うさ耳令嬢、助けたおじさま辺境伯に囲われる。
産まれた時から、真っ白い髪の毛と真っ赤な瞳。
それはとてもとても気持ち悪がられていました。
そして、頭の上にふたつ生えているもので、さらに気持ち悪がられていました。
私には、人の耳とは別にぴょこんと立っているうさぎの耳があります。
この世界には人間のみが暮らしています。
はるか昔には様々な種族がいました。エルフやドワーフ、獣人などが主にいたそうです。ですが、大きな種族間戦争になり、人族は他種族と袂を分かつことになったそうです。
悠久の時を生きるというエルフ族が魔法を使えたことから、エルフ族含む他の種族たちが、私たちのいるこの世界とは別の世界へ移動していったという伝承が残っています。
……伝承、なのです。それはおおよそ千年前の出来事でした。
しかし、その爪痕は未だ世界に残っています。
異種族と交わった人族は、その種族と半々の見た目や性質を持った者が生まれやすく、『混血』と呼ばれていたそうです。当初はそのハーフも多かったようですが、代を重ねるごとに血は薄まり、ほとんどが人族と同じ見た目で、能力の差もほぼなくなっていました。
そんな中、運命の悪戯の様なことが起こり始めました。私の様な超隔世遺伝です。
本当に稀な存在のようで、王都には私を含め三人しかいません。
その稀有さと見た目の異質さから、気味悪がられています。人によっては恐れるほどに。
触れたら移るから近寄るなと何度も言われました。
無邪気な子どもに、石を投げつけられたり、泥水を浴びせられたりもしました。
幸いなことに、両親は私を慈しみ育ててくれたのですが、うさぎの性質のせいなのか、臆病さが全面に出てしまいました。そうして、上手く他人と関われないままに、十九歳になってしまっていました。
「クラリス、新年の夜会に出てみないかい?」
「無理です……お父様」
「クラリス、新年のデビュタントボールにだけは、出て欲しいの。社交界デビューのチャンスは今年までなの。お父様とお母様が貴女を守るから。ね?」
「っ…………」
伯爵家に産まれ、幼い頃は何不自由なく暮らし、外出もよくしていた記憶があります。ですが世間からは『混血』だと蔑まれていることを知り、体感し、外の世界が恐ろしくなりました。十代のほとんどを家の中だけで過ごしました。家族と使用人以外は誰とも会わずに。
社交界デビューは、どの地位のご令嬢も御子息も必ずするものだと認識されています。そして、デビュタントにならないと、貴族名鑑に登録がされません。つまり、平民と同じ扱いになるのです。
そして、そうなると貴族との結婚が難しくなってきます。
「クラリス、無理にとは言わない。でも、少しだけ勇気を出してみないか?」
「新年の夜会には、他の都市にお住まいの『混血』の方々も来られるわ。彼らと直接話してみるのも、良い機会だと思うの」
「っ…………少し、考えさせてください」
お父様とお母様の気持ちは十分にわかるのです。でも、幼い頃の記憶が足を竦ませます。
うさぎの耳がふるりと震え、段々と後ろに倒れていくのがわかります。
この耳は、人では聞き取れないものも聞こえてしまいます。耳に神経を向けなければ、普段は特に何も聞こえません。ですが、幼い頃はそれが出来ずに、何でもかんでも拾ってしまっていました。
そうして知ったことは、気持ち悪がられていること、蔑まれていること、恐れられていること。
それでも! と、歩み寄ろうとしたときもありました。ですが、余計に気味悪がられ、暴言を吐かれ、心が折れてしまったのです。
ダイニングから部屋に戻り、ベッドで丸まります。こうしているときが一番落ち着く。
私は両親のようにいつか誰かと結婚したり、子どもを授かったりできるのでしょうか? 二人のように子どもを慈しみたい気持ちはあるのです。
でも他人が怖い。
そんな私が、誰かを愛することができるのでしょうか?
デビュタントボールに参加するか迷ってひと月。両親とともに祖父の屋敷に訪れていました。
祖父の誕生日を祝うため。何より、祖父が私に会いたいと言ってくれているため。この日だけは外に出掛けるようにしていました。
「こんな大雨の中、来てくれたのか! クラリス、よく顔を見せてくれ」
好々爺とした祖父ですが、以前は軍の上層部にいたとかで皆に恐れられていた……とか。私には優しい優しい祖父でしかありませんが。
「お祖父様、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう、クラリス。デビュタントボールに参加するか迷っているそうだな?」
「っ、はい……」
「どうだろう? 儂と参加するのは。儂が全ての輩に目を光らせておいてやるから、な?」
「ふふふっ。お祖父様に睨まれたら、みな蛙のように固まるか、走って逃げてしまうかもしれませんね?」
お祖父様の勧めもあり、新年の夜会で社交界デビューすることに決めました。
少し早い時間でしたが、雨が上がっていたこともあり、お祖父様の屋敷を出発し家に帰ることになりました。
走り出して三十分ほど経ったころ、止んでいたはずの雨がまた降り出してしまいました。
先行している両親の乗った馬車が進み続けているので、このまま帰るようです。
「レネー、雨音以外の音が聞こえるわ。何か、変――――」
あまりにも雨が酷いので、うさぎの耳で異変はないかと集中していると、ミシミシと木が軋むような音とブチブチと何かが引き千切れるような音が続いていました。
侍女のレネーに、両親の馬車に追いつきたい旨を伝えようとしていたとき、ドンと横から何かに追突されるような衝撃、そして横転。
馬車内のランプは割れ、油が飛び散りました。火が馬車内に一瞬で回り、慌ててレネーと二人馬車から飛び出しました。
倒れた衝撃からか、天井が外れるようにして壊れていて助かりました。
「え……」
荒い息をどうにか落ち着けようと深呼吸をしようとしたところで、目の前に広がる惨状に、言葉を失いました。
山間ではあるものの広めの街道で、よく使われている道でもありました。
綺麗に整備されていて、馬車同士がすれ違うことも可能なほどの道。それが、大量の土砂で寸断されていました。
「土砂……崩れ?」
私たちの乗った馬車は、土砂崩れに巻き込まれはしたものの、かなり手前の方だったおかげで完全に埋もれはしなかったようでした。
「お母様? お父様?」
前方を走っていた両親の乗った馬車が見当たりません。馭者に聞こうにも、私たちの馬車を操縦していた馭者は、土砂に半分埋もれた状態で亡くなっていました。二頭の馬も、同じく。
どれだけ耳を澄まそうとも、両親の声も心音も聞こえません。
「っ!」
今まで心の支えだった二人を失ったのだと、理解してしまいました。息ができません。必死に吸おうとしても、ほんの少しだけしか吸えず、ヒュッと喉から変な音がします。
「お嬢様っ! この場から離れましょう! 危険ですっ。お嬢様っ!」
レネーに腕をぐいぐいと引かれました。そのおかげで、未だにパラパラと砂や石が落ちてきていることに気が付けました。コクリと頷いて離れようとしたとき――――。
『い、たい…………たす……』
小さな声でした。うさぎの耳でやっと聞き取れるほどの。
耳を澄ませると、トクントクンと心音が聞こえてきました。聞き慣れた両親たちのとは違う、心音。
――――どこ?
