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第3話




        †




 河内屋デパート、定休日。


 郁未はゆっくり寝ていたかったのだが、仕事のせいで普段から朝の3時起きが定着しているせいか、遅くまで寝ていたくとも5時が限度だった。


 まずトイレに入り、顔を洗って歯を磨く。


 服を着替えて自慢の金髪をツンツンに立てた郁未は、部屋を出て階段を下りた。


 1階まで下りた所で、突然屋敷内に呼び鈴が鳴り響いた。


 ジリリリリ。


 奥の部屋から歩いて来た茅ヶ崎は、いつどのような時でもビシッと黒いスーツを着こなし、オールバックの髪もカチッと決まっている。


 茅ヶ崎は、黙ったまま玄関前のモニターを見つめた。


 階段の途中で立ち止まってその光景を見ていた郁未は、自分の腕時計に目をやった。


 まだ、朝の5時半である。


 こんな朝早くからこの屋敷を訪ねて来るなんて、どんな非常識な人間だろう。


 郁未は興味津々で階段を駆け下り、茅ヶ崎の脇からモニターを覗き込んだ。


「郁未様、おはよう御座います」


 茅ヶ崎が、丁寧に頭を下げる。


 郁未も、軽く手を上げた。


「おはよっす。それよりこいつ、誰?こんな朝早くから、傍迷惑な男だよなぁ?」


 そう、客人は男だった。


 しかも若くて、20歳前後と言った所だろうか。


 服装はシンプル、色もモノトーンでまとめられていた。


 すっきりとしたデザインの眼鏡をかけ、中々利口そうな青年である。


「出てみます」


 茅ヶ崎はベルトから鍵の束を外し、その中から玄関の鍵を取り出した。


 それを、鍵穴に差し込む。


 ドアを開けると、目の前にはモニターで見た若い男が立っていた。


「あ、おはよう御座います。朝早くから、大変申し訳ないのですが…こちら、河内屋さんのお屋敷ですよね?」


 その男は、朝から妙に愛想が良かった。


 それとは逆に、茅ヶ崎は無表情で答える。


「はい」


「ああ、良かった!僕、こう言う者です」


 男は胸ポケットから自分の名刺を取り出し、茅ヶ崎に差し出した。


 茅ヶ崎がそれを受け取ろうとすると、それより先に郁未が手を出しその名刺を奪った。


 そして、名刺の名を読み上げる。


「フナセ…ダイゴ?」


「はい!」


 男は、ニコニコ笑っている。


「ふーん…」


 郁未は、適当に頷きながら男を見た。


「で、そのフナセダイゴさんとやらが、此処に何の用?」


「失礼ですが、こちらのご主人様でいらっしゃいますか?」


 郁未は、訝しげな表情を浮かべた。


「何でそんな事、お宅に訊かれなきゃなんない訳?」


「あ、そうですよね。申し訳ありませんでした」


 素直に謝り頭を下げる男に対し、郁未は完璧に不審者を見るような眼差しを向けていた。


 茅ヶ崎は、黙ったままである…と、その時。


「おはよう御座います」


 身支度を整えた明里が、階段を下りて来た。


 後ろを振り返った茅ヶ崎が、挨拶する。


「おはよう」


「おはよ、明里ちゃん」


 郁未も、手を上げる…すると。


「あっ、あーちゃんっ!」


 突然、男が叫んだ。


 思わず顔を見合わせる、郁未と茅ヶ崎。


 明里はキョトンとして、こちらを見つめている。


「あーちゃん…あーちゃんだよね?」


 男は、明らかに明里に向かって言っている。


 明里は暫く唖然としていたが、やがて目を見開き呟いた。


「だ…大ちゃん?」


 途端に、男の表情がパーッと明るくなった。


「よ、良かった、覚えててくれたんだね?あれからもう8年も経つから、忘れられちゃってると思って物凄く心配してたんだ!ホント、良かった!」


 そう言って、男は胸を撫で下ろしている。


「あのぉ…明里、ちゃん?」


 郁未は、明里に訊いた。


「こいつ、明里ちゃんの知り合い?」


 其処で、明里は我に返って頭を下げた。


「あっ、も、申し訳ありませんでした!あの…船瀬大護(ふなせだいご)さんと言って、私と同じ孤児院で育った方なんです」


「えぇーっっっ!」


 郁未は、それは驚いた。


 茅ヶ崎も無言のまま目を丸くし、男と明里の顔を交互に見比べていた。






 ノックの音がする。


 昨日夜更かしをしてしまった史也は、中々起きられずにいた。


 しつこく、ノックの音がする。


「くそ…」


 史也は無理矢理起き上がり、ドアを開けた。


「何ですか!」


 寝起きで、機嫌の悪い史也。


「どーも」


 永志だった。


 史也は、溜息混じりに言う。


「あの…まだ、6時半なんですけど…朝食は、7時からですよねぇ?毎日の事なのに、忘れちゃいました?」


 史也の厭味にもめげず、永志は呑気に肩を竦めて見せる。


 益々機嫌を悪くした史也は、苛付いた声を出した。


「用がないなら、さっさと帰って下さ…」


「お前、人の世話焼いてる場合じゃなくなったぞ」


 永志は突然真顔になり、低い声で静かにそう言った。


 眉間に皺を寄せる、史也。


「もしかしたら、人生最大の修羅場を迎える事になるかも…」


 永志がそう呟くと、史也は呆れた顔をした。


「ったく、朝っぱらから何訳分かんない事言ってんですか?何の話だか知りませんけど、僕は今寝起きで機嫌が悪いんです。先生の冗談に、付き合ってる暇は…」


「明里が、絡んでる…って言ったら?」


 瞬時に、史也の顔つきが変わる。


「言っただろ、人の世話焼いてる場合じゃなくなったって。これ、どう言う意味か分かるよな?」


 永志の真剣な眼差しを見て、一気に眠気が覚めた史也は溜息をついた。


「一体、何があったって言うんですか…」


 永志は、史也の耳元で囁いた。


「今、皆で食堂に集まってっから、お前も身支度整えて来い」


「わ、分かりました」


 史也がそう返事をすると、永志も頷いて食堂へと下りて行った。






「え、20歳?若いって、いいねーっ!」


 食堂に、姫羽の威勢のいい声が響く。


 大護も、笑って言う。


「その名刺にも書いてありますように医大に通っておりまして、来月から3年生になります」


「へぇーっ、お医者さん目指してるのかぁ!まだ学生なのに、名刺までお持ちとは…しっかりされてますなぁ!」


「はい。養父母の家が、病院だったものですから。お子さんがいらっしゃらないご夫婦で、跡を継いでくれる男の子をずっと探していたそうなんです」


「それで、大ちゃんが引き取られたと…」


 姫羽は馴れ馴れしく、もう大ちゃんなどと呼んでいる。


 話によると大護は朝食もとらずに出て来て、明里の住むこの屋敷をずっと捜していたらしい。


 それを聞いた明里が茅ヶ崎に頼み、大護を食堂へ通してやったのだ。


 其処に、丁度姫羽や永志も起きて来た。


 史也以外は全員揃ったので、事情を聞きながら皆で仲良く朝食を食べ始めたと言う訳である。


「引き取られたのは、僕が小学校卒業を目前に控えた頃でした。慌ただしかったのですが養父母の勧めで私立中学を受け、無事に受かった僕は養父母の家から通うようになったんです。確か、あーちゃんもこちらに引き取られるのかどうか、と言う話が出ていたよね?」


 大護に訊かれて、明里は当時を思い出しながら頷いた。


「大ちゃんとは、本当の兄妹のように仲が良かったんです。私が苛められている時も、必ず大ちゃんが助けてくれて…何だかヒーローみたいな存在で、凄く頼りにしていたのを覚えています」


「いいねぇ、そう言う人がいるって…青春だねぇ!」


 姫羽は、1人感慨に耽っている。


「ねえ、あーちゃん」


 大護は言った。


「覚えてるかな、あの約束…」


「約束?」


「ほら、僕が孤児院を出る時に約束しただろう?」


 考え込んでいた明里は、ハッと思い出した。


「お、覚えてる!覚えてるけど…えっ?もしかして、その為にわざわざ此処へ?」


 大護は、黙って頷いた。


「何、何?約束って!教えて教えて?」


 姫羽が興味津々で訊くと、大護は頷いて言った。


「僕が孤児院を出る時、あーちゃんは僕の為にボロボロ涙を流してくれたんです。僕は、そんなあーちゃんを1人置いて行くのが心苦しくて…」


「ああ、それ分かる!私だって明里ちゃんに泣かれたら、もう胸が引き裂かれる思いに駆られるもの!」


 そう言って、姫羽が明里を見つめる。


「だから、僕はあーちゃんに約束したんです。大人になったら、必ずあーちゃんに会いに行く。もしまだあーちゃんが孤児院にいたら、必ず迎えに行くからって…」


「ホントに?」


 姫羽は、喜んで手を叩いた。


「迎えに行くだなんて、まるでプロポーズみたい!」


 大護は、顔を赤らめる。


「た、ただ、あの孤児院にずっとあーちゃんを置いておくのは可哀想だと、僕は子供ながらに思っていたんです。だから、僕が大人になってもまだあーちゃんの引き取り手がないようだったら、僕があーちゃんを引き取ろうって…そう漠然と思って、言った言葉だったと思います。あの頃は、とにかく僕のこの手であーちゃんを救ってあげたいと、ずっと思っていた。養父母の元で幸せに暮らしている間も、僕の頭の中からあーちゃんが消える事はなかったんです」


 明里は、嬉しそうに大護の話を聞いている。


「当時小学6年生だった僕の中での大人は成人、つまり20歳の事でした。だから、20歳になったら必ずあーちゃんに会いに行くと、決めていたんです。そして8年の時が過ぎ、僕は20歳になりました。養父母から外出許可を得た僕はこの春休みを利用し、8年ぶりに孤児院を訪れました。それが、昨日の話です」


「でも、いなかったと…」


 郁未の台詞に、大護は頷く。


「院長先生に訊いたら、あーちゃんは河内屋デパート本店の社長宅に引き取られたとの事でした。なので取り敢えず孤児院に泊めてもらい、住所を訊いて今朝早く出て来たんです」


「そうだったんだ…で、8年ぶりに再会してみてどう?」


 姫羽が訊くと、大護は微笑んで言った。


「すっかり、見違えました。あの頃は、まだ可愛らしく僕の後について走り回ってるような子供だったのに、すっかり大人になって…」


 明里は、顔を赤らめる。


「そ、そんな。大ちゃんも、すっかり頼もしくなって…」


「有り難う、あーちゃん」


 大護は、再び優しく微笑んだ。


 姫羽は、そんな2人を交互に見た。


「大ちゃんはこの旅行、何日くらい予定してるの?」


「一応2週間くらいは戻らないと、養父母には言ってありますが」


「だったら、今日此処の住人全員休みでお屋敷にいるし、特に急ぎのお仕事もないだろうから、今日くらい明里ちゃんも仕事休んで、2人で何処か行って来れば?大ちゃんも、2週間くらいなら此処に泊まればいいんじゃない?ねえ茅ヶ崎さん、どうですか?」


