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毒家族

毒家族

作者: 結音

私は1982年7月22日、群馬県沼田市に産まれた。当時は「ネグレクト」なんて都合の良い言葉は無く「虐待・暴力・放置・無視など」だった。 父(健治)はお酒が一滴も飲めないのにも関わらず嫉妬で毎日のように母(しづ子)に暴力を奮っていた。


私の1番古い記憶は産まれたての私を抱いた母が妹(みよ子さん<話が長い事で親族の中では有名>)と電話で話していた際に父が「いつまで喋ってんだ!」と母から受話器を横取りし母の頭を殴り、私が母の血を浴びるというのが1番古い記憶。

姉は(ふすま)にしがみついてその光景を見ていた。

私は幽体離脱のような状態になり、その光景を上から見下ろしていた。 私は2歳半に小児喘息を患い、2度、心肺停止状態になった。


それでも父はタバコをやめてはくれず、4歳になった時、私の歯は前歯下4本しか生えてこなかった。これは父と母が私を作る際、父がシャブ中毒だったせいだと物心付いた時に周りから聞いた。 正常な子の永久歯が生えてくるのが6歳なのに対し私の永久歯が生えてきたのは9歳だった。 母はこの頃、私に歯医者へ通うようにしてくれていたが、お金が苦しかった我が家はそのうち母も「歯医者に行きなさい」と言わなくなった。 その歯のせいで私は小学1年生からずっと「歯抜けババア」とイジメられ、小学3年生の時には担任の先生からもイジメや嫌がらせ、更には体育倉庫への閉じ込めにまで遭っていた。 体育倉庫に閉じ込められた時は『お母さんが迎えに来てくれる』と心の底から信じていた。 だが気付いてくれたのは音楽の先生(H先生)だった。外へ出て『きっとお母さんが心配してくれている』と思っていた。2日間もの間、小学3年生の娘が家に帰ってこないのであれば、普通の親は心配するだろう。 だが、母は全く気にしておらず、捜索願も提出されていなかった。むしろ『居なくてラクだった』というような言動をした。


物心付いた小学1年生の頃から父は私の体を見ては異様に興奮していた。 バス・トイレが一緒のマンションに暮らしてた際には入浴中の私の所へわざわざ入ってきて新聞を広げまだ小児喘息を患っていた私の近くでタバコを吸い、ニヤつきながら「お父さんがカラダ洗ってあげようか?」などと言い、脱衣所が玄関だった為、台所からよく「ゆうちゃん、おまんこよく洗えた?」などと言ってきた。

私が小学4年生の9月に生理がきた私は母に「どうして今日は御赤飯なの?」と聞くと「ゆうちゃんが生理になったお祝い」と言われ「やめて」とお願いしたものの、もう準備されてしまった御赤飯が食卓に並べられた。 すると、父がまたニヤつきながら私の体を舐めるように見てきて「ゆうちゃん、おめでとう」と言ってきた。 私は既にその時、不登校で学校にほとんど行っていなかったので、家で無職の父と2人きりになることが多く、この頃から父は私に「これでいつでも出来るね」と言って体に触ってくるようになった。 お風呂にまで一緒に無理やり入ってくるようになり「お父さんが体洗ってあげるからね」「キレイにしないと出来ないからね」と痛くなるほど洗われたのを覚えている。


この頃から母は私のことが疎ましく思うようになったのか、顔をちゃんと見てくれなくなった。 姉は父から力による暴力を毎日のように受けていた。そして私は性的虐待を受ける毎日。 何度も『死んでしまいたい』と思った。 どこかに首を吊って死ねる場所が無いか家の周りを探す日々。


この頃から私はリストカットを始めた。カッターを持ち歩き、嫌なことがあったら1本、2本と手首に傷を増やしていった。 ある日、姉の机の本棚にあったある本を私は手に取った。『自殺完全攻略マニュアル』私は姉が学校に行っている間、父の性的虐待時間が終わり父が寝ている時にその本を愛読していた。