山の傾斜のようになっている土砂の上を慎重に歩きましたが、濡れた土砂に足が取られます。靴を脱ぎ捨て裸足で歩き、微かに聞こえる心音を頼りに歩みを進めました。
後ろの方でレネーが何か叫んでいますが、消えそうな命が目の前にあるのに、気付かなかった振りはできませんでした。
『…………たすけ……』
――――聞こえた!
足の下から、小さな小さな声。
まだ生きています!
「お嬢様、逃げましょう? 伯爵と奥様は、もう…………」
「違うの! ここ、ここの下に誰か埋まってる!」
「え、ですが……」
「聞こえるのよ。助けてって。この人だけでも……助けたいのよ」
お母様もお父様もきっと、死んでしまっている。何も聞こえないもの。
でも、この下にいる人は、まだ生きているから。
溢れそうになる涙をびしょ濡れの袖口で拭い、土砂に膝をついて、両手で掘り起こし始めました。
未だパラパラと、上の方から僅かに砂や石が落ちてきてはいますが、再度土砂崩れが起きるような音ではありません。ただ、このままであればいつかまた起きます。
それに、埋れている空気がいつまで持つかわかりません。
救助を待つ時間はないのです。
「お嬢様、これを使いましょう」
いつの間にか消えていたレネーが、大きめの木の板を二枚持って戻って来てくれました。素手でやるよりも、木の板を使った方が早いと言いながら。
「レネー…………ありがとう。巻き込んでごめんね」
「いいんですよ。気弱なお嬢様が、始めて自分から動いたんです。レネーは、そのお手伝いができて幸せですよ」
レネーと二人、なりふり構わずに土砂を掘り起こしました。
四十センチほど掘り起こしたところで、硬いものに木の板が当たりました。思っていたよりも浅くてホッとしました。
急いで周辺も掘り起こすと、何かのドアのようでした。
「馬車?」
「……のようですね。ドアの形に合わせて掘りましょう!」
「うんっ」
レネーと二人、泥まみれになりながら掘り進め、どうにか馬車のドアを開けることに成功しました。
薄暗い馬車内は、半分ほど泥水に埋もれていました。
「っ、大丈夫ですか!?」
「…………」
馬車の中には背がとても高そうな壮年の男性が一人いたのですが、意識を失っているようでした。
「おじさま、起きてください! おじさまっ! 起きてっ!」
先程から、またブチブチと何かが千切れるような音が徐々に鳴り出しています。これは、土砂崩れが始まる直前に聞いていた音と似ています。嫌な予感がするのです。
「おじさまっ!」
「っ…………そんな年じゃ…………ない」
「おじさま、起きて! そこから出られますか!? 早くっ!」
「……? たす……かったのか?」
「まだですっ。土砂崩れがまた起きます!」
私のその言葉で、馬車の中にいた黒髪のおじさまの目がカッと開きました。その瞳は金色と緑が混ざったような不思議な色をしていました。
おじさまが馬車の中から勢いよく飛び出ると、ぐるりと辺りを見回し、私とレネーを小脇に抱えるようにして走り出されました。
身長は私よりも頭一つか二つくらい高そうです。体格も武官のようにガッシリとされているからこそ、私たちを抱えて走れるのだとは思いますが、それでもしばらくなぜ抱えられているのか理解できませんでした。
「えっ……」
「ギャッ!?」
「喋るな、舌を噛むぞ」
レネーは既に噛んでしまったようで、涙目になっていました。
土砂崩れの場所から十メートルほど離れ、開けた場所に下ろされました。
「緊急事態とはいえ、淑女を荷物のように運――――うさぎの耳?」
「っ!」
おじさまにうさぎの耳をじっと見られてしまい、慌てて両手で頭を押さえました。それで隠れるものではないのですが、つい。
「混血の……」
「――――っ」
おじさまが無表情でこちらをじっと見て、そうつぶやいた瞬間、レネーが私の前に立ちおじさまから護るように、両手を広げました。
「あぁ、すまない。不躾だったな。警戒しなくていい」
「信用できかねます」
「レネー、ありがとう。大丈夫」
土砂崩れが起きてからずっとうさぎの耳を澄ませ続けています。もしかしたら、両親の声や心音が聞こえるかも、と。それは叶わないようですが、その代わりにおじさまの柔らかい心音が聞こえ続けています。
たぶんこの人は悪い人ではない。だって、私たちを抱えてまで避難してくださいましたから。ただ、耳を見て呟いてしまっただけなのでしょう。
「ですが……」
「大丈夫よ。あそこの木の下で少し休みましょう」
レネーの手を取り、道の脇にあった木を指差すと、レネーが逃げなくていいのかと聞かれました。
大丈夫なのです。先程から、聞き慣れた心音がどんどんと近づいてきているので。
「クラリス!」
「お祖父様――――」
見慣れた馬車と、少し前に別れたばかりのお祖父様。
馬車から飛び降り、御老体とは思えない早さで駆け寄って来てくださいました。
泥まみれの私を厭うことなく抱きしめてくれました。
「土砂崩れが見えて、嫌な予感がしたが……。巻き込まれていたか。…………ダヴィドたちはどこだ?」
「っ……お父様の心音も、母様の心音も、何も、聞こえないの」
「なんて、ことだ……」
お祖父様が震えながら「大切な子どもと親を残して先に逝く馬鹿があるか」と呟きました。
「ごめんなさい」
「なぜクラリスが謝る」
「だって――――」
両親は私のために帰ろうとしていた。私が一番落ち着けるのが家だから。
ずっと変な音がしていたのに、直ぐに馬車を止めなかった。私だけが気づけるのに。
「馬鹿なことを言うんじゃない! 誰のせいでもない。クラリス、これは天災なんだ」
「っ、はい……」
お祖父様はそう言ってくれたけど、やっぱり後悔は心の奥にずっと残りそうでした。
「卿、大変申し訳無いのですが、とりあえず彼女たちを馬車に乗せられ、避難いたしませんか」
「ん? お主はたしか…………ランジュレの?」
「はい」
「お主も巻き込まれておったか」
詳しい話は馬車で聞くとお祖父様が言われ、とりあえず馬車に乗るようにと言われました。
雨が止まないことには、お父様たちを探せないし、二次被害も起きかねません。お祖父様に他に誰か巻き込まれていないかと聞かれましたが、今は私たち以外は、野生動物たちの声しか聞こえませんでした。
「……そうか。辛いことを確認させてすまない。馬車に乗ろう」
お祖父様が目頭を押さえ、力なく息を吐かれました。
お祖父様の屋敷に到着し、とりあえず湯浴みすることになりました。
馬車を降りた瞬間、おじさまがズシャリと地面に倒れ込んでしまいました。
「おじさま!?」
「…………おじ……」
「ランジュレ伯、大丈夫か?」
「すみません、足が折れているようです」
――――え?