 姫羽の提案を聞いて、大護と明里は途端に慌てた。


「そ、それは、ご迷惑が掛かります!僕の事なら、どうか心配なさらないで下さい。駅前のビジネスホテルにでも、泊まりますから!」


「わ、私も、お仕事はきちんと致します!ですから…」


 しかし、姫羽は手を合わせて茅ヶ崎に頼み込んでいた。


「茅ヶ崎さん、お願い!ね?何なら今日は明里ちゃんの代わりに、私がお仕事手伝うから!」


「姫羽さん、そんな…」


 明里は、困った顔をしている。


 茅ヶ崎は、静かに頷いた。


「分かりました…姫羽様が其処まで仰るのでしたら、明里には休みを取らせます。大護様も2週間、こちらにお泊りになって下さい」


「えっ?」


 驚く明里。


「い、いいんでしょうか…」


 申し訳なさそうに大護が言うと、姫羽は快く頷いた。


「気にしなくていいって!茅ヶ崎さんも、こう言ってくれてるんだしさ。先生にも、後で私が頼み込んでおくから!ね?」


『あ、有り難う御座います!』


 明里と大護は、揃って頭を下げた。


「ホント、2人ともいい子だなぁ!」


 姫羽は1人、ニコニコと微笑んだ。


 そんな一連の会話を、永志と史也は廊下で聞いていたのである。


 史也は突然クルリと踵を返し、元来た廊下を戻って行った。


「お、おい、史!」


 永志は、史也を追いかけた。


「何だよ、中入んないのか?」


 史也は、立ち止まって言う。


「入りたくないんです…」


「何でだよ」


 永志は訊き返したのだが、史也は黙ったまま階段を上って行ってしまった。


「史…」


 史也の後ろ姿を、永志はただ見つめる事しか出来なかった。






 午前10時。


 大抵の店が開店するのと同時に、大護と明里は出掛けて行った。


 久しぶりに再会出来たのを祝して、2人水入らずで食事をする事にしたのだ。


 2人が出て行った後、姫羽は階段を上って従業員専用の更衣室へ向かった。


 其処で着替えを済ませると、姫羽は早速洗濯に取り掛かった。


 まず永志の部屋へ行き、ノックをする。


「どうぞ」


 中から、永志の声がした。


「失礼致します。永志様、新しいシーツをお持ち致しました」


 そう言ってお辞儀をして顔を上げた姫羽の姿を見て、永志は思わず火の点いた煙草を絨毯の上に落としそうになった。


「ひっ、姫?お、お前、どーして…」


「似合うでしょ?」


 姫羽は普段明里が着ているような、メイド服を着ていたのだった。


 真っ白なエプロンをヒラヒラさせながら、1回転する。


 そしてスタスタと部屋の中に入ると、おもむろにベッドのシーツを引き剥がした。


 代わりに、新しいシーツを敷く。


「お前、な、何やってんの?」


 永志に訊かれて、姫羽は答えた。


「何って、明里ちゃんの代わりに働いてるの。あ、そうだ。ちょっと、先生も手伝ってよ」


「へっ?お、おい、ちょっと!」


 姫羽は永志の手を引いて無理矢理部屋から連れ出し、階段を下りて洗濯室へ連れて来た。


 そして、業務用の大きな洗濯機を指差した。


「これ、見張ってて。私、お屋敷中の洗濯物集めて来るから」


「え?」


「頼んだよ!」


 姫羽は手を振り、洗濯室を出て行った。


 永志は洗濯物がグルグル回るのを見つめながら、ボーッと考え事をしていた。


「姫のメイド姿か…結構、可愛…」


 其処で永志は、慌てて首を横に振りながら叫んだ。


「う、うおーっ!お、俺は一体、何を考えているんだぁーっ!」


「うるさいなぁ…何、叫んでるのよ」


 気が付くと、いつの間にか姫羽が戻って来ていた。


「う、うおっ!」


 驚く永志を睨みながら、姫羽は冷静に言った。


「全く、黙って出来ない訳?ほら、こっちの洗濯機もう終わってるじゃない…さっさと、乾燥機に移して頂戴な」


 テキパキと仕事をこなす姫羽を見て、永志は感心してしまった。


「へぇーっ…お前、大人になったなぁ」


 姫羽は、パッと顔を赤らめる。


「はぁーっ?な、何言ってんの?私だって、だてに5年も1人暮らししてませんーっ!」


 それを聞いた永志は、ケッと笑った。


「バーカ、言ってんじゃねーっつーの!ぬわぁーにが、5年も1人暮らしだ。5年前は、1人じゃなーんも出来なかったクセに!お前なんかなぁ、ぶっちゃけ俺と一緒に暮らしてたようなモノ…」


 其処まで言って永志は途端に口ごもり、少し赤くなった。


「あ、え、えーと…」


「なっ、何、自分で言って、あ、赤くなってんのよ…」


 姫羽が慌ててそう言うと、永志も負けずに言った。


「おっ、お前こそ!」


「何よっ!」


 そして、2人は黙り込んだ。


 洗濯機の回る音だけが、辺りを包み込む。


『あの…』


 沈黙の中、2人は同時に口を開いた。


「お、お前、先言えよ」


「先生が、先言ってよ」


「お前が、言えばいいだろ」


「何でよ。先生が、言えばいいじゃない」


「俺は、いいんだよ。お前が言え」


「じゃあ、言うけど…」


「何で、お前が先に言うんだよ」


「あのねえ!」


 永志の発言に、姫羽は苛々している。


 永志は、フッと笑った。


「冗談冗談。言えよ」


 姫羽は俯き、静かに言った。


「その…典鷹さんの事、だけどさ…」


 永志は、思わず身構えた。


「近い内に、決着つけようと思う…」


「ち、近い内、って?」


 永志が訊くと、姫羽は考え込んだ。


「うーん…今月中?」


「こ、今月中っ?」


 声が裏返る、永志。


「あと、2週間しかねぇじゃん!」


「だって、来月から4月でしょ?4月って言ったら、新年度だし…だから私も早く決着つけて、新しい気持ちで4月をスタートさせたくて…」


「け、決着ってさぁ…」


 永志は、思い切って訊いてみた。


「よ、要するに…別れる、って事なのか?それとも…ヨ、ヨリを戻す、って事なのか?」


「それは…」


 姫羽は言いかけたが、暫く黙っていた。


 永志も、黙って姫羽を見つめている。


 やがて、姫羽が言った。


「私は…別れ、たい」


 驚く永志。


「でも…典鷹さんを傷付けるのが、怖い」


 姫羽の発言に、永志は強い口調で言った。


「ど、どうしてだよっ!お前を、裏切った男だろっ?お前だってアイツの事、許せないって思ってたんじゃないのかっ?」


 姫羽は、グッと拳を握り締めた。


「それは、許せないよ!絶対に、許せない。でももし、今も恋人じゃなかったらって事を考えると…典鷹さんを1人の人間として見たら、あんないい人はいないと思う。きっと、先生よりいい人なんじゃないかって…ね」


 永志はムッとしたが、黙っていた。


「だって生まれた時から病弱で、外の世界なんか全然知らない人なんだよ?それでも、明るく一生懸命生きてる。先生って言うお兄さんが出来た時だって、凄く素直に喜んでた。あの年齢になってもあんな純粋でいい人、今まで見た事ないよ。だから、傷付けたくない…」


 永志は、黙っている。


「でも、やっぱり…裏切られた時のショックの方が大きい、かな。典鷹さんには悪いけど、もう恋人ではいられないって事はハッキリ言いたい。だってこの件に関しては1ヶ月も目を伏せてたんだし、そう言う曖昧な私の態度がかえって典鷹さんを傷付けてたかもって思うと、申し訳なくて…だから、1日でも早く私の正直な気持ちを言いたい…」


 そう言って、姫羽は俯いた。


 別れたい…その姫羽の言葉を聞いて、永志は自分が嬉しく思っている事に気付いた。


 しかし心の中で首を横に振り、姫羽に言った。


「1人で…言えるのか?」


「え…」


 姫羽は顔を上げ、力なく笑う。


「な、何、それ…先生、ついて来てくれるの?」


「お、俺が必要なら、その…そ、側にいてやっても、いいけど」


 そう呟いて、永志はそっぽを向いた。


 全ての洗濯機が止まり、部屋がしんと静まり返る。


 永志は、黙って乾燥機の中のシーツを籠に移した。


 姫羽は、そんな永志を見つめて言った。


「先生ってさぁ…」


「な、何だよ…」


「案外、お節介…なんだね」


 そう言いながらも、姫羽は嬉しそうだった。


「う、うるせぇ!」


 永志は照れながら、姫羽の頭をコツンと叩いた。


「痛っ!」


 頭を摩る、姫羽。


「ほら、行くぞ!」


 永志は、シーツの入った籠を持って洗濯室を出た。


「はーい!」


 姫羽ももう1つの籠を持ち、永志の頼り甲斐のある広い背中に抱きつきたい衝動を、必死で抑えていた。


「ありがと、先生…」




        †




 大護と明里は、相変わらず仲が良かった。


 常に明里の側にいたいのか、泊めてもらっているお礼だと言って洗濯物を干すのを手伝ったり、食事の配膳を率先してやったりと、何かにつけて大護は明里と一緒にいた。


 明日の日曜日には、明里も休みを取って再び大護と出掛ける事にしているらしい。


 今日の朝食の時間も、その話題で持ちきりだった。


「ほら、この前行けなかったアクセサリーの店あっただろう?明日、行こうよ」


 大護はそう言って、明里からスープのお代わりをもらっていた。


「あ、知ってる知ってる。彼処、いっつも混んでるんだよ。ビーズで出来たのとか、天然石使ってんのとか、シルバー製のとか、結構色んなデザインの売ってて、うちのライバル店!男女問わず人気だし、きっと明里ちゃんなら何でも似合うかもねーっ!」


 姫羽はニコニコしながら、明里を見つめている。


「え、そ、そんな…」


 明里は、恥ずかしそうに俯いた。


 一応言っておくが、永志はこの屋敷の主人である。


 にもかかわらず、客の大護を愛想良くもてなすなんて事は、一切しなかった。


 ただ単に面倒臭いのと、他人と関わるのが嫌いだからである。


 そして史也に関しては、大護をまるで空気扱いしていた。


 何度声を掛けられても返事もせず、史也は大護を無視し続けた。


 同時に大護が来て以来、史也は明里とも口を利いていない。


 とにかく2人がこんな調子だったので、姫羽が1人で気を使って毎食大護と同じテーブルに座り、話し相手をしたりして場を盛り上げていた。


「ねえ、あーちゃん。あーちゃんに明日、何か買ってあげるよ。指輪でもネックレスでも何でもいいから、欲しい物言って」


 その大護の発言に、史也の眉がピクリと動いた。


 永志はそんな史也を横目で見つつ、黙ってスープを飲む。


「へぇーっ、いいなぁーっ!私も誰かさんに買って欲しいなぁーっ、ゆ・び・わ!」


 姫羽が、誰かは分からないが特定の人物に向かって大声で訴えた。


 何故か反応したのは永志で、眉をピクリと動かしている。


 史也はそんな永志を横目で見つつ、黙ってスープを飲んだ。


「で、でも、悪いから…」


 明里がそう言うと、大護は優しく笑った。


「そんな、気を使わなくてもいいんだよ。僕は昔みたいに貧乏じゃないんだから、あーちゃんにアクセサリーを買ってあげるくらいのお金は、持って来てるんだ」


 黙り込む、明里…と、その時。


「ごちそうさま」


 ガタンと音を立てて史也が立ち上がり、食堂を足早に出て行った。


 茅ヶ崎が、黙って皿を片付ける。


 皆が沈黙する中、姫羽は明るく言った。


「と、とにかく…明日は、2人で楽しんで来なよ!」






 午後。


 永志は、アトリエで絵を描いていた。


 天気が良く、空も晴れている。


 徐々に草花も芽生え始め、春が近付いて来ていた。


 永志が絵に集中していると、ノックの音がした。


「はい」


 永志が、返事をする。


 入って来たのは、茅ヶ崎だった。


「コーヒーが、入りましたので…」


「おお、サンキュ」


 永志はお盆の上のカップを受け取り、ふぅふぅと息を吹きかけた。


 茅ヶ崎は、そんな永志を黙って見つめている。


「な、何?」


 その視線が気になり、永志は引きつった顔で茅ヶ崎を見上げた。


「あの…」


 茅ヶ崎は、ボソッと呟くように言った。


「少々、気になる事が御座いまして…」


「気になる事?」


 茅ヶ崎は頷く。


「実は、史也様の事で…」


「史の?」


 永志は、カップを机の上に置いて訊き返した。


「此処何日か、ご機嫌が宜しくないようなんです。ゴミの始末をさせて頂く時も、お仕事でお使いになられているであろうドラムのスティックが、何本か折って捨ててあったりして…」


「あぁっ?」


「その事に関して、僭越ながら私が口を挟ませて頂きましたら、強い口調でお怒りになられたんです。普段穏やかなご性格の史也様が、あのように取り乱された様子を見たのは初めてだったものですから、正直私も驚いておりまして…」