我が家は姉だけがお小遣いを貰えていたので、姉が買ったのだろう。姉も『死にたい』と考えていると思うと、その頃の私は姉が好きだったので、とても悲しかったのを覚えている。


姉が高校1年生になり、ピアスを開けて帰宅した後、父は姉の耳が引きちぎれる程、殴り続けていた。それを部屋の隅で震えながら見ていたら殴り終わられた姉が私に暴力を奮ってきた。


もう最悪だった。父からは性的虐待、姉からは暴力、母は見て見ぬふり。

毎日が地獄だった。

何度、リストカットをしたかわからないほど、私の左腕はリストカットの(あと)が残ってしまった。

誰も助けてくれないこの状況で私はどんどん可怪(おか)しくなっていった。


今思えば、『死んでしまいたい』と思うようになった頃には既に鬱状態だったんだと思う。


それから時を()て、小児喘息も治り、姉だけには激甘だった母の病気がわかり、積極的に病院にもお見舞いに行っていたのに、私が中学2年生の頃、最初は1対1で話し合っていた他校の同級生をボコボコに集団リンチするという事件に巻き込まれた。

パトカー8台に追いかけられるという何とも面倒くさいことに巻き込まれたのだ。 私は何もしていないので1日、逃げたけど集団リンチを計画し実行した子達に「私、帰る」と告げて帰宅。

警察から連絡をもらっていた母と姉がマンションの下に居て、泣きじゃくる母と無言で私の頬をビンタしてきた姉。

警察署に呼ばれ、母と警察署に向かう途中母に「ゆうちゃんなんか産まなきゃ良かった」と言われた。警察署に着いて母に「娘さんは被害者です。殴られた子が娘さんは庇ってくれたんだと言っていたんです。」と言ってくれた当時、少年課に居た菊池さんという刑事さんがいた。

母は帰り道、「産まなきゃ良かった」と言ったことを撤回してはくれなかった。 姉も私が被害者だと知った後もビンタしたことを謝ってはくれなかった。


こんな家に産まれたことを心底、憎んだ。


その後、庇った子(Iさん♀)は同性愛者だったために気に入られて求愛され、ストーカーされるようになった私は何度も少年課の菊池さんに助けを求めた。 ストーカー行為が脅しに変わった頃、公衆電話ボックスから菊池さんに電話をすると「もう居ない」と言われ『私の人生は幸せなんて来ないんだ』と思い知らされた。

『私の体は(けが)れている』と思うようになった頃、私は定時制高校を留年し、『あと2年通うくらいなら辞めて働こう』と心に決め独断で自主退学し、18歳で風俗業界へ。


母の妹(みよ子さん)には「汚らわしい。恥さらし」と言われたが、私の気持ちに揺らぎは無かった。 『元々、父から性的虐待を受けて汚れているんだもの。これ以上、汚れたって構わない』と本気で思っていた。


高校2年生の時に同級生からレイプされ、処女を失っていた私には、もう恐れるものなんてなかった。

当時の私には理解者なんて誰も居ない。


ただ孤独だった。


風俗の世界に入りオジサマ達に(すが)る ことで孤独感を埋めようとしていたのかもしれない。

仕事で(せわ)しなく働いていた私に姉から「お母さん、もう永くないから面会においで」と言われた。仕事でクタクタになるまで働いて母の病気から逃げていた私に届いた知らせだった。

私が面会に行った時、母は既に意識はなく、横たわっているだけだった。

母が亡くなった6月6日、病室には母の妹の(みよ子さん、よし子さん)2人、弟の(新一さん)1人、父(健治)、姉(由紀子)、姉の子供、みんな泣いているのに涙が出ない。

不思議だった。もらい泣きするであろうこの状況で、涙が一粒も流れて来ないのだ。でも母親らしいことをしてきてくれなかった母の罪なのかもしれない。

火葬場で葬儀場の人から「3人までしか入れない」と言われ、既に離婚していた父と私と姉が入ることになったが、母の妹(みよ子さん)はそれが納得いかなかったらしく「N(父)さんが入るなら私が!」と駄々をこねていた。いい大人が見苦しい。

