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異動を翌日に控えた昼、異動先の上司から、高級ホテルのラウンジで集合するように連絡が入った。
異動前日で引っ越し作業に追われていた青木千夏は慌てて身支度を済ませて一人暮らししているアパートから飛び出した。
刑事ドラマの刑事に憧れ、飛び込んだ警視庁。
研修、交番勤務を経て、念願の刑事になったのは数年前。縦社会、体力勝負であることは百も承知だったし、くじけそうになったが、刑事になれた時には、天にも昇るような思いになった。
所轄の刑事。
この響きが今の千夏を仕事により一層励まさせたのは言うまでもない。
家の近くの大通りで捕まえたタクシーに行き先を告げ、ようやく上司が指定するホテルにたどり着いた。
見上げれば首を痛めそうなほどの高さの高級ホテル。お給料を何か月分つぎ込めば、ここで優雅に過ごすことができるのだろうか。タクシーから降りようとした時に、ドアアテンダントが寄り添い、丁寧にドアを開けてくれた。ホテルの正面玄関から伸びている毛が長い絨毯は、ヒール越しでもフワフワ感を感じられる。
こんなところに上司が青木千夏を呼んだのかは皆目見当がつかない。
事件発生の連絡は受けていない。ただ、ここに来いと言われただけだ。
もしかして、異動初日の夕方や夜は歓迎会をできない可能性があるから、前日の、しかも午前中のうちにちょっと良いところで歓迎会でもしてくれるのだろうか。
さすが、警視庁捜査一課に所属する方は心配りが違う。所轄の先輩方では、近くのなじみのある居酒屋が精いっぱいだろう。
ドアアテンダントに案内されるまま、中に入り、ラウンジに向かう。
日取りが良いのか、白いネクタイを身に着けている男性やパーティードレスを着ている女性がちらほらいる。そのほかは大きなトランクを引きずっている外国人観光客や荷物をベルアテンダントへ預け慣れているご高齢のご夫婦などまばらだ。やけにくたびれた服の男性もフロント前のソファに座っているが、恐らく昇段か何かに失敗したのだろう。やけに落ち込んだ様子だった。
ラウンジにたどり着いたものの、待ち合わせ客はいないとスタッフに言われてしまった千夏は、スマホを鞄から取り出し、通話履歴から上司の番号を呼び出す。
『遅かったね』
軽薄さを孕んでいる声で電話に上司は出た。優秀と名高い上司は余裕たっぷりの声で応答してくれた。謝罪をしようとしたが、千夏よりも早く上司が話を続ける。
『そのまま最上階まで上がっておいで』
自分がラウンジに誘っているのを忘れているのだろうか。さすがにそれは無いだろう。それとも。
「最上階ですか? ラウンジではなく?」
『事件だからね』