 永志は黙ったまま、腕を組んで考え込んだ。


「永志様…何か心当たりが御座いましたら、史也様と話し合っては下さいませんでしょうか」


 茅ヶ崎にそう頼まれ、永志は頷いた。


「分かった、俺からも話してみる」


「では、宜しくお願い致します」


 茅ヶ崎は頭を下げ、アトリエを出て行った。


 永志は暫く窓の外を眺め、1人で考え込んでいた。






 ノックの音がする。


「はい…」


 史也は、ベッドにうつ伏せたまま返事をした。


「よぉ…」


 ドアが開いて、永志が入って来る。


 史也は、ベッドから起き上がろうとしない。


「帰って来んの、待ってたんだよ」


 永志はドアを閉めると、ソファーに座った。


「何か、用ですか…」


 こちらも見ずに史也が訊くと、永志は言った。


「お前さ、商売道具バキバキにしちまったんだって?」


 史也はガバッと顔を上げ、目を丸くした。


「だ、誰から聞いたんですか…」


「誰だっていいだろ、そんなの…」


 永志がポケットから煙草とライターを取り出すと、史也はようやくベッドから起き上がり、強い口調で言った。


「この部屋で、煙草は吸わないで下さいっ!」


「わ、悪い…」


 史也の物凄い剣幕に流石の永志もビビり、大人しく煙草とライターをしまった。


「まあ、聞かなくても分かっています。どうせ、茅ヶ崎さんなんでしょう?ったく、あの人も執事として失格ですね。住人のプライベートを根掘り葉掘り探った挙句、他人に漏らすなん…」


「つーかさぁ…」


 永志は、ムッとしながら言った。


「お前が住人として、失格なんじゃねーの?」


「は?」


 永志の発言に、史也は耳を疑った。


「な、何言ってるんですか?」


「茅ヶ崎は、お前を心配してんだよ。誰もいない自分の部屋で、大事にしている商売道具に当たらなきゃなんねぇほど、お前は誰にも言えない悩みを抱えてるって事だろ?」


 史也は、ハッとしながら俯いた。


「そんな茅ヶ崎の気持ちを踏みにじって、お前は怒鳴りつけたって言うじゃねぇか。そんなん聞けば、俺だってお前の事が心配になる…共同生活ってのは、住人が協力して仲良く暮らして行くもんだろ?それだってのに、こうして一緒に住んでる俺達に迷惑掛けやがって…そう言うお前の方が、よっぽど住人失格なんじゃねぇのかっつってんだよ!」


 永志の言葉が、胸に突き刺さる。


 史也は俯いたまま、黙り込んだ。


「なあ、史…一体、何があったんだ?俺、5年もお前と付き合ってるけど、こんな風に荒れた事なんか1度もなかったぞ」


 永志が静かにそう言うと、史也はベッドから立ち上がってすぐ側の窓際に立った。


 そして窓の外を見ながら、呟くように言った。


「気にしないで下さい。ただちょっと、ストレスが溜まっただけですから…」


「気にしないで下さいだぁ?」


 永志は、思わず怒鳴った。


「おい…テメェ、ふざけてんのかっ?そのストレスをぶつけられたんじゃ、こっちだって堪ったモンじゃねぇよっ!」


「だから…すみませんでしたって、言ってるじゃないですか…」


 そう言ったきり、史也は再び黙り込んでしまった。


 永志は溜息をつき、ソファーにもたれかかった。


「理由は、分かってる…」


 史也が振り返り、こっちを見る。


 永志は、わざと大きな声で言った。


「大ちゃんとぉー、あーちゃんのぉー、聞くも涙、語るも涙の孤児院物語を聞いてぇー、史也くんはやきもちをやいてぇー…」


「そう言う彼らをバカにしたような言い方は、やめて下さい!」


 史也は、怒鳴った。


「は?バカになんかしてねぇよ…これっぽっちもな」


 永志は、冷静に言った。


「お前じゃねぇのか、アイツらをバカにしてんのは…」


「え?」


 史也は、訊き返した。


「だ、誰がですか?僕は、バカになんかしてませんよ…」


「してんじゃねぇかよ!」


 永志は、史也を睨みつけた。


「『なーに言ってんだ、こいつら。ガキの頃の戯言を、いい年こいていつまでもネチネチネチネチ話題にしやがって…バッカじゃねぇの?』ってさ」


 史也は顔を赤らめ、怒鳴った。


「せっ、先生には、関係ないじゃないですか!」


「ああ、関係ないねぇ!」


 永志は、大袈裟に肩を竦める。


「但しそう言う生意気な事はなぁ、こうしてテメェの溜め込んだストレスを人にぶつけず、テメェ自身で発散出来るようになってから言えってんだよ!」


 史也は、言い返せなかった。


「自分の悩みも満足に解決出来ねぇクセして、俺の事ばっか世話焼いてたのかよ…ケッ、笑っちゃうねぇ!」


 史也が、顔を赤らめる。


 永志は、真剣な顔で言った。


「別にさ…あの男と明里が、お前が言いたいであろう所の関係があった訳じゃねぇじゃん。ただ、同じ孤児院で育ったってだけだろ?」


 すると史也は、ようやく冷静に自分の気持ちを語り始めた。


「彼の方が明里ちゃんの事をよく知っていますし、僕なんかよりずっと昔から明里ちゃんの事を好きだったんですよ。そうじゃなきゃ、今頃会いになんか来る筈がない。明里ちゃんだって自分だけのヒーローだと思ってたくらいですから、決して彼の事を嫌いな訳では…」


「やっぱバカだな、お前」


 永志は、冷たく言い放った。


 史也が、ハッと顔を上げる。


「散々俺には偉そうな事言ってたクセに、自分の事になるとそれかよ。女の腐ったのみたいな台詞、ダラダラダラダラ吐きやがって…気色悪いんだよ!バカとしか、言いようがねぇな!」


 史也は、ムッとした。


「そ、そんな事、先生に言われたくありませんっ!」


「こっちこそ、今のお前なんかに言われたかねぇよ!」


 永志は立ち上がり、ドアまで歩いて行った。


 史也は黙ったまま、永志の後ろ姿を見つめている。


 ドアの取っ手に手を掛けた永志は振り返り、静かに言った。


「あのさ…頑固で、意地っ張りで、我儘で、自分勝手で、どうしようもない俺のこの気持ちを、アイツと一緒に先へ進みたいだなんて、面倒くせぇ考えに無理矢理変えさせたお節介野郎は、何処のどいつだったっけ?」


 史也が、ハッとして永志を見る。


「ガキの頃苛められて、男ってモンを信用出来なくなっちまったトラウマを振り切り、生まれて初めて作ったチョコレートを勇気を振り絞って渡したってのに、そんな一途な明里を信じる事すら出来ずにいる最っ低なクソ野郎は、何処のどいつだ?」


 苦い顔をする、史也。


「言ったろ?俺は面倒くせぇから、誰かとつるんだりすんの大っ嫌いなんだよ。それだってのに腐れ縁だか何だか知んねぇけど、お前みたいなのとこうして5年も一緒にいる訳だろ?これって、俺がお前をどう思ってるって事だか分かるか?」


「えっ…」


「ヒント…そうだなぁ、俺は血が繋がってるのに顔も見た事なかった典鷹なんかより、お前の方がずーっとそう言う存在に思ってたぞ…」


 史也は、泣きそうな顔で永志を見つめている。


「なあ、史。頼むからお前の事、嫌いにならせんなよ。俺、落胆したくないからさ…」


 永志は、ドアを開けた。


「じゃあな…」


 部屋を出る永志の後ろ姿を見つめながら、史也はグッと拳を握りしめた。






 その日の夜。


 史也は、屋上に出た。


 風は、まだ冷たい。


 だが、それがかえって頭を冷やすのに丁度良かった。


 星が、無数に瞬いている。


 そんな星空を、史也は1人で見上げていた。


「ふーみーくん!」


 後ろで、声がする。


 振り返ると、姫羽が立っていた。


「史くんが、部屋出て上行くの見えたからさ…へぇーっ、結構広いじゃん。初めて来たわ、屋上。最も今までは寒くて、外に出るどころの騒ぎじゃなかったけどね。暖かくなったら、皆でバーべキューとかよくない?」


 そう言って、姫羽は思い切り伸びをした。


 地面には綺麗な芝生が敷き詰められており、煉瓦造りの釜戸も設置してある。


 姫羽の言う通り、バーベキューをするにはうってつけの環境だった。


「そう、だね…暖かくなったら、皆でやろっか」


 史也も、静かに微笑んだ。


「あ、あのさぁ…」


 姫羽は、遠慮がちに口を開いた。


「茅ヶ崎さんから、聞いたんだけど…」


「はぁ…」


 史也は、途端に溜息をついた。


「姫もなのか?ったく、茅ヶ崎さんって人も我関せず見たいな顔してるクセに、案外お節介な人なんだなぁ」


「あのねぇ…って言うかさぁ、原因はアレなんでしょ?つまり、その…大ちゃんの事…」


 姫羽の質問に、史也は再び溜息をついて答える。


「皆、勘良過ぎ…」


「いやいや…勘って言うか、どう考えてもそれしかないでしょ…最近史くん、元気ないなって私も思ってたし…明里ちゃんとも、あんまり話してないんでしょ?」


史也は、素直に頷いた。


「あんまり、どころか…アイツが来て以来、一言も口利いてないよ。あの日、朝早くから皆で食堂に集まってただろう?先生がわざわざ部屋まで呼びに来て、人生最大の修羅場だとか何とかって言って来てさ…」


 姫羽は、頭を抱えた。


「ったく先生も好きだよねぇ、そう言うの…」


「それで下りて行ってみたら、あーちゃんを救い出す為に来ただの、大ちゃんは自分だけのヒーローだっただのって、バカみたいな話ばっかして…」


「はーい、ストーップ!その発言、撤回した方がいいんじゃない?」


 姫羽が、キッと睨んで来る。


 史也は、素直に従った。


「はいはい、仰る通り撤回させて頂きますよ…あーあ、やぁーっぱバカにしてたんだよなぁ、僕。自覚してなかったけどさ。これじゃあ、先生のご指摘通りじゃんかよ。ああ、悔し過ぎっ!」


「先生の?」


 姫羽が驚くと、史也は情けなさそうに笑った。


「茅ヶ崎さん、先生にも僕の事言ったみたいなんだ。それで心配になったらしくて、有り難ぁーいお説教をしにわざわざ部屋までいらっしゃって頂いてね…まるで、今の姫みたいにさ」


「ふーん。先生も、やっぱいいトコあるんじゃない…」


 姫羽は、永志の事を考えていた。


「2人、似てるよね」


「へっ?」


「先生と、姫。そう言う所がさ…」


 史也にそう言われて姫羽は一瞬目を丸くしたが、内心ちょっと嬉しかった。


「そ、そんな事よりさ、史くん聞いてたの?あの、食堂での会話」


 姫羽が訊くと、史也は頷いた。


「まあね。そしたら何か、あの2人に無性に腹立って来ちゃって…」


「大ちゃんと、明里ちゃんに?」


「そう。それにさ、姫も姫だよ?僕を応援してるとか言いながら、あの男に有利になるような事ばっか言っちゃってさ…泊まって行けばいいとか、明里ちゃんも休み取ればいいとかさ。正直、それにもムカついた」


 姫羽は、即座に抗議した。


「はぁ?何言ってるの、史くん!私は、いつだって史くんの味方だっつーの!子供の時から、ずっとそうだったじゃない!それに私が、何の考えもなしに言ってたと思う?」


「え?」


 史也は、驚いた顔をしている。


 姫羽は、呆れて頭を抱えた。


「はぁ…それはある意味、明里ちゃんを信用してないって事にも取れるんだよ?」


「ど、どう言う意味だよ」


 史也が訊く。


 姫羽は答えた。


「明里ちゃんの孤児院生活の辛い思い出の中には、大ちゃんと過ごした楽しい思い出があった。大人になったらまた会おうねって、約束までした。それほど大ちゃんは、明里ちゃんにとって大事な人だった訳だ…それなのに明里ちゃんは史くんと出会って、この人なら生まれて初めてのチョコレートをあげてもいいって思った…大ちゃんと言うヒーローが、心の中にいたにもかかわらずだよ?」


 史也が少し、頬を赤らめる。


「それって、明里ちゃんが史くんをどう言う風に思ってるって事か…分かるよね?」


「そ、それは…」


 史也は、答えられなかった。


「史くんも明里ちゃんに対して、同じくらいの大きな感情を持ってると思ってたよ、私は。だからさ…お互いにそう思ってるんだったら、ライバルの1人や2人現れたってどうって事ないんじゃないの?それとも、何?史くんの明里ちゃんへの思いは、大ちゃんみたいな男が現れたくらいで、消えちゃう程度の思いだったの?」