お祖父様が使用人たちを呼び、おじさま――ランジュレ伯爵を運んで行きました。私たちは怪我はないかと聞かれましたが、擦り傷程度なのでおじさまを優先して下さいと伝えました。
部屋に案内されました。レネーは遠慮していたのですが、一人では心細いからとお願いすると、一緒に湯浴みしてくれました。
お互いに体を確認し、気づいていない怪我はないかとチェックもしました。どうやら打ち身や擦り傷のみで済んでいるようでした。
「さぁ、あがりましょう」
「うん」
用意してもらったドレスを着て、不思議に思いました。サイズがぴったりなのです。
なぜかしらとレネーに尋ねると、お祖父様のお屋敷には念のためにと私たち一家の服が何着か置いてあるのだそうです。
いつか、お泊りできたら使えるようにと、私が成長するたびに、お母様がドレスを入れ替えていたのだそう。
「っ! お母様……」
優しすぎる両親に、胸が締め付けらます。涙が溢れそうになっていたその時、タイミングよくノックされてしまい、慌てて瞬きをして涙を散らして返事をしました。
「疲れているところすまない。二人ともリビングに来れるかな?」
「はい、お祖父様」
どうやらおじさまの治療が終わったらしく、事故時の状況を合わせて聞きたいとのことでした。
リビングに向かうと、おじさまの右腕と右足に添え木がされ、包帯でぐるぐる巻きにされていました。
右足は骨折しており、全治一ヵ月ほど。右手首は酷い捻挫で二週間は動かさないように、とのことでした。
そんな腕と足で、私たちを抱えて避難してくださったことに、感謝と謝罪をしましたら、逆に感謝されてしまいました。
「掘り出してもらえなければ、私は死んでいた。感謝するのはこちらだ」
「クラリスが助けたのか?」
「えっ、あっ……」
身綺麗にしたおじさまは、黒い髪を後ろに撫でつけ、不思議な色の瞳が事故の時よりもはっきりと見えました。なんだかその瞳に吸い込まれてしまいそうで、慌てて目を逸らしてしまいました。
「事故の状況だが――――」
おじさまいわく、一台の馬車とすれ違いもう一台とももう少ししたらすれ違うなという感覚だったそうです。
おじさまの乗った馬車はガラス窓がないタイプだったのですが、なぜわかるのかというと、馬車の速度とすれ違いざまの音、そして自分の馬車がスピードを落としたままだったことから、そう推測できるのだとか。
私たちの馬車は横窓はあったものの、天候のせいでほぼ見えませんでした。ただわかるのは音から、慣例通りに悪天候の際は前方と少し距離を置いて走っているのだろう、ということだけでした。
「ふむ。すれ違った馬車は、息子たちが乗ったものだろうな」
他にはすれ違った馬車などは居なかったかと聞かれましたが、音的には他に馬車はいなかったと思いました。おじさまも、あの周辺では一台だけだったと言われました。
もうちょっとちゃんと他の音にも気を配っていれば良かったです。
「クラリス、家の方には天候が回復しだい鳥で知らせる。今は休みなさい」
「っ、はい」
食事は部屋でゆっくり取れるよう、用意してくださるそうです。お祖父様にお礼を伝え、部屋に戻ろうとしたのですが、そこでおじさまが松葉杖をついて歩こうとしていることに気が付きました。
「おじさま!」
ふらりと身体が揺らいだのが見え、慌てて駆け寄ると、おじさまが驚いた顔をしました。
「お…………じ……」
「大丈夫ですか? おじさまもお部屋に?」
「あ、ああ」
「一人では危ないです」
おじさまの右側に立ち、患部に当たらないよう気をつけながら、腰を支えるように手を添えました。大した補助はできませんが、それでもおじさまの助けに何かしたくて。
おじさまは最初は遠慮していたのですが、お祖父様が私の好きにさせてやってくれと言ってくださいました。
「……では、頼む」
おじさまを支えながら歩いていて、おじさまの背がとても高いことに気が付きました。私の頭が肩より少し下にあるのです。
身体つきもがっしりとしており、昔見た騎士様のようだなと思いました。
部屋の前まで来たところで、おじさまがクスリと笑い声を漏らされました。
「どうされました?」
「いや、うさぎの耳がピルピルと動いて擽ったくてね」
「っ!?」
咄嗟に離れて、うさぎの耳をギュッと握り隠そうとしていると、おじさまがハッとしたような顔をされました。
「あ、すまない。嫌味や蔑む意味ではない。ただ、可愛いなと思っただけなんだ」
「へ?」
「っ、私は何を言っているんだか…………すまない、忘れてくれ。支えてくれてありがとう。おやすみ」
おじさまがサッと部屋の中へ入って行かれました。レネーに促され、私たちも部屋に戻ったのですが、おじさまの先ほどの言葉が頭の中をグルグルと回ります。
――――可愛い?
気持ち悪がられるばかりのうさぎの耳。そう思っていました。確かに、両親はよく可愛いと言ってくださっていたのですが、それは親の欲目を含んだものだと思っています。
では、おじさまは?
