2.
楽し気な上司の返事に、千夏は目を丸くする。そんな新作のお菓子を見つけたかのように言われても。
優秀と名高い上司にもう一つ変わった情報を入手していたのを千夏は今更ながら思い出した。
事件とスイーツに目がない。
優秀すぎるがゆえに、糖分が人よりも必要なのかもしれない。それはまるでドラマや小説に出て来る、超優秀な刑事そのものではないか。
やはり、本庁捜査一課の刑事を長年勤めているだけはある方だ。
千夏は承知しましたと上司に告げて、スマホの通話を切った。事件での呼び出しとは思わなかったが、刑事たるものいつ現場に呼ばれても良いようにしておけと、所轄の先輩に叩き込まれ、肩から下げたショルダーバッグの中には、臨場する際に使う道具の一式が常に入っている。服装も周りから浮かないようにビジネスフォーマルにしてあるが、さすがにこのような場所では少し浮いている。もう少しファッション誌を読み込み、ビジネスフォーマルではない服装も揃えた方が良いような気もしているが、いかんせん給料も階に行く暇もない。
千夏は指定された階に向かうため、小走りにエレベーターホールに向かう。何機もエレベーターがあるが、ボタンを押すとすぐに手前のエレベーターの扉が開いた。エレベーターの近くにはパーティードレスを着た人たちがいて、その色の多さに少しだけ目が眩んだ。
そう言えば、来月も招待された結婚式があったはずだ。
入庁七年目ともなると、結婚する同期が増えてきた。幸せな同期の姿を見る度に、仕事一本の自分に悩むこともあるが、事件が発生してさえすれば、そんな悩みもどこかに消えるから、やはり仕事人間なのかもしれない。
ぼんやり考えていても仕方がない。なにせ憧れの本庁捜査一課の刑事になったのだ。明日から本番だが、初陣は早い方がいろいろ経験を詰める。頬を両手で叩いてから千夏はエレベーターに乗り込む。
高級ホテルに来たことが無いせいか、なんだか落ち着かない。見上げると、披露宴会場や客室が何階にあるかが書かれた案内表示だった。十四階までは客室のようで、十五階はチャペル、十六階階から最上階までは、各階に一つだけ披露宴会場がある。呼び出された最上階の披露宴会場の名前はスカイバンケット。ここに来るまでに調べたホテルの情報を記憶から呼び起こす。確か、最上階からの眺望も演出になるほど、大きな窓があったはずだ。
ポーン、と上質な音を奏でたエレベーターは、ようやく最上階にたどり着いた。降りて左手に規制線が張り巡らされた女性用トイレがある。バッグからシューズカバ―を取り出し、手際よくパンプスに被せた。
「青木千夏くん」
声がした方を見ると、エレベーター近くに置かれているソファに優雅に寛ぐ男性がいた。三つ揃えのスーツを着こなし、余裕たっぷりの表情を浮かべている。組んでいた足を直し、立ち上がった男は千夏の前に右手を差し出した。
「初めまして、警視庁捜査一課特殊捜査班の赤城恭介警部だ」
ここまで事件現場で穏やかにしている刑事は始めてだ。瞬きをはっきりと何回かしてから、千夏も慌てて男――赤城の右手を取り握手する。
「お、遅くなりました。明日付で着任の青木千夏巡査部長と申します。不慣れな点がありご迷惑をおかけするかと思いますが、なにとぞ」
「堅い、堅い。もう少しリラックスしてよ。ここは現場だよ?」
「はい?」
「僕好みの現場だけど、今回は君のお手並みを拝見するから、あとはよろしくね」
「は?」
全くと言って良いほど、話が理解できない。異動初日にもなっていない部下に対する態度とはとても思えない。
あれか?
今日の出来次第で警視庁捜査一課から追い出されることになるのか。それは困る。
やはり本庁捜査一課というのは憧れだけで刑事を続けるのは難しいから、ここで一発かましてやろうという、あれか。それも困る。
困惑している千夏に向かって、恭介は目を細めながら、形の良い顎を右人差し指でつつっと撫でた。
「さて」
恭介の言葉が一度途切れる。
その言葉に、千夏は自然と背筋がすっと伸びた。