「そ、そんな事は…」


 史也は、口ごもった。


「私はさぁ、史くん…2人の仲は、誰にも壊せないって言う確信があったんだよ。だからこそ、敢えて大ちゃんをこの屋敷に泊める事にしたんだ。それにね…」


 姫羽は俯き、静かに言った。


「それに私、孤児院の生活ってどんなだか知らない。でも支えてくれる両親がいない1人ぼっちの生活って、私達には計り知れない辛さがあると思うんだ。そんな中で、赤の他人なのにもかかわらずお互い頼りにして共に生きて来た仲間同士が、8年ぶりに元気で再会出来たんだよ?」


 姫羽が何を言いたいのか、この時既に史也には分かっていた。


「それをさぁ、そんなくだらない…あ、ごめん、撤回する。史くんの気持ちだって私、よく分かるから。でも、やっぱり言ってみれば、くだらないやきもちとか嫉妬とかって言う史くんの中の醜い感情が、大ちゃんを追い出す理由にはならないと思う」


「そ、それは…」


 史也は何か言いかけたが、黙り込んだ。


「大ちゃんだって、辛い幼少時代を送って来たんだよ?それが大きくなって、幸せになって、自分にも自信がついた今、大好きだった子に会いに来て何が悪いの?」


 史也は俯いた。


 それは、言われなくとも全て分かっていた事だった。


「まあ、きっと孤児院の子供達からしてみたら、幸せな生活を送って来た私達に、こんな同情して欲しくないって思ってるかもしれないけどさ…」


 そう言って、姫羽は笑った。


 史也も、力なく笑う。


「とにかく今、史くんが取ってる行動は我儘以外の何物でもない、と私は思うけどね。こんなの、史くんらしくないって。史くんはいつも心が広くて、優しくて、私や先生がバカやってんのを温かく見守ってくれるような、余裕のある男じゃん。毎日頑張って仕事してる明里ちゃんを、笑顔で励ましてあげてる男じゃんか!」


 史也の頭の中は、後悔の念でいっぱいだった。


「明日、また大ちゃんと明里ちゃん出掛けるんだって。いつもの史くんで、見送ってあげられるよ…ね?」


 姫羽は、優しく史也の背中をさすった。


 少し肌寒い風の中で、姫羽の暖かさが妙に心地良かった。


「姫…」


 史也は姫羽の体を引き寄せ、抱きしめた。


「有り難う…」


 姫羽は史也の腕の中で、黙ったまま頷いた。


 自分がいないと永志や姫羽は何も出来ないんだと自惚れていたが、永志や姫羽がいないと何も出来ないのは自分の方だった。


 その事に気が付いた史也は、支えてくれる人がいる幸せをこの夜空の下で噛みしめていた。




        †




 翌日。


 大護は、朝からご機嫌だった。


 明里と一緒にいられる事が、余程嬉しいらしい。


 しかし、明里の気分は優れなかった。


 出掛ける前、明里は姫羽の部屋へ行った。


「はい」


 ノックの音に、姫羽が返事をする。


 明里は、ゆっくりドアを開けた。


「姫羽さん、あの…」


 明里を見て、姫羽は驚いた顔をした。


「あれ…明里ちゃん、まだ出掛けてなかったの?」


「は、はい…」


 頷く明里。


「あ、入って」


 姫羽は明里を中に入れ、ソファーに座らせた。


 その向かいに、姫羽が座る。


「で、どうしたの?明里ちゃん…」


 姫羽に訊かれて、明里は俯きながら言った。


「あ、あの…今日、まだ史也さんの姿を拝見してないんです」


「ああ…何か今日仕事ないらしいから、まだ寝てるんじゃない?」


 姫羽は、さらりと答えた。


 しかし、明里は納得出来ない様子だ。


「ですが、まだ朝食もおとりになってないようですし…」


「大丈夫大丈夫。私、用意しとくから」


「でも…」


 煮え切らない、明里。


 姫羽はそんな明里を、黙って見つめている。


 そして、明里は意を決して言った。


「あ、あの…史也さん、最近口を利いて下さらないんです!」


 明里は、必死だった。


「ねえ、明里ちゃん…」


 姫羽は言った。


「気になるなら、部屋に行ってみなよ」


 明里は、驚いて姫羽を見た。


 姫羽は、優しく笑う。


「悩んでたって、何の解決にもならないの…今の私には、それがよーく分かるんだ…」


「姫羽さん、それって…」


 明里が、姫羽を見つめる。


「なーんてね!私もまだ悩んだままで行動に移してないから、大きな事は言えないんだけどさ…」


 姫羽も、明里を見つめた。


「明里ちゃん、何の心配事もなく大ちゃんと出掛けたいんでしょ?」


 明里は、大きく頷いた。


「よーっし!んじゃあ、史くんのお部屋へ行ってらっしゃい!」


 立ち上がった姫羽は、明里の背中を優しく押した。


 明里も立ち上がり、姫羽に言った。


「姫羽さん、有り難う御座います」


 姫羽はニッコリと笑い、明里も微笑みながら部屋を出て行った。


 ドアを閉め、腕を組みながら姫羽は考え込んだ。


「あの時一緒に買いに行った服、中々着てくれないなぁ…普段明里ちゃんが着てるのよりちょっと露出度高いから、抵抗があるとか?まああれ着た明里ちゃん見たら、誰でもイチコロだよねぇ!今日みたいなお出掛けの日が、うってつけ…あ」


 其処で姫羽は史也の顔を思い出し、ハッとした。


「そっか。本番デートは、まだだったな…フフフフフ!」


 姫羽は2人の事を考えながら、1人でニヤついていた。






 明里がノックをすると、中から史也の声がした。


「どうぞ」


 ドアを開けると、史也はソファーに座ってテレビを見ていた。


「史也さん…」


 その声を聞いて、史也は慌てて立ち上がった。


「あ、あれ、明里、ちゃんっ?ま、まだ、出掛けてなかったんだ」


「はい…」


 頷く明里。


 史也は、焦りながら言った。


「あ、すっ、座る?」


「はい…」


 明里は、ソファーに座った。


 史也も、向かいに座る。


 2人は、暫く黙っていた。


「あの、さ…」


 最初に口を開いたのは、史也だった。


「な、何か、その、ひっ、久しぶり、だよね。こうして、話すの…」


「ひっ…く、ひっ、く」


 突然、明里が泣き出した。


「えっ…えぇーっっっ!何でぇーっっっ?」


 史也は、とにかく慌てていた。


「あ、あのっ、え、えーっと、明里、ちゃんっ?」


 アタフタしながら史也は急いでタンスを開け、ハンカチを取り出した。


「こっ、これっ!」


 明里は史也からハンカチを受け取ると、涙を拭った。


「ごっ、ごめんなさいっ!何か、涙が出て来ちゃって…」


 明里は、ハンカチで顔を覆っている。


 史也は、困った顔で言った。


「そ、そんなっ!明里ちゃんが、謝る事ないよっ!あ、謝るのは、その、僕の方で…」


 それを聞いて、明里はゆっくりと顔を上げた。


「あ、いや、その、つまり…ぼ、僕が悪いんだ、うん。明里ちゃんを悲しませるような事ばっかして、大人げなかったなぁなんて…ハハ、ハハハ…」


「違うんですっ!」


 明里は叫んだ。


「私が、悪いんですっ!私が、きっと史也さんを怒らせるような事をしたんですっ!それで私、ずっと悩んでいました。何をしたんだろうってずっとずっと考えて、ひょっとしたらやっぱりバレンタインのチョコレートが不味かったんじゃないかって…」


「え、あの…え…えっ、何っ?」


 予想だにしない展開に、史也は拍子抜けした。


「ホワイトデーの時だって、私も史也さんも永志様や姫羽さんの事を相談するのに夢中でしたよね?だからよく考えてみたら私、お返し貰えなかったなって。ひょっとしたらお返しあげたくなくて、その事をごまかす為に永志様や姫羽さんの話題をわざと出されたんじゃないかって…あ、その、ベ、別にお返しが欲しくて、チョコレートを差し上げた訳ではないんですがっ…」


「明里ちゃん…」


 史也は、真剣な表情を見せた。


「明里ちゃん、僕の事をそんな卑怯な男だと思ってたんだ…」


「い、いえっ、そんな事はっ!」


 明里は、慌てて弁解した。


「ち、違うんですっ!私、そんなつもりで言ったんじゃ…」


「確かに僕は、卑怯な男だった…」


 史也は俯き、静かに言った。


「そのせいで、明里ちゃんにも色々と迷惑を掛けた。ホント、ごめん…」


「そんな…謝らないで下さい」


 明里はそう言ったが、史也は首を横に振った。


「いや、謝らせてくれ。だけどね…僕は、チョコレートが不味かったなんて一言も言ってないよ。明里ちゃんの一生懸命な気持ちがこもってて、凄く美味しかったと思ってる」


「史也、さん…」


 明里は、顔を赤らめた。


「それに、わざと先生や姫の話題を出した訳じゃない。本気で、あの2人の事を心配してただけだよ。自分の事や明里ちゃんの事も、そっちのけでね…」


「そ、そんな風に、自分を犠牲にしてまで親身に、相手の相談に乗ってあげる事の出来る史也さんが、私は…」


 其処まで言って、明里は俯いた。


 史也は、クスッと微笑んだ。


「そしてね、お返しをあげたくなかった訳じゃない。僕は、明里ちゃんが作ってくれたチョコレートと同じくらい、価値のあるお返しをしたかったんだ。それが何かずっと考えていたら、あっと言う間にホワイトデーが来ちゃったんだ。ただそれだけなんだよ、本当に…」


 明里は、ハッと顔を上げた。


「そ、そうだったんですかっ?私の為に、其処まで考えて下さっていたなんて知らなくて…なのに私、勝手に考えが先走っちゃって…まるで、お返しをせびるみたいに…は、恥ずかしいですっ、ごめんなさいっ!」


 頭を下げた明里は、慌てて立ち上がった。


「ほ、本当に、申し訳ありませんでしたっ!でも、史也さんが怒ってない事が分かって良かった…それじゃあ私、取りあえず行って来ますね!」


「明里ちゃん…」


「何ですか?」


 ドアの取っ手に手を掛けた明里が、振り返る。


 立ち上がった史也は明里の手を握って引っ張り、自分の胸に抱き寄せた。


「えっ?」


 その勢いで、明里が史也の体にもたれかかる。


「明里ちゃん…」


 史也は優しく抱きしめながら、明里の耳元で囁いた。


「ホワイトデーにあげられなかったお返し、今あげたいんだけど…」


「え、あ、あのっ…」


 明里の胸はとにかく高鳴り、頭の中はパニック状態だった。


「いい、よね…」


 史也は、返事も聞かずに明里にキスをした。


 突然の事に訳が分からず、明里は目を見開いたまま固まっている。


「っ…ん」


 しかし徐々に目を閉じ、明里は唇を史也に預けた。


「明里、ちゃ…ん」


 唇を離した史也は再び明里を抱きしめ、静かに囁いた。


「ごめん、これくらいしか思いつかなくて…」


 明里は史也の胸の中で、必死に首を横に振った。


「そっか、良かった…」


 史也は明里の頭を優しく撫で、ドアを開けた。


「それじゃあ、行ってらっしゃい」


 頬に、軽く口付ける。


「い、行って、来ます…」


 明里はその頬を赤く染めながら、恥ずかしそうにはにかんで部屋を出て行った。


 ドアを閉めた途端、史也はこれでもかと言うほど顔を真っ赤にして、ベッドへ猛ダッシュで走って行って飛び込んだ。


「うおぉーっっっ!」


 毛布を抱きしめ、身悶える。


「かっ、可愛かったぁーっっっっっ!!!!!」






 明里と大護は、河内屋デパートに来ていた。


「ねえ、あーちゃん。何でも欲しい物言ってよ、買ってあげるから」


「え…」


 明里は、正直困っていた。


 先程、例のアクセサリーの店でシルバーブレスレットを買ってもらったばかりだ。


 昼食も、勿論大護の奢り。


 しかもファストフードやファミリーレストランではなく、ちょっと高めの中華料理店。


 屋敷の食事は洋食が多いから、中華にしようと大護が言ったのだ。


 テーブルが回る店に入ったのは、明里にとって生まれて初めての経験だった。


「あーちゃん?」


「……」


「あーちゃん、聞いてる?」


「えっ?」


 大護に呼ばれて、我に返る明里。


「ねえ、何がいい?河内屋は海外の輸入ブランド品が主流だから、鞄とか?靴でも服でも何でもいいから、言ってみてよ」


「あの、大ちゃん…」


 明里は言った。


「そんなの、いいよ。さっき、ブレスレット買ってもらったばっかだし…」


「何を言ってるんだ」


 大護は、眉を顰める。


「あんなの、玩具だろう?」


「でも…」


 俯く明里。


「ねえ、あーちゃん…」


 大護は、真剣な顔で言った。


「僕達は、あの頃の惨めな僕達じゃない。もう、我慢しなくていいんだ。欲しい物だって、僕が何でも買ってあげる。姫羽さん達には冗談っぽく話してたけど、僕が大学を卒業して医者になり、養父母の病院を継いで仕事が軌道に乗ったら、本気であーちゃんを引き取ろうと思ってる」