両親と急な別れをすることとなり、悲しみと不安で圧し潰されそうだったのですが、久しぶりにうさぎの耳を使い続けたせいか、食事のあとは直ぐに眠ってしまいました。
翌朝、お祖父様から道路の再建と両親の捜索を開始したことを伝えられました。
「クラリス、いまあの屋敷に帰るには辛すぎるだろう? しばらくここにいなさい」
「っ…………でも……お祖父様の迷惑に……」
「迷惑になどならん! そうだな、ただいるだけでは余計なことも考えてしまうだろう――――」
おじさま――ランジュレ辺境伯は、怪我の様子見も含め、お祖父様のお屋敷にしばらく滞在することになったそうです。
お祖父様は災害の後処理などを国と話し合ったりも行わないといけないため、おじさまのお世話を私に任せたいとのことでした。
「頼んでもいいかい?」
「はい」
人と関わるのは怖いけれど、おじさまなら大丈夫かもしれない。なんとなくそう思うのです。
おじさまのお部屋に向かうと、おじさまは眠っているとメイドに言われました。彼女いわく、骨折のせいで昨晩から熱が出ていたそうです。今はお薬を飲んで寝ているのだとか。
お祖父様からおじさまの世話をするよう言われた旨を説明すると、なぜかメイドがにこりと微笑んで、おじさまの部屋から出ていってしまいました。
――――えっと?
とりあえず部屋の中に入ると、おじさまがベッドで寝ていたのですが、とても苦しそうな表情でした。
ベッド横のイスに腰掛け、おじさまの額に乗せてある布を取ると、とても熱くなっていました。
サイドボードには、氷水が張られているタライが置いてあります。これでおじさまの額を冷やしたら良いのでしょう。
「……んっ」
額によく冷やした布を置くと、おじさまがピクリと動きました。冷たすぎたかと思ったのですが、おじさまの表情が柔らかくなったことと、ついうさぎの耳を澄ませて聞いてしまったおじさまの心音が、ほんの少しだけですが和らいだので、大丈夫なのでしょう。
ただ側にいるだけでは暇だろうと、レネーが本を持ってきてくれました。
本を読みつつ、おじさまの額の布を変えていると、いつの間にかお昼になっていました。
「…………う……さぎ……?」
「っ!」
おじさまの掠れた低い声と『うさぎ』という言葉にびっくりしてしまい、立ち上がってというか、飛び上がってしまいました。
「あ。ええっと、クラリス嬢、だったかな?」
「っ、はい」
「ここは私の借りている部屋だったと思うが? なにか用かな?」
そう言ったおじさまの表情は険しく、きれいだなと思っていた不思議な色の瞳は、とても冷たく突き刺すような視線でした。
「……いえ、その…………失礼いたしました」
側にいたレネーの手首を掴み、小走りでおじさまの部屋から逃げ出してしまいました。
自室に戻り、ほっと息を吐いていると、レネーが心配そうに顔を覗いてきます。
「急にどうされたのですか?」
「…………怖かったの」
なぜかわからないけれど、狩られるような、噛み殺されてしまうような気がして、逃げてしまいました。
お祖父様に彼のお世話を頼まれていたのに。それさえもできない自分が悔しいです。
災害が起きる前に気付けない。
両親も助けられない。
探しにも行けない。
私には、何ができるのでしょうか?
ただ縮こまり震えているばかり。
それでは駄目なのだと、わかっているのです。
前に進まないと――――。
□□□□□
何かの事故か事件に巻き込まれたようだった。
頭を打ち気絶していたらしい。真っ暗闇の中で辺りを探ると、馬車が横倒しになっていることが分かった。
身体がざらついた水に浸かっている。これは事故だろうな。馭者をしていた執事は大丈夫だろうか? 人の声も馬の声も聞こえない。
「………………ふぅ。いったい何が起こった? …………助けは……ないだろうな……これで、死ぬのか」
酸素が薄れる中、手足の痛みと移動していた場所的に助けは来ないだろうなと理解する。意識が遠のき始めた、思考もままならない。
そんな中、誰かが何かを叫ぶような声が聞こえた気がした。
「……助けが来た……のか?」
再び意識が浮上して一番に目に入ったのは、泥まみれの白い天使だった。
おじさまと呼びかけられ、そんな年じゃないと思ったところで、段々と脳が働き出した。
「おじさま、起きて! そこから出られますか!? 早くっ!」
「……? たす……かったのか?」
「まだですっ。土砂崩れがまた起きます!」
必死な顔で言葉を紡ぐ天使の声で、やっと状況が把握できた。災害に巻き込まれたらしい。そして天使が慌てている様子から、二次災害の可能性があるのだと。
横倒しになっている馬車から這い上がり、周囲の状況把握。天使とメイドらしき女性を両脇に抱え、災害現場から距離を取った。
穏やかな道だった。以前通ったときに、美しい景色だなと思った記憶がある。
騎士時代、土砂崩れは度々見ていたが、これはかなり酷い。すれ違った馬車は彼女たちが乗っていたものだろうか? もう一台馬車がいたような気がするが、巻き込まれずに済んだのだろうか?
