっすぐな夏の青。
あの日、失ったもの。
そして、今日――ようやく受け取ったもの。
どちらも、これからも俺の中で、生き続けていく気がする。
「また、いつか──」
ふと、そんなふうに思える自分がいた。
もう、前を向いていい気がした。
風が、頬を撫でていく。その中に、どこかで聞いたような、やさしい声が混ざっていた。
『遼ちゃん、笑ってね。ずっと、だいすきだよ』
俺は空を見上げたまま、そっと目を閉じた。
* * *
町に、夕方の風が吹いていた。
荷物をまとめ終え、俺は車のエンジンをかけた。
住宅街の静けさの中、カーステレオの電源はつけず、窓を少しだけ開ける。
夕方の風が心地よかった。夏の終わりが、すぐそこまで来ている気がした。
後部座席には、帰省用のバッグ。
アクセルを踏むと、町がゆっくりと後ろへ流れていく。この数日が、夢だったのか現実だったのか――まだうまく言葉にできない。
それでも、何かが確かに変わった気がしていた。
信号待ちで、ハンドルに腕を預ける。
ふと、ポツリと言葉がこぼれた。
「……転職先でも探すかあ」
自分でも、少し驚いた。
けれどそれは、不思議と悪くない響きだった。
立ち止まっていた時間は、もう十分だ。
前を向く理由は、ちゃんとできた。
陽の落ちかけた道を、車は静かに進んでいく。
思い出を胸にしまって、その先にある、“これから”を迎えに行くように。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
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