「だ、大ちゃん?」


 明里は、驚いて大護を見つめた。


「医者になれば、お金だって沢山入る。そうしたら、あーちゃんには何不自由ない生活を送らせてあげるよ。僕達は生まれた時から両親がなく、孤児院でも学校でも散々辛い目に遭って来た。その分、他の人間なんかより幸せになる権利があるんだ」


「け、けど…」


「だからあーちゃん、それまで待っててくれるよね?」


 真剣な大護を見て、明里は何も言えずにいた。




        †




 姫羽は、朝から落ち着かなかった。


 朝食をとった事は覚えているのだが、味までは覚えていない。


 あっと言う間に昼になり、昼食の時間になったが食事をとる気にはなれなかった。


「はぁ…どうしよう」


 姫羽はひたすら悩み、焦っていた。


 もうすぐ、3月も終わる。


 明後日からは、4月だ。


 いつまでも、逃げている訳には行かない。


 そろそろ、決着をつけなければならない時が来ていた。


「よしっ!」


 姫羽は、気合を入れて立ち上がった。


 部屋を出て、階段を下りる。


 姫羽の心臓は、徐々に速まって行った。


 1階に着き、廊下を奥へと歩く。


 例の一件以来、住人は典鷹の姿を見ていない。


 事情を知っているだけに、姫羽に気を使って誰もが典鷹の部屋を訪れるのを避けていた。


 茅ヶ崎や明里は毎日典鷹の世話をしていたが、2人もまた典鷹の様子を口にはしなかった。


 姫羽は、ついに典鷹の部屋の前まで来た。


 大きく、深呼吸する。


 中庭で花壇に水をやっていた明里は、そんな姫羽の姿を硝子越しに黙って見つめていた。


 ドアを、ノックする。


「どうぞ…」


 久しぶりに聞く、典鷹の声。


 心なしか、元気がない。


 姫羽は、ゆっくりとドアを開けた。


 中に入り、ドアを閉める。


 部屋は、薄暗かった。


 典鷹は、ベッドで寝ている。


「薬の時間、ですか?」


 そう言って起き上がった典鷹は、目を見開いた。


「あ、あ…ぁっ…」


「典鷹、さん…っ?」


 同様に、姫羽も自分の目を疑った。


 以前はあんなに元気そうだったのに、今の典鷹はやつれた青白い顔をしていた。


 初めて出会った時の典鷹よりも、具合が悪そうに見える。


「う…っ…」


 突然、典鷹は胸を押さえて苦しみ始めた。


「えっ、あ…のっ、典鷹さんっ?」


 慌てて駆け寄る、姫羽。


「ど、どうしたんですかっ?何処か、苦しいんですかっ?」


 必死に背中を摩る姫羽に、典鷹は言った。


「く、薬、を…」


「ど、何処っ?」


「戸棚、の、上の、瓶…」


 姫羽は慌てて瓶を探し、中から薬を取り出した。


「み、水は…」


 辺りを見回し、テーブルの上の水差しからコップに水を汲む。


「早く…早く、飲んでっ!」


 姫羽は、典鷹に薬と水を飲ませた。


 典鷹は暫く息を切らしていたが、徐々に落ち着いて来た。


「ほ、本当に、大丈夫ですかっ?」


 ベッドの脇の椅子に座り、典鷹の顔を覗き込む姫羽。


 典鷹は、小さく頷いた。


「はい…有り難う御座いました」


「良かった…」


 姫羽は、大きな溜息をついた。


「あんなに苦しそうな典鷹さん見たの初めてだったから、びっくりした…」


 典鷹は、フッと俯いた。


「貴女達が来る前は、ずっとこんな調子でした…」


「え…」


 真顔になる、姫羽。


「でも姫羽さんに出会ってからの僕は、自分でも驚くくらい元気になって行きました。心臓も良くなったんじゃないかなんて、錯覚するくらい。だけど姫羽さんの姿を見なくなってから、またこんな状態が続くようになってしまったんです。バカですよね、良くなんてなる訳ないのに…」


 典鷹は、微笑んだ。


「そ、そんな…っ」


 黙り込む、姫羽。


「知ってたんでしょう…」


 突然、典鷹は言った。


「え?」


 姫羽が訊き返すと、典鷹は沈んだ表情を浮かべた。


「どうしてなのか、ずっと考えていました。どうして姫羽さんが僕を選んでくれたのか、どうしてあのクロエさんと言う人は、毎日僕の部屋を訪れるのか…」


 姫羽は、ハッとして典鷹を見つめた。


 典鷹は、真っ直ぐ天井を見つめた。


「隠すつもりはありません。僕は確かに、クロエさんにキスされました」


 姫羽は目を見開き、典鷹をジッと見つめている。


「それ以来、ショックで此処最近落ち着いていた心臓の痛みが、また酷くなり始めました。それでも彼女は毎日やって来て、兄さんに対する愚痴を零した後、寝ている僕にキスして行ったんです…」


 思わず目を背ける、姫羽。


「彼女は、僕を通して兄さんの影を見ているだけなんです。兄さんに相手にされず可哀想だとは思いましたが、僕には同情の目で見てあげる事しか出来ませんでした。彼女はそれ以上の事を僕に要求して来たけれど、僕はそれには応えられなかった…何故なら姫羽さん、僕には貴女と言う人がいたからです」


 そう言って、典鷹は姫羽を見つめた。


 しかし、姫羽は顔を上げて典鷹の目を見る事が出来なかった。


 姫羽の目から、自然と涙が零れ落ちる。


 それに気付かず、再び典鷹は天井を見つめた。


「バレンタイン以来、クロエさんは兄さんの英会話の授業がある度、僕の部屋に来るようになりました。でも、1番来て欲しかった姫羽さんはバレンタイン以来、全く来てくれなくなった。きっと、姫羽さんは知ってるんだなって思ったんです。当然ですよね、僕は姫羽さんを裏切ったんですから…」


 俯いたまま、グッと拳を握りしめる姫羽。


 典鷹は胸を押さえ、顔を歪めた。


「1日おきにやって来るクロエさんを追い返したくても、心臓が痛くてそれどころじゃなかったんです。キスで満足出来なくなったのか、僕が身動きが取れないのをいい事に、クロエさんは僕に色々な事をして来て…凄く、怖かった」


 典鷹は、その時の事を思い出して震えていた。


「で、でも、そんな事、姫羽さんには言い訳にしか聞こえませんよね。僕が姫羽さんを裏切った事に、変わりはないん…」


「もう、いい…っ!」


 姫羽は、泣きながら叫んだ。


「もういいって、典鷹さんっ…それ以上、話さなくて…いい…っ!」


 しかし典鷹は、1点を見つめたまま尚も話し続けた。


「僕は、ずっと後悔していました。きっと僕が健康な人間なら、姫羽さんを悲しませるような事はなかったって。僕は、姫羽さんのお相手としては相応しくなかったんです…」


「そ、そんな…そんな事、ない、っ!」


 姫羽は、目を真っ赤にしながら典鷹を見た。


 典鷹は、儚げに微笑んだ。


「僕は体だけ成長して、中身はまだ子供のままだったのかもしれないな。世間の事を何も知らないクセに、恋愛しようだなんて以ての外ですよね。とにかく、僕は我儘でした。姫羽さんの気持ちも考えず、自分の事ばかりで…」


 姫羽は手で涙を拭い、思い切り怒鳴った。


「ちょっと、待ってっ!典鷹さん、何を、言ってるんですかっ?わ、私、そんな風に思ってなんか…」


「姫羽さん…」


 典鷹は言った。


「僕は、兄さんみたいにカッコ良く姫羽さんを愛する事が出来なかった…」


「え…っ?」


 姫羽は、典鷹の言っている意味が分からなかった。


「クロエさんの知っている兄さんは、朝から晩まで女の人と遊んでばかりだったと言います。でも姫羽さんや史也くんの知っている兄さんは、5年間1度だって女の人と遊んだ事はなかった。それがどう言う事なのか、流石の僕にも分かってしまったんです…」


 姫羽は、黙って典鷹を見つめている。


「僕と姫羽さんが初めてキスをしたあの日、兄さんは僕の部屋に乗り込んで来ました」


 姫羽はその事実を知って、酷く驚いた。


「どうやら、見ていたらしいんです。機嫌が悪くて、一方的に僕を非難して来ました。だから僕は、わざと兄さんと姫羽さんとの関係に口を挟んだんです。そうしたら、物凄い剣幕で怒鳴って…」


 姫羽は正直、複雑な気持ちだった。


 典鷹は、切ない表情を浮かべた。


「でも、その時全部分かったんです。5年間、兄さんが1度も女の人と遊ばなかった理由が。そうする事が、姫羽さんに対する兄さんの精一杯の誠意だったんだって…」


 姫羽は咄嗟に俯き、頬を赤く染めた。


 典鷹は、静かに目を閉じた。


「それなのに僕は、生まれて初めて出来た恋人にも、誠意を見せる事が出来ませんでした。散々遊んで来た兄さんに5年間も出来た事が、僕には出来なかったんです。姫羽さん、貴方には僕を恨む権利がある…」


「そ、そんな…っ」


 姫羽が顔を上げると、典鷹の閉じた目からは涙が流れ落ちていた。


「の、典鷹、さん…っ」


 姫羽が呟くと、典鷹は両手で自分の顔を覆った。


「姫羽さん…やはり、僕に兄さんの代わりは無理でした。いくら見てくれが似てたって、僕は兄さんにはなれない。それにもう、僕の我儘に付き合う必要はないんです。姫羽さんも子供の相手はやめてもっと素直に、本来の姫羽さんがいるべき大人の世界へ戻って行って下さい」


「典鷹、さん…何、言って…っ」


 姫羽も、溢れる涙を止める事が出来なかった。


 典鷹は、声を詰まらせながら言った。


「怖がらなくても、大丈夫。僕には、分かる。姫羽さん、貴女はきっと、幸せになれる。僕は、いつまでもこの部屋で、祈っています。僕は、ずっと僕は、姫羽さんの、事、を…」