「緊急事態とはいえ、淑女を荷物のように運――――うさぎの耳?」
周囲を確認しながら、乱暴に運んだことを謝罪しようと、白い天使のような少女に目を向けた。そこでやっと、少女の頭にうさぎの耳が生えていることに気がついた。
「混血の……」
つい声に出してしまった。
少女が怯えた顔で頭の上の耳を隠し、ふるりと体を震わせたことで、失態に気づいた。
先祖返りのようなこの隔世遺伝で、過去にどれだけの者たちが迫害されてきたか。そして、辺境に逃げてきたか。わかっていたはずなのに、王都生活が長すぎて、その感覚が薄れてしまっていたのかもしれない。
うさぎ耳の少女のように、身体に特徴が出てしまっている混血の者は、過去そして現在も奇異の目で見られている。怯え方からみても、彼女も例外ではないのだろう。
その後、うさぎ耳の少女の祖父が現れて、色々と合致した。
少女はシルヴェストル卿の孫娘だった。軍神や神速の剣鬼とまで言われた卿の。
騎士団内で未だに語り継がれている卿の伝説の一端の理由を知った。
脈々と受け継がれている獣人の能力は、見た目だけではない。私のように、牙と身体能力だけの者もいる。
実は、そういった見た目ではわからない者がかなり存在している。本人は気付いていないことが多いようだが。
どのタイミングかはわからないが、足が折れているなというのは分かっていた。腕は折れてはいないだろうが、腫れ上がり酷い痛みを訴えてくる。
馬車から降りるのに失敗し、恥ずかしい姿を見せてしまった。
天使のような少女――クラリスが心配そうにこちらを見ている。先ほど怯えさせてしまったのにだ。きっと心根がとても優しいのだろうな。
すぐさま医者を呼んでもらえ、治療を受けることが出来た。親族が亡くなり大変な状況把握なのにありがたいことだ。
その後、災害当時の状況確認を卿とし、私は休むように言われた。
「主、熱で朦朧としておろう? よく耐えたな」
「いえ……卿やご令嬢ほどではありません」
卿は息子と息子嫁を亡くし、彼女は両親を亡くした。それでも、取り乱さずにいる。凄いことだと思う。
怪我からくる熱と疲労感で倒れ込んでいた。薬のおかげかやっと深く眠ることができた。
人の気配にふと目を開けると、柔らかなうねりの白い髪と、こぼれ落ちそうなほどに艶めく赤い瞳をした――――。
「…………う……さぎ……?」
「っ!」
――――しまった。
薬がまだ効いていることと、目覚めたばかりだったこともあり、思考がままならず、口から色々漏れ出てしまった。
「あ。ええっと、クラリス嬢、だったかな?」
「っ、はい」
「ここは私の借りている部屋だったと思うが? なにか用かな?」
なぜ彼女がここにいるのか分からず、そう聞いただけだったのだが、怯えさせてしまったようで、逃げられてしまった。
本能から追いかけたくなったが、今は動けないし、動くべきではないのだろう。
肉食獣の本能とは、ままならないものだな――――。
◇◇◇◇◇
部屋で少し息を整えて、もう一度おじさまの部屋に向かうことにしました。
お昼も過ぎているので、厨房で食事をトレーに用意してもらってから。
「失礼します。あっ……」
ノックをして部屋に入ると、おじさまがベッドで半身を起こして、私の置いていった本を読まれていました。
「なかなか面白いな。君のか?」
私のというよりは、お祖父様のものですが、どうやら私のために用意されているものではあるようで、どう言えばいいのか迷ってしまいました。
「……っ…………」
「ふぅ。すまない。私は君をずっと怖がらせているな?」
「あっ……いえ…………その……」
こういうときにちゃんと話せない自分が嫌いです。頭の中ではあれを言おうかな、これを言おうかなとか、いっぱい考えているのに。
おじさまがふと寂しそうに笑って、ため息をそっと吐き出されました。
お疲れなのでしょうか?
傷が痛む?
私がいるから気まずい?
「お嬢様」
レネーに目配せをされて、お昼ご飯を持ってきたことを思い出しました。
トレーを乗せたカートをベッドの側まで持っていくと、おじさまが「あぁ、食事を持ってきてくれたのか」と、ホッとした様子で呟かれました。
「あの…………ベッド…………テーブル…………食べ……召し上が……られ、ますか?」
「ん? ……ああ、テーブルでいただこう」
普通に話しかけたいのに、少しはだけたシャツから覗く胸板や喉仏を目の前にして、緊張と焦りがどんどんと押し寄せてきました。
途切れ途切れの拙い私の言葉を、おじさまはしっかりと聞いて理解してくれました。
「テーブル……あっ、並べます」
慌てて並べていると、お皿がどうしてもカチャカチャと鳴ってしまいます。レネーたちは音もなく置くのに。どうして私は上手に出来ないのかしら……。
伯爵家の娘として、もっとちゃんと学べば良かった。他人が怖くて、幼少期からのガヴァネスから最低限のことだけ習って、それでいいと思っていました。
もっともっと学んでおけば良かったのに……。
「フフッ」
「――――っ!?」
後ろからおじさまの笑い声が聞こえて、肩がビクリと震えてしまいました。なぜ、笑われたのでしょうか?
「そんなに怯えないでくれ」
「すすすみませんっ」
「いや、謝らなくていいし、慌てなくていい。落ち着きなさい」
そう言われても、ちゃんとしたいのに手は震えるし、心臓は縮まって止まってしまいそうです。
落ち着こうと焦れば焦るほど、お皿が更にガチャガチャと鳴り響いてしまいます。
「大丈夫、大丈夫だから」
いつの間にか真後ろにいたおじさまに、そっと後頭部を撫でられました。いつもお父様やお母様がしてくれるみたいに。
優しく、柔らかく、温かい、大きな手に撫でられて、徐々に震えが落ち着いて来ました。
振り向いてお礼を伝えようとして、違和感を覚えました。
――――え? 立ってる?
「おじさまっ、松葉杖を!」
「ん? ああ、忘れていたな」
おじさまの脇に付き支えると、クスクスと笑われてしまいました。
「どうされたのですか?」
「ん、耳が擽ったくてね」
見上げると、おじさまがとても優しい顔をして目を細めていました。まさかそんなお顔で見られているなんて思っていなくて、急に恥ずかしくなって俯くと、頭の上からまたクスクスと笑い声が聞こえて来ました。
「おじさま?」
「それに、いい匂いがする」
「っ――――!? にっ、匂いっ!?」
「石鹸の匂いとはまた違うな。甘い」
おじさまがスンスンと耳の匂いを嗅いでいることに気づき、慌てて離れて、また慌てておじさまの脇を支えました。
「んははは。君は、面白いな」
おじさまが笑いながらテーブルの方へと向かわれたので、支えながら一緒に歩きました。数歩移動しただけなのに、激しい運動をした時のように、心臓がバクバクと脈打っています。
おじさまが着席したので、イスを右側に置いてそこに座りました。
「ん?」
「先ずはスープからでいいですか? あーん」
「…………あーん」
ポテトポタージュスープを掬い、おじさまの口に運ぶと、おじさまが口を開けてくださいました。舌の上にスプーンを乗せると、おじさまが口を軽く閉じたので、スプーンを引き抜きました。
ふと、おじさまの口のまわりに、昨日はなかったはずの黒い無精髭が少しだけ生えているのに気付きました。
お髭ってこんなに直ぐに生えるのね……なんて考えていると、おじさまが唇に付いたスープをぺろりと舌で拭いました。それがとてつもなく妖艶に思えて、サッと目を逸らしました。
スープやサラダを食べ終え、メインのお肉を切り分けます。フォークに刺しておじさまの口元に差し出すと、開いた口の隙間から妙に長く鋭い犬歯が艷やかに光っているのが見えました。
「おじさまの歯……牙?」
「……………………恥ずかしいから、口の中は見ないでもらえるかな?」
低い声でそう言われてしまいました。
機嫌を損ねてしまった。怒らせてしまった。そう思うと、また体が震えてしまいます。
「っ、すまん。怒ってはいない……ただ、口の中を見られるのは、ちょっと苦手なんだ」
「っ……はい。ごめんなさい」
「…………ふぅ。肉さえ切り分けてくれれば、左手で食べられるから、頼んでいいかな?」