母が亡くなり、家族がバラバラになったおかげで、私は父からの性的虐待から逃れることが出来たが姉の暴力からは逃れることが出来なかった。 私の通帳に入金された謎の30万円を元手に西葛西にあったランジェリーパブに入店し、呼び込みの仕事をしていたら突然、後ろから髪を掴まれ、姉にボコボコにされた。警察官も出動するほどの大騒動。

その後も千葉県に逃げるも見つかりボコボコにされた。 姉は私を殴っていた時、ものすごく楽しそうに笑いながら殴っていた。イカれてる。

どこへ逃げても追いかけてくる姉といつの間にやら自分を特別扱いしてくれるホスト狂いになってしまっていた私。

担当のホスト(櫻井克巳・本名:吉田竜也)から暴力を受けるようになり、肋骨を2本折られ「痛いフリすんな!」と言われた事を一生忘れないだろう。私が櫻井克巳に殴られ、蹴られている異常な光景を目の当たりにしていても顔色1つ変えずに眺めるホスト達とその客の1人(本名:黒崎麻衣)。リストカットの回数は増え、頼るあてが無かった私は姉の家に一時的に住ませてもらうことになったが姉は私に「金を稼いで来い」とまた暴力を奮うようになった。

そんな時、風俗店を通じて知り合ったのが金指雅人。付き合うようになって4年後に結婚することになり、婚姻届を出したら雅人の母(姑:操)に「息子には借金があるからこれからは2人で私に返しなさい」と言われた。行き場の無い私に突きつけられた家族ぐるみの結婚詐欺。

だが、もう家庭に入ってしまえばコッチのものと働くのを辞め、専業主婦になった。 子供は育てる自信が無かったため、セックスレスでも気にしなかった。 雅人はタクシー運転手で月に手取り40万以上は稼いでいたはずなのになぜ借金するまでになったのかを探っていたらタクシー運転手仲間達とパチンコに行っていて既に依存症になっていた。

そのため、生活費にまで手を出すようになっていて、私が食費や生活費の一部の穴埋めをしなきゃいけなくなり、スーパーで働くことになった。


だが、スーパーで働くことになった私に向けられたのは上司からのパワハラ。暴力。 やっと暴力から逃れることが出来たのに、上司からの暴力により私の心はまた崩れてしまった。 雅人との離婚を心に決め、スーパーを辞め、また風俗の世界へ。 雅人は自分こそ風俗店を通して私と知り合ったくせに全て私のせいにして友人(前澤昭光・堀谷卓史、他)や家族(金指忠・操・忠幸・紀子)、職場(木浦さん他)の人間にまで「嫁が風俗嬢になったから離婚する」と話し、私はコツコツ貯めた18万円を持って離婚。


42歳になった今、姉とも絶縁。やっぱり根は深くトラウマで度々、夢に見て(うな)されるものの、平和を愛する新しいパートナーとも出会い、今の私の生活は穏やかだ。


余談だが、町歯医者では技術や設備が足りず、治療するのが困難だった私の歯は、大学病院の歯学部によって、総入れ歯を作ってもらえることになった。これで消化不良で吐くことも軽減されると思うと、大学病院を紹介してくれた町歯医者さんへお礼をしに行きたいと願う。

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私は薬中を、そしてそれを食い物にする反社を絶対に許さない、なぜなら奴らは 人間ではない、害虫だ 心ある多くの人たち、心ない私ですらアナタを愛し、肩を抱きたいと思っている 人間だから もし、どこかで…
あなた様の壮絶な人生を目で知り、読ませて頂いていた間は体の感覚を失っていました。 現実には苦しい事の方が多いですが、たった一つ……一つでも過去を薄らぐくらいの報われる事が訪れる事を心の底から願います…
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