 典鷹は、嗚咽を漏らしている。


「ごめん、ね、典鷹、さん…ホントに…ホントに、ごめん…なさ、っ」


 姫羽も声を押し殺しながら、泣き崩れた。


 典鷹は寝返りを打ち、姫羽に背を向けた。


「少し、疲れました。帰って、頂けませんか…」


 これで、終わったのだ…終わってしまったのだ。


 典鷹に背を向けられた瞬間、姫羽はそう思った。


 姫羽は涙を流したまま、典鷹の部屋を出た。


 フラフラと、廊下を歩く。


 姫羽の事が心配で玄関ロビーをウロウロしていた明里は、奥から歩いて来た姫羽の姿を見て全てを悟った。


 姫羽は明里に気付かず、泣きながら階段を上って行った。


「姫羽、さん…」


 明里は、姫羽の後ろ姿をいつまでも見つめていた。






 夕食の時間。


 朝食以来、姫羽が食堂に姿を現す事はなかった。


「史…」


 永志は、向かいに座る史也に訊いた。


「お前、姫の姿見たか?」


 史也は、顔を上げた。


「そう言えば、朝食を一緒に食べたっきりですねぇ」


「あーちゃん」


 大護が、明里を呼ぶ。


「何?」


 明里は、大護の元へ歩いて行った。


「お代わり、くれる?」


「あ、うん」


 この2人がどんなに仲良く喋っていようと、史也の心が揺れ動く事はもうなかった。


 つい最近まで、悶々としていたクセに…永志は、再び史也に問う。


「史…」


「何ですか?」


「お前、最近機嫌がいいな…どうしたんだよ。大ちゃんに、ムカついてたんじゃないのか?」


 永志に訊かれて、史也は笑顔で答えた。


「微笑ましいじゃないですか、幼馴染みが仲良くしている光景は…」


「はぁ?」


 永志は、理解出来なかった。


 史也は、口を拭きながら言う。


「ま、先生と姫に感謝です」


「え、姫にもか?」


「はい。2人とも、ホントお節介ですよね。でも、そのお陰で僕の悩みは全て解消されました」


 その晴れ晴れとした史也の表情を見て、永志は事情を即座に理解した。


「まっ、まさか、お前達っ…」


 史也の笑顔が、崩れる事はなかった。


 永志は、頭を抱えた。


「マジかよ!ついに屋敷の住人と使用人の恋、新たな物語が出来上がってしまったか…」


 史也は、途端にムッとした。


「その使用人っての、やめて下さい!僕は明里ちゃんを、使用人だなんて思った事は1度も…」


「ああ、分かった分かった。今お前が何を言っても、ノロケにしか聞こえないから、やめてくれ…」


 永志は、嫌そうな顔で食事の残りを食べ始めた。


 史也は、ニヤけながら言う。


「あれぇ?先生ぇ、もしかして先越されたとか思ってません?」


「はぁーっ?」


 永志は、口の中の物を飛ばしながら叫んだ。


「きっ、汚いなぁ!」


 史也は、顔を拭きながら尚も言う。


「羨ましいんじゃないですかぁ?今だって、姫がどうしてるか心配なんでしょう?」


「なっ!」


 怒鳴ろうとする永志を、史也はジッと見つめた。


「先生、言いましたよねぇ?僕の前ではもう、嘘つかないって…まさか、その台詞も嘘だったなんて、言うんじゃないでしょうねぇ?」


 永志は、口ごもった。


「そっ、そんなんじゃ、ねぇよ…」


「だったら、正直に言って下さい。僕だって、こうして明里ちゃんとの事を正直に話してるんですから。まだ、姫にだって報告してないって言うのに…」


 史也は水を飲み干し、明里にお代わりを頼もうとした…その時。


「そう言えば、姫羽さんはどうしたの?」


 大護が、明里に訊いた。


 永志と史也が、その会話に耳を澄ませる。


「あーちゃん、知らない?」


「え、えーと…」


 明里の様子が、少しおかしい。


「どうしたの?」


 大護が更に訊くと、明里は慌てて答えた。


「あ、あの、な、何か気分が優れない、見たいで…」


「そう…大丈夫かな。姫羽さんがいないと、食事も楽しくないね」


 そう言って、大護は残りを食べ始めた。


「そ、そう、だね…」


 明里は、溜息をついている。


 そんな明里の態度を見て、永志と史也が感づかない筈はなかった。


「史…」


「分かってます…明里ちゃんの仕事が終わり次第、2人で先生の部屋に行きますから」


 永志と史也は、黙って頷き合った。






 午後10時半。


 ノックの音が聞こえ、立ち上がった永志は部屋のドアを開けた。


「入れよ」


 ドアの前には、史也と明里が立っている。


「失礼します」


「失礼致します…」


 2人は中に入ると、ソファーに並んで腰掛けた。


 その向かいに、永志が座る。


「あの、史也さんに話があると言われたのですが…」


 明里がそう言うと、史也は明里を見た。


「実は、姫の事なんだけど…」


「えっ、あ…」


 明里は、明らかにうろたえている。


 永志は、煙草に火を点けながら訊いた。


「やっぱ、何か知ってんのか?」


 明里は暫く俯いていたが、やがて顔を上げた。


「いずれは、皆さんの耳にも入る事かもしれませんね…」


 明里は、静かに話し始めた。


「私も、詳しい事は知らないんです。ただ、あんな姫羽さんを見たのは初めてで…」


「姫に、何があったの?」


 史也が、話の先を促す。


「今日の午後2時頃、中庭で花壇に水をやっていたら、暗い表情で姫羽さんが廊下を歩いて来るのが見えたんです。中庭の前の廊下は典鷹様のお部屋にしか通じていませんから、姫羽さんが何をしようとしているのかは私にもすぐに分かりました。姫羽さんは深呼吸をした後、典鷹様のお部屋へ入って行かれました」


 永志と史也は、黙って顔を見合わせた。


「中で何が起こっているのか、正直私も気になりました。とにかく、姫羽さんの事が心配で…でも盗み聞きする訳にも行かないので、仕事も手につかないまま玄関ロビーでウロウロしていたんです」


 永志が、大きく煙を吐く。


「暫く待って、姫羽さんが戻って来ました。姫羽さんは、おぼつかない足取りで酷く泣いていて…私にも気付かないまま、階段を上って行ってしまったんです」


 其処まで話した明里は、辛そうな顔で俯いてしまった。


 永志と史也も、黙り込む。


「姫羽さん、いつも、明るくて、私、何度も励まされました。なのに、あの時の姫羽さん、声も掛けられないような雰囲気で。それなのに、ひっく、私、な、何にも、してあげられない、なんて、ひっ…く」


 そう言って、明里は泣いてしまった。


「明里ちゃん…」


 史也が、優しく明里の肩を抱く。


 永志は、煙草の灰を灰皿に落とした。


「アイツさ、前から典鷹と決着つけるって言ってたんだ…」


「え?」


 驚く史也。


 涙を拭いながら、明里も顔を上げる。


 永志は、話を続けた。


「しかも、今月中に…4月からは、新たな気持ちでスタートしたいって。典鷹には、確かにムカついてたみたいなんだ。顔も見たくないとか、話もしたくないとか言ってたし。そう言う素直な気持ちを言いたいけど、典鷹を傷付けるのは怖い。それでどうしたらいいのかって、色々悩んでた」


 それを聞いて、明里は思い出した。


「そう言えば姫羽さん、私にも言ってました。史也さんが口を利いて下さらなかった時、姫羽さんに相談に乗ってもらったんです。そうしたら『悩んでても、何の解決にもならない。今の私には、それが分かる』って。だから私にも、本人と直接話すべきだって仰ってました」


 史也が、申し訳なさそうに顔を赤らめる。


 永志は、煙を吐きながら言った。


「それで、自分も典鷹の所へ言ったって訳か。結果は、どうなったのやら…」


「多分…典鷹様とは、別れられたんだと思います」


 明里は、あの時の姫羽の様子を思い出していた。


「その理由として最初に挙げられるのは、姫羽さんが泣いていた事です。あれは、嬉しくて泣いている風には見えませんでした。次に挙げられるのは、姫羽さんの本当の気持ち…」


「どう言う事?」


 史也が訊くと、明里は黙って永志を見た。


「な、何だよ…」


 永志がそれに気付くと、明里は静かに言った。


「お願いです。お2人で、姫羽さんを励ましてあげて下さい。姫羽さんの心の支えは、お2人の存在なのですから…」


 史也は、慌てて付け加える。


「何、言ってるんだよ。明里ちゃんの存在だって、姫にとっては大事だ」


「そう言って下さると、私としても嬉しいのですが…お2人の代わりには、誰もなれないんですよ。5年も培って来た3人の絆だけが、今の姫羽さんを立ち直らせる薬になるんですから。明日、お2人で姫羽さんのお部屋に行って差し上げて下さい」


 そう言って、明里は淋しげに微笑んだ。


 永志と史也は、黙って顔を見合わせる事しか出来なかった。




        †




 翌日。


 朝、永志と史也は偶然にも同時に部屋を出た。


 階段で、鉢合わせする。


「あ、先生…」


「お、おう…」


 そう言ったきり、2人は黙り込んだ。


 姫羽の事が、脳裏をよぎる。


『あの』


 2人は、同時に口を開いた。


「何だよ」


 永志が呟くと、史也は静かに言った。


「先生、こんな所に突っ立ってないで行ったらどうですか?」


 何処に…?永志はそう言ってはぐらかそうとしたが、やめた。


「分かった…」


 素直に返事をした永志は、姫羽の部屋へと歩いて行った。


「先生…」


 史也が、呼び止める。


「ん?」


 永志は、振り返った。


「あの…此処で待ってても、いいですか?」


 史也がそう言うと、永志は微笑んで頷いた。


「ああ」


 史也も、微笑む。


 永志は再び歩き出し、姫羽の部屋のドアをノックした。


 返事がない。


「姫?」


 永志は、呼び掛けた。


 それでも、返事はなかった。


 永志は、大きく深呼吸した。


「入るぞ」


 永志は、ドアを開けた。


 中に入り、ドアを閉める。


 姫羽は既に起きており、服もきちんと着替えていた。


「姫…」


 永志が、もう1度呼び掛ける。


 姫羽はこちらに背を向け、窓際に立って外を眺めていた。


 永志は其処まで歩いて行き、姫羽の後ろに立った。


「飯の時間だぞ」


 永志がそう言うと、姫羽は静かに答えた。


「いらない…」


「お前なぁ…」


 永志は、頭を抱えた。


「昨日の昼から、何も食ってねぇだろ?皆、心配してんだぞ」


「食べたくない…」


 姫羽は、即答した。


 永志は、姫羽の肩を掴んだ。


「おい、姫。こっち、向…」


「見ないでっ!」


 姫羽は、永志の手を振り払った。


「1晩中泣いて酷い顔してるから、見ないで…」


「ケッ、酷い顔だとぉ?お前、自分で普段どれだけイイ女だと思ってん…」


 永志は、冗談でそう言いかけたのだが。


「あの、ひ、姫?」


 姫羽は、全く反応しなかった。


「わ、悪い…」


 永志は、しおらしく謝ってしまった。


 失礼な事、言わないでよねっ!自分だって、大した顔してないクセにっ!…それくらいの返事を期待していた永志は、失敗したと思った。


「先生…」


 姫羽が、ようやく口を開く。


「何だ?」


「私、典鷹さんと別れて来た…」


 永志は、黙って姫羽の後ろ姿を見つめている。


「典鷹さんって、魔法使いみたいだよね…」


「え?」


 訊き返す、永志。


「そりゃあ、世間の事は何も知らないかもしれない。本人も、そう言ってる。でも、人の心の中の事は何でも知ってるの。不思議だよね…」


 永志は、黙っている。


「私の心の中は勿論、クロエさんの心の中も、先生の心の中も、みーんな知ってた…」


 姫羽がそう言うと、永志は鼻で笑った。


「バカ、言うなよ…」


「嘘じゃないよ!」


 姫羽が怒鳴る。


 永志は、再び黙り込んだ。


「典鷹さんの前で、絶対に嘘はつけない。人の気持ち全部知ってて、自分が1番傷付くって事が分かってて、それでも典鷹さんは私の幸せを1番に考えてくれてたんだ…どうしてあんないい人、傷付けちゃったんだろ…」


 姫羽は、ガクッと俯いた。


 肩が、小刻みに震えている。


 姫羽は…泣いていた。


 永志は、姫羽の泣く姿を初めて見た。


 この5年間、永志は姫羽の笑ったり怒ったり困ったり悩んだりした顔は見た事があっても、泣いた顔は1度だって見た事がなかった。


 初めて姫羽の本当の姿を垣間見た気がして、永志は動揺していた。


 姫羽は、涙声で言う。


「私も、典鷹さんに甘えてたんだ。典鷹さんが1つも嫌な顔しないから、それに付け込んで調子に乗ってたのかもしれない…それでも典鷹さんは、黙って嫌な気持ち全部抱え込んでくれてた…」


 永志は、自分が典鷹の部屋に乗り込んで行った時の事を思い出していた。


 今から考えてみたら、自分に典鷹を責める資格があっただろうか。


 典鷹は、悪くない。


 それが分かっていながら、自分のやり場のない気持ちを典鷹にぶつけていた。


 『自分でストレスも発散出来ない奴が、生意気言うな』なんて…それこそ生意気な事を、史也に言ってしまった。


 永志は、今更ながら恥ずかしくなった。


「でもね、そのお陰で私もようやく自分に素直になろうって思う事が出来たんだよ。この気持ちは、典鷹さんを犠牲にして手に入れたものなの。だから、これからはもう絶対に誰も傷付けたくない…そう、決めた」