「え? あ……っ、そそそそうですよね、左手で食べられますよね…………」
ため息のあとに呆れたような声で言われてしまい、自身の早とちりと滑稽さに逃げ出したくなりました。それでも、お祖父様から任されたことを投げ出したくありません。
おじさまの隣に座り、グッと我慢していると、おじさまからまたため息が聞こえて来ました。
「クラリス嬢、君は食事は取ったのか?」
「あ……その、この後に…………」
「そもそも、君はなぜここに?」
「おっ……お祖父様に、おじさまの…………お世話をと……」
「ふぅ。それなら次から君の食事も運んで来なさい。一緒に食べよう」
おじさまにそう言われ、不思議に思いました。
「…………いいのですか?」
「なぜそう聞く?」
「混血と一緒に食事をすると、移ると……」
そんなことはないのですが、そういう噂が未だに消えておらず、幼い頃に参加したお茶会で『触ったものを触らないようにしないと』などと囁かれていました。
「君は、ずっとそうやって傷ついてきたのだろう。それは分かる。だが、私がそういう扱いを君にしたか? 君にそう言ったか?」
「…………して、ません。ごめ、ごめんなさい……」
おじさまの声に明らかな怒気が含まれています。ビリビリと怒りのような波動を皮膚で感じ、体が震えてしまいました。
「――――っ、すまない。君に怒りをぶつけているんじゃないんだ。この世界が、世間が、未だに他種族や見た目が違うものに対して狭量すぎる」
「おじさまは、優しいのですね」
お父様やお祖父様とお話している気分になります。もっと話したい、もっと知りたい、と。
この日からおじさまと一緒に食事をするようになりました。
おじさまは口というか、牙を見られるのが嫌なようでしたが、おじさまが何かを口に含む瞬間や、笑う瞬間に牙が見えてしまうのです。
見てはいけないと思っているのに、どうしてかジッと見てしまいます。背筋がゾクリとするのですが、この感覚が何なのかがわかりません。
「……どうかしたのかい?」
「あっ、いえ、あの――――」
食事中、牙を見てしまっていたことを誤魔化すために、色々と質問してしまっていました。
おじさまはなんとなく気づいているように微笑むものの、嫌な顔をは一切せずに元々騎士様だったことや、お祖父様の噂話などを教えてくださいました。いまの国や社交界での混血への対応も。
ゆっくりと私が理解しやすいようお話をしてくださるおじさまに、色々と質問をしてはハッと我に返り、少し俯いて恥ずかしさをごまかしていると、おじさまからクスリと笑い声が聞こえてきます。そういうとき、おじさまは必ず微笑んで私を見ていました。
楽しい日々は、一週間ほどで終わりを迎えました。
お祖父様から両親が見つかったと報告があったのです。
遺体は損傷が激しく腐敗も進んでいたため、火葬されることとなりました。この国では土葬と火葬と選べるのですが、貴族は土葬することが多く、お祖父様はそれでいいかと聞いてくださいました。
「お父様たちと、そういった話はしたことがありませんでした……」
「儂もだよ…………こんなことは、早すぎる……」
「っ、はい」
両親の葬儀は滞りなく終わり、遺骨は王国墓地にある我が家のお墓に埋葬されました。
土砂崩れに巻き込まれたのは両親と馭者たち。
それぞれの葬儀も同時に執り行いましたが、同じく巻き込まれたおじさまの執事は、ランジュレ領にご家族がいるそうで、遺体はそのまま持ち帰ることにされました。
おじさまは、最後まで私の両親の葬儀に出れずにすまないと言ってくださり、とても優しく紳士的な方でした。
私と両親が住んでいた屋敷は、王都の別荘として使うことになり、少人数の使用人だけ置くことになりました。あぶれた使用人たちは、他の仕事先をお祖父様と一緒に提案し、紹介状を書きました。
私はお祖父様のお屋敷に引っ越しすることとなり、レネーだけは私専属の侍女としてついてきてもらうことに。
「無理を言ってごめんね」
「何を言っているんですか。レネーは、何があってもお嬢様の側をはなれませんからね!?」
「レネー、ありがとう。みんなも、ありがとうね」
最後の日を屋敷で過ごし、出発の朝にみんなに挨拶をしました。彼らと彼女らがいたからこそ、私は安心して過ごすことが出来ていたのです。
「本当に、ありがとう」
こうして私はお祖父様のお屋敷へと向かったのですが、到着して直ぐにお祖父様から、執務室に来るように言われました。
「え…………」
「だからな、ランジュレ領に行ってみないか?」
「おじさまの?」
確かにお怪我はまだまだ治ってはいないのでしょうが、流石にご自身の領地であればお世話をする人もいるのでは?
お祖父様のお屋敷は、お祖父様のご意向もあって使用人が少なめではありますが。
「そうじゃないんだよ。先日打診を受けてな。クラリスのためにも、ランジュレ領に行くことが心の安寧にも繋がるだろうと思ってな」
なぜ、おじさまの領地に行くと、私の心が安らぐのでしょうか?
「行ってみるとわかる。クラリス、お主は少なからずヴィクトル殿を気に入っとるだろう?」
「ヴィクトル様? って、おじさまのことですか?」
「なんじゃ……名前も知らなかったのか」
――――ヴィクトル、様。
黒い髪と、不思議な色の瞳。がっしりとした体格と、見上げるほどに高い背。
思い出すのは、おじさまの柔らかい微笑みばかり。
「どうだろう?」
「……期間はどのくらいなのでしょうか?」
「クラリスが向こうで決めて構わぬ」
お祖父様は、ランジュレ辺境伯の所に行って欲しいような口調です。何度聞いても、理由を教えてはくださいませんでした。
レネーと二人、馬車に揺られること三日。
道中はなるべく馬車の中で過ごし、町中を移動する際は髪をまとめ上げ、大きな帽子を被って耳を隠しました。ホテルでも食事も全て部屋で取りました。
初めての一人旅――実質二人旅でした――がやっと終了します。
「もう着くそうですよ」
「…………押しかけて、迷惑じゃないかしら?」
「向こうから打診があったのですから、押しかけてません。クラリス様、自信を持ってください」
「う、うん……」
レネーの言う自信がなんのことかわかりませんでしたが、『うん』と言わないと怒られそうな雰囲気でした。
おじさまのお屋敷に到着し、馬車の扉を開けると、お屋敷の方からおじさまがゆっくりと歩いてくるのが見えました。
「おじさま!」
「やあ、よく来てくれたね」
エスコートに差し伸べられた大きな右手に自身の左手を重ね、馬車からゆっくりと降りました。
「久しぶり、というほど時間は経っていないか」
「はい」
「来てくれて嬉しいよ」
おじさまが少し頭を下げ、私の顔を覗き込むようにしながらそう言ってくださって、頬が熱くなるのがわかりました。
ひとまずこれから私が使う部屋で話をすることになり、おじさまに案内されながら私は部屋に。レネーは私の荷物の指示に向かいました。
「レネーがついて来てくれたんだな」
「はい」
「良かった」
おじさまがホッとした様子で呟かれたのですが、何に対して良かったのか、よくわかりませんでした。
案内されたソファに座ると、おじさまが直ぐ側に座られました。思っていたよりも近くて、少しドキドキとしてしまいます。
何か話さなければならないことがあったはず……と考えて、別れ際のことを思い出し、両親の葬儀は滞りなく終わったことを伝えました。
おじさまが少し悲しそうなお顔で「よく頑張ったな。偉い」と柔らかく囁き、後頭部を撫でてくださいました。
「はい…………がんばり、ました」
「卿に聞いたが、ずっと泣いていないらしいな? 葬儀でも泣かなかったと。とても心配していた」
「っ――――!」
お祖父様に心配を掛けたくなかった。
急に放り出される使用人たちを不安にさせたくなかった。
でも結局、心配ばかりさせてしまっていたのでしょうね。
「もう我慢しなくていい」
「っ、がまん……して、ません」
「卿の屋敷で過ごしていた間、君はずっと怯えた表情をしていたし、幾度となく目に涙を溜めては散らしていただろう?」
――――見られていた!?
「泣いていい」
「っ、で…………も……」
「ここには私しかいない。大丈夫だ」
そう言われて、もう限界でした。既に涙が溢れそうになっていたのです。おじさまが背中をゆっくりと擦ってくださり、とうとう決壊してしまいました。
ぼろぼろとこぼれ続ける涙は、頬を伝い、顎を滑り、胸元や手に落ちていきます。
声にならない声が漏れ始め、口を押さえていると、おじさまに手首を取られてしまいました。
「っ、う……ぁぅ……」
「堪えなくていい……君は我慢のしすぎだ。大丈夫だから、ちゃんと泣きなさい」
「づ……っああぁぁぁぁ!」
「ん」
わんわんと叫ぶように泣いてしまいました。
おじさまに抱き寄せられ、腕の中に閉じ込められ、厚い胸板に顔を埋めて、さらに泣き叫んでしまいました。
「おがぁざまっ……おとぉざまぁぁぁ」
「ん」
「ごめんなざぃっ! ごめっ…………たすけっ……たすけられなかった! っあああぁぁぁぁ! ごめんなざぃぃい」
「ん」
「やかい……一緒にっ、行き、たかった…………でびぅ、して、あんじんっ……しでほじかっだ………………っ、ぅあぁぁ」
おじさまは、ずっと『ん』と優しく返事をして、ゆっくりと背中を撫でてくださいました。
胸元を涙や鼻水でびしょびしょに濡らしても怒らず、柔らかく抱きしめ続けてくださいました。
「……ヒゥッ……っ、しゃっ…………ヒゥッ、しゃっくりが……」
「ゆっくり深呼吸を繰り返しなさい」
しばらく経って涙は落ち着いたのに、泣きすぎてしゃっくりが止まらなくなると、おじさまがふふっと笑いました。
「っ? おじさ……ヒゥッ!」
「クラリスは可愛いな」
――――へ!?
「ふっ。耳が真っ赤だ」
頭の上から降ってくる低く甘い声。
背中を撫でていたはずの手が、いつの間にか頭の上に来ていて、うさぎの耳を包み込むように持ち、下から上にゆるりと撫でてきました。
おじさまの親指が耳の内側をそっと擦ります。それはあまりにも妖艶な撫で方で、背筋がゾクゾクとしてきました。
「んぁっ……」
「…………しまった。性感帯だった……」
「せいかん、たい?」
おじさまの言っている意味が分からず、ハフハフと息をしながら見上げると、何故かおじさまがご自身の顔面を鷲掴みにされていました。
何をしているのか聞いても、気にするなとしか言われず、少しだけ淋しくなりました。
「……あれ? おじさま、足はもう治られたのですか?」
たしか全治一ヵ月ではあったものの、どうしても動いてしまう部分なので、場合によっては完治は二ヵ月近くなるかもしれないと聞いていました。
まだ三週間経つかどうかなのですが、足の添え木も松葉杖も使われていませんでした。
「……怪我の治りが早いんだ」
「そう、なのですね?」
早いで済まされるのでしょうか?
無理をしていないか、痛みはないのかと聞くと、すこし気不味そうな顔をされてしまいました。
「しつこく聞いて、申し訳ございませんでした……」
「っ、いや……いい。すまない、ちゃんと伝えるべきなのに、一瞬迷ってしまった」
「迷う、ですか?」
なんのことを言っているのかと思っていると、おじさまがパカリとお口を開けられました。
「牙が見えるか?」
牙というか、少し大きめで鋭い犬歯かな? と思ってはいたのです。あ、でも下にまで鋭い犬歯があるのは珍しいような気がしてきました。食事中にこっそりと盗み見していたときは、ただドキドキとしてただけだったのですが、よく見てみると徐々に違和感が湧いて来ました。
あれ? そもそも、人の犬歯ってこんなに尖ってましたっけ?
首をひねりつつ、おじさまの口の中をまじまじと見つめ、つい――――。
「こら。触ろうとしない」
「あっ! ごごごごめんなさいっ」
人差し指をおじさまの『牙』に向けて伸ばしたところで、手首をがっしりと掴まれてしまいました。
「これは、狼の混血の証だ」
「え…………?」
「混血はな、わかりやすく見た目に出る者と、私のように牙だけだったり、身体能力だけ、はたまた瞳だけなど、色々な超隔世遺伝がいる」
「え……」
――――おじさまが、混血? 狼?