 姫羽は、涙を拭った。


「先生…悪いけど、出て行って…」


「はぁ?」


 永志が、訊き返す。


「そもそも俺は、飯だぞって事を…」


 姫羽は背を向けたまま顔を上げ、笑って言った。


「ご飯は、明里ちゃんに運んで来てもらうし。こんな顔じゃ、皆に会えないでしょ…まあ、どうせ私は普段から大した顔はしてませんけどねっ!」


 口調はいつもの姫羽に戻っていたが、窓硝子に映った顔は涙に濡れていた。


「姫…」


 呟く永志。


 姫羽は、再び涙声で言った。


「ご、ごめん、先生…っ…私、何か、自分が凄く、凄く、嫌な人間に思えて来ちゃっ…」


 その瞬間、永志は後ろから姫羽を抱きしめていた。


「え…っ」


 姫羽は驚いて、目を丸くしている。


 冗談で腕を組んだりした事はあったが、2人が此処まで密着したのはこの5年間で初めての事だった。


「もう、俺の負け…」


 永志は姫羽を抱きしめたまま、耳元でそう囁いた。


 何が何だかさっぱり分からず、姫羽の頭の中は混乱している。


「頼むから、もう泣くな…」


 永志は、姫羽の頭を優しく撫でた。


「せ、先生、な、何で…」


 姫羽が驚いていると、永志は大きな溜息をついた。


「お前のその泣き顔、其処の窓硝子に映って全部見えてんだけど…」


 それを聞いた途端、姫羽は顔を真っ赤にして両手で覆った。


「ちょっ、なっ、何、それっ!早く言ってよ、もう…ムッカつくっ!」


 姫羽はそう叫ぶと、永志から離れようとして腕の中で思い切り暴れた。


 しかし、永志はそれより強い力で姫羽を押さえつけた。


「お、落ち着けってんだよっ!」


「これが、落ち着ける訳ないでしょっ!ただでさえ、先生の前で本気で泣いちゃったりして、メチャメチャ自己嫌悪に陥ってんのに!」


 もがく姫羽を、永志が笑いながら押さえる。


「ま、まあ、聞けって…お前も知ってる事だけど、確かに俺は女好きで色んな女をあの部屋に連れ込んでた。だけど、正直お前の事は全く興味なかったし、知りたくもなかったし、自分でも絶対にお前みたいなタイプは一生好きになる事なんてないと思ってた」


 途端に、姫羽が黙り込む。


「だけど段々調子狂って来て、いつの間にかこっちの方がお前のペースに乗せられてて。挙句の果てに、何か気付いたら頭ん中お前の事でいっぱいになってるし…」


「え…っ…じょ、冗談…だよ、ね?」


 姫羽が、唖然としながら呟く。


 永志は、焦って口ごもった。


「お、俺だって、その…み、認めたかねぇよ。だから自分に絶対違う、絶対違うって言い聞かせながら今までやって来た。でも、それも限界があってさ…最初の限界は、お前と典鷹がキスしてんのを見ちまった時…」