無意識の内に、おじさまの頭に手を伸ばしていました。
髪の中を探れど獣の耳はなく、手を見ても爪が鋭いなどもありません。
「ふふっ。耳はないよ?」
おじさまがくすぐったそうに笑いながら、少し背中を丸めて触りやすいようにしてくれていました。
「っあ…………ごめん、なさい……」
「君のお祖父様もたぶん混血だよ」
「家系的にそうなんでしょうが……」
「そういう意味じゃない」
うさぎの耳が生えた私がいるから、家系的に獣人の血を受け継いでいる、という意味ではなかったようです。
お祖父様の驚異的な身体能力は、混血の特徴なのだとか。そう言われると、お祖父様の体力は無尽蔵かと思うくらいにあって、足の速さは何年経っても恐ろしいほど。視力や聴力も未だに衰えず。軍部を引退したのは、病気だったお祖母様のためでした。
亡くなられた後に復帰の依頼が来ていましたが、戻る気はないとズバッと断っていたようです。
「クラリス、君や世間が気付いていないだけで、混血は思いのほか人々に紛れ込んでいる」
どのみち稀有なのだそうですが。おじさまが、ひとりではない、大丈夫だと言ってくださいました。
「本当はもっと早くに伝えるべきだったんだが…………勇気が持てなくてね」
「おじさまが?」
「………………その、おじさまも……ちょっと。いや、クラリスの好きにしていいんだが……いやしかし、おじさまは……こう、メンタルを抉るというか……」
「おじさま?」
おじさまがもごもごと呟いて、しょんぼりとした様子でどんどんと前かがみになってしまいました。背中を丸め、両肘を膝に乗せて項垂れている様子は、なんだか哀愁たっぷりです。
なんだか可愛らしくて、よしよしと頭を撫でていましたら、顔だけこちらを向かれました。
「君はここに呼ばれた理由を聞いているのか?」
「いえ? お祖父様がおじさまに聞くといい、と」
「だよな」
おじさまがボソリと「あの人は、そういう人だな」と呟かれたのですが、意味が分からず聞き返しましたが、またもや気にするなと言われてしまいました。
ふう、と大きく深呼吸したおじさまが立ち上がりました。そして、ソファに座った私の前で、騎士様のように膝をついて屈まれました。
「……クラリス」
「はい」
「私は…………よ……四十二だ」
「はい」
「君の父のような年齢だが」
「はい!」
「っ、そこでその元気な返事は堪える」
――――えぇ?
おじさまが何を伝えたいのかが分からず首を傾げていると、くすりと笑われてしまいました。
「短い間だったが、君と過ごした時間があまりにも尊くて、シルベストル卿にわがままを言ってしまった」
「お祖父様に?」
「君が欲しい、と」
――――っ!?
「直ぐにとは言わない。ただ、『おじさま』ではなく、私を知ってもらいたい。年齢もある。うさぎの君に、狼の私は恐ろしく映るかもしれない」
「恐ろしくないですっ!」
おじさまは、素敵で優しくて、とても…………とても、格好いいのです。初めて家族以外の異性が素敵に見えたんです。いっぱいお話して、もっともっと知りたいと私も思っていましたから。
「それに私の領には、混血が割といるんだ。辺境ということもあって、都会からあまり人が来ないから知られていないが。みなのびのびと暮らしている」
おじさまは、私がそういう場所であれば、笑顔で暮らせるのでは? 人前にでても怯えずに済むのでは? と考えてくださっていたようです。
なんて優しい方なのでしょうか。
「私が嫌なら、それでいい。君が幸せになれる相手を探そう」
「っ! おじさまが――――ヴィクトルさまが、いいです」
「…………意味が、分かっているか?」
ここまで来て、分からないわけがありません。
「逃さないぞ?」
そう言ったおじさまの不思議な色の瞳は、鋭く光っていました。
軽く開いた口からは、艶っぽい牙が少しだけ見えました。
顎に手を当てられ、クイッと引き寄せられると、あと五センチでおじさまにぶつかってしまうほどに。
「キス、しても?」
「っ、聞かないでくださいっ」
「これは失礼した」
妖艶に笑ったおじさまの唇が、ゆっくりと私の唇に重なりました。
「ん……っ、ん……んん!?」
「鼻で息をしなさい」
「んぅ、おじ――――」
「ヴィクトル」
「……っ、ゔぃ、く……とるさま……?」
ぬるりと解放された唇でハフハフと息をしていると、くすくすと笑ったおじさまに、今度は頬にキスをされました。
「そうだな。クラリス、次に『おじさま』と言ったら、同じことをしよう」
「っ、え……えっ!?」
おじさまを『おじさま』と呼んだら、同じことをしてもらえるのですか?
「本当に!?」
「あぁ」
「本当に、してくれるのですか!?」
「ん――――ん? あ、あぁ。え? あ、いやご褒美なのか!? なんでそんなにキラキラとした目で」
「おじさま!」
「…………君は……フッ。思ったより悪い子だな? はははは!」
おじさまがとても楽しそうに笑っているのですが、私は先程の口づけが欲しくてずっと待っていました。
◇◆◇◆◇
「おはよう」
「っ…………おはようござい、ます」
ランジュレ領に来て三ヵ月、おじさまと挙式をあげました。お祖父様も来てくださり、領民の皆さんにも盛大にお祝いしていただきました。
初夜は、その、滞りなく終わり、目覚めたのですが……目覚めたら、おじさまの腕の中にガッチリと閉じ込められていました。
「あの……そろそろ、起きますか?」
「ん? もうしばらくこうしていよう」
「おじさま――――あ」
「ふむ。もう一回か」
「え、あ、いまのはちがっ――――」
おじさまと呼ぶと蕩けるほどにキスしてもらえるので、最近はわざと呼んでいたのですが、いまのは完全に無意識でした。
「私は約束は違えない。昨晩、約束しただろう?」
「っ、はい」
私があまりにもおじさまおじさまと言うものだから、昨晩――初夜の最中に約束させられました。今度からおじさまと呼んだら、同じことをすると。
妖艶に微笑んだおじさまが起き上がり、私の頭の両側に手を付きました。
「覚悟はできてるな?」
「っ、はい――――」
おじさまはやっぱり優しくて、大切に大切に扱ってくださいました。狼なんだ、いつか食べるために囲っているのかもしれないぞ? と頑張って恐ろしそうな顔を作って言われますが、私はおじさまにならそうされていいと思っています。
「ヴィクトルさま、大好きです」
「ん、私もだよ」
私はこれからもおじさまに囲われ、怯えることなく幸せに生きようと思います。
領地のこと、王都にある実家やお父様たちのお墓や爵位、問題は色々と残っているのですが、それらもおじさまとなら、なんでも出来そうな気がしています。
―― fin ――
最後までお付き合いありがとうございました!
久しぶりに長めの……かなり長めの短編です。
こちらのタイトルというかネタは、ゆきや紺子さま(https://mypage.syosetu.com/1608052/)にいただきました!
紺子さんはイラストも小説もかけるめちゃくちゃマルチなお方ですすげぇのよぉぉぉ(*´艸`*)
いつも素敵なタイトルありがとうございます!
あ!
ブクマや評価などいただけますと、笛路が大喜びで小躍りしますです!ヽ(=´▽`=)ノ