 姫羽は、ハッと目を丸くした。


「でもさ…そん時は、典鷹に八つ当たりして何とか押さえられた。ま、今から考えりゃ自分勝手だったけど…」


 黙ったままの、姫羽。


「で、2回目の限界が今。マジ泣きしてるお前見て、何つーか…ちょっと、可愛いとか思っちまってる…ったく、どうかしちまってるな、俺…」


 そう言って、永志は姫羽の後ろ頭にコツンと額をぶつけた。


「だから、この勝負は俺の負け…」


「ど、どう言う意味、それ…」


 姫羽が、慌てて訊く。


「だ、だからぁーっ!」


 永志は、顔を赤らめた。


「つまりその、お、お前の事…」


 窓硝子に映った照れる永志を、ドキドキしながら見つめる姫羽。


 永志は、ぶっきらぼうに言った。


「まあつまり、そー言う事だよ!」


「其処まで言っといて、それはないでしょ!」


 姫羽は怒鳴った。


「折角、大事なトコなのにっ!」


「バッ、バーカ!っざけんなっ!」


 永志が憎まれ口を叩くと、姫羽はニヤニヤし始めた。


「ま、いいけど…先生が私を思って照れてる顔、ぜーんぶ硝子越しに見えてるから!」


「お、お前…っ!」


 永志は顔を真っ赤にしながら怒鳴ろうとしたが、姫羽を抱きしめた腕に力を入れた。


「ま、いいや…」


「えっ?」


 姫羽は拍子抜けしつつも、このまま時が止まればいいと願っていた。


「それより、お前さぁ…」


「何?」


 永志は、姫羽の肩を掴んだ。


「いい加減、こっち向…」


「嫌っ!」


 姫羽は、途端に抵抗した。


「もう…先生にだけは、泣き顔見られたくなかったのに…っ」


「何でだよ。別に、いいって言ってんだろ!」


 永志はそう言ったが、姫羽は頑なにそれを拒んだ。


「ったく、しょうがねぇなぁ…」


 永志は溜息をつきながら、部屋中のカーテンを閉めた。


「これで、どうだ」


 薄暗い中、永志は姫羽の肩を掴んでようやくこちらを向かせた。


 しかし、姫羽は俯いている。


「顔、上げろって…」


 永志は顔を覗き込みながら、姫羽の顎を持ち上げた。


 ジッと、姫羽を見つめる。


 その視線に耐えられず、姫羽はフッと顔を背けた。


「お前なぁ…何、避けてんだよ」


 永志が呆れながら訊くと、姫羽は焦って言った。


「だ、だって…この5年間、こんな近くで先生の顔…み、見た事ない、から…っ」


 永志は、ガクッとなった。


「何の為に、カーテン閉めたと思ってんだよ…」


「そ、それは…っ」


 口ごもる、姫羽。


 永志は、再び姫羽の顔をこちらへ向かせた。


「今度は、避けんなよ…」


 永志は、自分の顔を姫羽の顔に近付けようとした。


「ちょっ…な、何、する、の…っ?」


「何って…キス?」


「えっ?キ、キス…って…な、何、そのいきなりな、展開…っ」


「お、お前さぁ…」


 永志は、溜息をついた。


「ガキじゃねぇんだから…」


「そっ、そうかもしれないけど、でもっ!」


「はぁ…でも、何だよ?」


「だって、その…は…恥ずかしい…よ…っ…」


 らしくもなく、顔を真っ赤にしながら上目遣いで見て来る姫羽。


 永志は、深い溜息をついた。


「はぁ…そう言う誘うような顔、すんなよ…」


「だっ、誰が、誘って…っ!」


 姫羽は、逆ギレしている。


「ああ、分かった分かった…分かったから、お前は少し黙ってろ」


 頭を撫でられ、姫羽はむくれながらも大人しく黙り込んだ。


 永志が、ゆっくりと顔を近付ける。


 静かに目を閉じる、姫羽。


 しかし永志が近付いて来るのを感じて、姫羽は目を閉じたまま顔を赤らめた。


「ね、ねえ…やっぱ、その…っ」


「シーッ…いいから…大人しく…してろ…っ」


 永志は、ゆっくりと姫羽に口付けた。


「ん…っ」


 静かな時が、流れる。


 永志は唇を離すと、姫羽の頬や首筋に音を立てながら何度もキスをした。


「あっ…ちょっ…セ、センセ…っ」


「姫…っ」


 やがて姫羽は、永志の首筋に顔を埋めた。


「な、何か、夢、みたい…」


 永志は、意地悪そうにニヤける。


「あ、やっぱ?俺のキスって、夢みたいに…」


「違ぁーうっ!」


 姫羽は、即座に否定した。


「って、言うか…い、いつもの先生と…違く、ない?」


 永志は、姫羽を抱きしめたまま頭を抱えた。


「はぁ…この俺が此処まで夢中にさせられちまうなんて、今までのキャラ丸潰れじゃんかよ…」


「でも、そう言う先生も、結構…」


 其処まで言って、姫羽は黙り込んだ。


「な、何だよ…」


 永志が、訊き返す。


「別に。ただ、ちょっといいかなって…」


 姫羽の答えを聞いて、永志は真剣な眼差しで姫羽の顔を覗き込んだ。


「姫…」


「な、何…」


 姫羽がビビっていると、永志は静かに言った。


「もう、俺以外の奴、好きになったりすんなよ…」


「そ、それ、先生でしょうがっ!」


 姫羽は、捲し立てた。


「大体ねぇ!先生の場合、過去の経歴があるん…」


「俺が好きなのは、姫だけだ…」


「え…っ」


 突然の永志の発言に、姫羽は驚いて目を丸くした。


「い、今、何て…っ」


 永志は、顔を赤らめる。


「バーカ、何度も言わせんな!俺が好きなのは、お前だけだっつってんだよ!」


 姫羽は、呆然としている。


「せ、先生さぁ…ひょっとして、初めて自分から好き、とか…言ったんじゃない?」


「え?」


 永志はキョトンとしていたが、やがて肩を竦めて微笑んだ。


「かも、な…」


「な、何か、信じらんない…」


 姫羽がボーッとしていると、永志は焦りながら言った。


「しょ、しょーがねぇだろっ?俺を此処まで本気にさせたのは、お前だけなんだから!その代わり、とことん付き合ってもらうから覚悟しとけよ!」


「げーっ…」


「なっ!い、嫌なのかよっ!」


 姫羽のブーイングに、思わずムッとする永志。


 アハハと笑って、姫羽は言った。


「嘘に、決まってんでしょ?まあ私だって、今更離れてなんかやらないんだから、そっちこそ覚悟してよね!」


 そんな姫羽の頭を、永志は黙って優しく撫でる。


 姫羽は、途端に顔を赤くして俯いた。


 永志は、姫羽の頬にキスをした。


「…っ」


 姫羽が恥ずかしそうに顔を上げると、永志は再び姫羽の唇にキスをした。


「せ、先生…ん…っ…」


「姫…っ」


 こうして2人は薄暗い部屋の中で、何度も何度もキスを繰り返した。


 まるでこの5年間、ずっと抑え続けて来た自分達の想いを解放するかのように。






 永志は、1人で姫羽の部屋を出た。


 階段の所に、史也が座り込んでいる。


「ま、まずい…」


 史也が待っている事を、すっかり忘れていた。


 永志が歩いて行くと、史也はゆっくり立ち上がった。


「先生、遅いですよ!あれから、30分も経ちました」


「わ、悪い…」


 永志は、決まり悪そうに謝った。


「それで、大丈夫だったんですか?」


 史也の質問に、永志は黙って頷いた。


「そうですか。良かった…」


 史也は、安心して言った。


「じゃあ、食堂行きましょうか」


「あ、ああ…」


 永志は、静かに階段を下りた。


 史也は、何となくぎこちない感じの永志を見て首を傾げた。


「先生…?」


 階段を下りながら、史也は訊いた。


「何か、あったんですか?」


「えっ?」


 永志の足が、止まる。


 後ろを歩いていた史也は、永志の前に回った。


「何か…あったんですね?」


 史也は、真剣な顔をしている。


 永志は、口を尖らせた。


「お、お前には嘘つかないって約束、したからなぁ…」


「な、何があったんです?あ…ま、まさか、先生!」


 史也が何か感づくと、永志は顔を赤らめた。


「ま、まあ、そう言う事だ…」


 そして、足早に階段を下りて行く。


「せっ、先生っ!」


 史也は、慌てて後を追った。


「や、やったじゃないですか!そっかぁ、5年の時を経て2人はついに結ば…」


「わ、分かったから、早くしろ!」


 史也の言葉を慌てて遮り、永志はさっさと食堂へ入って行く。


「はいっ!」


 史也も、嬉しそうに返事をした。




        †




 翌日。


 大護は、明日帰る事になっている。


「あーちゃん」


 朝食後、皆がいなくなるのを待って大護は明里に言った。


「今日の夜、僕の部屋に来ない?」


「え?」


 皿を片付けていた明里は、手を止めた。


「だって、あーちゃんと一緒にいられるのも、今日が最後だろう?だから、悔いのないようにいっぱい喋っておこうと思って…駄目かな?」


 優しく微笑みながら、大護はそう言った。


 特に断る理由もないので、明里は頷いた。


「分かった。なるべく早く仕事終わらせるから、部屋で待ってて」


「約束だよ」


 大護は、嬉しそうに食堂を出て行った。






「やっ………………と、帰ってくれますよぉ!ま、こんないい方しちゃいけないんだろうけど」


 そう言って、史也はソファーに座ったまま伸びをした。


「目の上のコブだったもんねぇ、史くん?」


 ホッとしている史也を見て、姫羽が厭味っぽく言う。


 史也は、途端に焦り出した。


「そっ、其処までは、言ってないだろう?」


「でも、その手前くらいまでは言ってたな」


 煙を吐きながら、永志がそう呟く。


 史也は、ガクッと項垂れた。


「ま、今更否定はしませんけどね…」


 午後9時半。


 夕食を終え、風呂に入り、寝巻きに着替えて後は寝るだけの姫羽と史也は、永志の部屋に来ていた。


 史也は大護が明日帰る事を、正直嬉しく思っていたのだった。


 其処を、永志と姫羽が鋭く指摘する。


「でも明里ちゃんは、大ちゃんよりも史くんを取った訳だ。って事は、史くんはもう歴とした明里ちゃんの恋人な訳だから、もっと堂々としてればいいんじゃないの?」


 姫羽がそう言うと、史也は永志と姫羽を交互に見た。


「いいよなぁ、心配の種がない人達は余裕でさぁ…」


 永志と姫羽は、顔を見合わせた。


 史也は、溜息をつく。


「僕だって人間ですからね、いくら彼に非がなくたってやっぱり良くは思えませんよ。少なくとも、彼は明里ちゃんに好意を寄せてるんですから…」


「まあその気持ち、分からなくはないけど…」


 姫羽はそう呟き、クロエの事を思い出していた。


 永志は、黙って煙草の灰を灰皿に落としている。


「とにかく彼が帰らない限り、僕の気持ちが休まる事はありませんね」


 そう言って、史也は背もたれに寄りかかった。


「史くんは、そう言うけど…個人的には私、大ちゃん好きだな。優しいし、いい子だし、明里ちゃんの事を本当に大事に思ってるのがよく分かるじゃない?」


 その姫羽の意見に対抗するかのように、史也は言った。


「わ、悪いけど、そう言う点では僕だって彼に負けてないと思う!」


「そんな事、分かってるって…」


 苦笑いする、姫羽。


「でもさ…史くんには酷だけど、実際子供の頃から明里ちゃんを守って来たのは、大ちゃんだよね?」


 史也は、ガバッと起き上がった。


「お、おいおい、姫…今更、そんな話題かよ!」


「違う違う」


 姫羽は、首を横に振った。


「自分にとってヒーローみたいな存在で、なおかつ8年ぶりにわざわざ会いに来てくれたにもかかわらず、明里ちゃんは大ちゃんよりも史くんを選んでくれた訳でしょ?だから、それを幸せに思いなさいよって事を言いたいの!」


 それを聞いて、史也は顔を赤くしながら俯いた。


 其処で、今まで黙って煙草を吸っていた永志が口を開いた。


「それにしてもさ、明里の奴も史の何処が良かったんだろうなぁ…」


「ちょっ…せ、先生まで、そう言う話題ですか?」


 史也が焦ると、永志は煙草を灰皿に押し付けた。


「だって、考えてもみろよ。大金が服着て、8年ぶりに自ら自分トコに歩いて来てくれたんだぞ?何てったって、将来は病院の院長だろ?俺が女だったら、即結婚だな」


「はぁーっ?」


 驚く姫羽。


 永志は、新しい煙草に火を点ける。


「バッカ、普通そう考えるって!」


 そんな永志を睨みながら、姫羽は言った。


「ま、どうせ先生はそうでしょうよ…何たって、遺産に目が眩んでこのお屋敷に来たくらいなんだから…」


 永志は、苦笑いした。


「あ、あのなぁ…人間、金がなきゃ生きて行けねぇんだぞ?愛情だけで、世の中渡っていけるかっつーの!」


「へぇーっ…流石先生、現実が分かってますねぇ!」


 感心する、史也。


 姫羽は、呆れて肩を竦めた。


「史くん、感心してる場合じゃないでしょ?って事は、明里ちゃんがお金目的で大ちゃんと一緒になっても、いいって事?」


 史也は、即座に否定した。


「だっ、駄目駄目っ!そんな事、僕が許しませんよっ!でもま、明里ちゃんは先生みたいな人ではありませんから…」


「分かんねぇぞぉ?」


 永志は、ニヤニヤし始める。


「今頃、大ちゃんに口説かれてクラッと来てるかも。『明日、僕と一緒に帰ってくれないか?両親に、紹介したいんだ』なーんつってさ…」


「せ、先生…其処まで意地悪言うの、やめて…」


 姫羽が、永志に注意する。


 史也も、頷いて言った。


「そ、そうですよ!それに、明里ちゃんは金に目が眩むような人ではないんです!先生と一緒にしてもらっちゃ、困りますよ!」


「そう言う事!ね、史くん?」


「や、やっぱり、分かってくれるのは姫だけだ…えーんっ!」


 泣きながら、史也が姫羽に抱きつく。


「当ったり前でしょっ?おお、よしよし…」


 姫羽は慰めながら、史也の頭を優しく撫でている。


「お…おい!」


 そんな2人を見て、永志はムッとしながら言った。


「お、お前ら…離れろ」


「何で?」


 史也が顔を上げると、姫羽も言った。


「くっついてちゃ、悪い?私達同い年だから、従兄弟の中でも1番仲良かったの。昔から手繋いだり、一緒にお風呂入ったり、抱きついたり、同じ布団に寝てたりしたよね?」


「そうそう!」


 2人は、仲良く顔を見合わせている。


 永志は、頭を抱えた。


「こ、これからは、冗談でも俺の前でそう言う事すんな…」


 それを聞いて、史也はニヤニヤし始めた。


「ははーん、なるほど…」


「妬いてんのかぁ?」


 姫羽も、意地悪な笑みを浮かべる。


 永志は、焦って言った。


「バッ、バーカ、ちげぇよ!」


 すると、姫羽は史也の手を握って立ち上がった。


「違うんだってよ…じゃあ史くん、先生のいないトコ行こう!」


「うん!」


 素直に頷く、史也。


 永志は、溜息をついた。


「わ、分かった分かった。降参…」


「妬いてくれてたんだよ…ね?」


 姫羽に訊かれて、永志は黙って頷いた。


 史也は、肩を竦める。


「全く、最初っから素直にそう言えばいいのに…」


「お前なぁ…」


 永志は、顔を引きつらせている。


「でも私達3人って、この5年間いつも一緒にいたじゃない?なのに、まさか先生が私と史くんとの事で、やきもちやくようになるなんて…何か、信じられない…」


 姫羽は、しみじみとそう言った。


 永志は、ウザそうな顔をする。


「一々、うっせぇなぁ!いいだろ、別にっ!史だからまだ許せるようなものの、他の奴だったらぶん殴ってる所だ!」


「へぇーっ!それって、どう言う意味ぃーっ?」


 姫羽がニヤけながらわざとそう訊くと、永志はそっぽを向いた。


「べっ、別にっ!意味なんて、ねぇよ!まあ、強いて言えば…ちょーっとカッコいいと思った男とだったら、誰とでも仲良くなろうとするその惚れやすい性格を、何とかしたらどうですかって意味なんじゃねぇのぉ?」


「ちょっ…な、何よ、それっ!」


 姫羽は一瞬ムカついたがすぐに気を落ち着け、ムッとした演技をした。


「人の事、言える立場?自分だって、色んな女性に手出してたクセに…まーた、そんな風になったりしないといいですけどねぇ!」


 永志は、ブチ切れた。


「つーかしつけぇんだよ、テメェはっ!確かに昔はそうだったけどなぁ、この5年間俺はお前の事しか考えた事ね…」


 其処まで言って、永志はハッとした。


「きっ、聞いた?今のっ!」


 姫羽は、嬉しそうに史也を見た。


 史也も、大きく頷く。


「聞いた聞いた!ついに先生の本音、出ちゃいましたねぇ?」


 2人は、ニヤけながら永志を見た。


「ハ、ハメやがったな…」


 永志は、顔を真っ赤にしている。


「やーん、先生ってば照れてるぅーっ!かーわーいーいーっ!」


 姫羽にからかわれて益々顔を赤くした永志は、珍しく煙草の煙で咳き込んだ。


 そんな2人を見ながら、史也は立ち上がった。


「あーあ、完璧見せつけられちゃいましたよ。まだ3月だってのに、暑い暑い…じゃあ僕、部屋に戻って寝ます」


「え、もう寝るの?」


 姫羽が訊くと、史也は頷いて肩を竦めた。


「これ以上2人の仲を見せつけられたって、こっちはちっとも面白くないし…」


「じゃ、じゃあ、私も…」


 そう言って立ち上がった姫羽を、史也は止めた。


「何で?姫は、いいんだよ。最悪、先生と一緒に寝たっていいんだし…」


『なっ!』


 永志と姫羽は、顔を赤らめた。


「じゃ、2人ともお休み」


 史也は手を振ると、ドアを開けてさっさと部屋を出て行ってしまった。


「あ、私も、部屋戻るから…じゃあ先生、お休み…」


 そう言って、姫羽はドアまで歩いて行った。


「おい…」


 永志は煙草を灰皿に押し付けると、黙って姫羽の後を追った。


「待てよ…」


 ドアの取っ手に掛けられた姫羽の手を、優しく握る。


「ちょっ、先生…」


 姫羽が驚いて振り返ると、永志は静かに口付けた。


「ん…っ」


 姫羽の、取っ手を掴む手が緩む。


「姫…っ」


「んっ…セ、センセ…っ」


 永志の舌が、姫羽の中に入ろうとしたその時。


 突然、ドアが開いた。


『痛っ!』


 永志と姫羽は同時に叫び、口を押さえた。


 ドアに押されて、お互いに前歯をぶつけたのだ。


 入って来たのは、史也だった。


「ど、どうしたの?2人とも…」


 史也が驚いて言うと、姫羽も焦って訊き返した。


「ふ、史くんこそ、どうしたの?」


 史也は、黙ったまま俯いた。


 これからって時に邪魔が入ったので、永志はご機嫌斜めだ。


「そんなトコにつっ立ってねぇで、用があんならさっさと座れ!」


「な、何怒ってるんですか、先生…」


 史也は、苛付く永志を不思議そうに見ている。


 姫羽は、慌てて言った。


「ま、まあ、先生もそう言ってるんだから、座れば?」


「あ、う、うん…」


 史也は頷き、再びソファーに腰掛けた。


「で、どーしたんだよ!」


 相変わらず苛付きながら、永志が訊く。


 史也は、恐縮しながら話し始めた。


「じ、実はその…凄く不愉快な光景、見ちゃいまして…」


 姫羽が、心配そうな顔で見つめる。


「さっきこの部屋を出た時、丁度明里ちゃんが階段を上って来るのが見えたんです。多分、仕事が終わったんでしょうね。こんな時間ですから、僕はてっきり姫の部屋にでも用事があるのかと思って、黙って見ていました。そうしたら…」


「そうしたら?」


 姫羽が、話の先を促す。


 史也は、沈んだ声で言った。


「アイツの部屋に、入って行きました…」


 目を丸くする、姫羽。


 しかし、永志は冷静に言う。


「だから、何だよ。別にいいだろ、今日でお別れなんだから。最後に顔合わせるくらい…どーって事ねぇじゃんかよ」


「どーって事ないって…先生っ!先生だって姫が典鷹さんの部屋に通ってる時、良く思ってなかったじゃないですかっ!」


 史也は、突然怒鳴った。


 永志は、返す言葉がない。


 姫羽は、顔を赤らめながら俯いた。


 史也は、気を落ち着けながら言う。


「す、すみません…も、勿論、部屋で別れを惜しむくらいなら、僕だって文句は言いませんよ。本当に、それだけならね」


 姫羽は、顔を上げた。


「で、でも、史くん…明里ちゃんは、史くんを裏切るような子じゃないよ?」


「分かってるけど、相手は明里ちゃんを好きなんだよ?自分もそうだとは思いたくないけど、男がこんな時間に好きな子を部屋に連れ込んでやる事って言ったら…」


 其処まで言って、史也は俯いた。


「俺がこんな事言うのも、らしくねぇんだけど…」


 そう前置きして、永志は静かに口を開いた。


「明里はお前が思ってるほど、意志の弱い女じゃねぇと思うけど…」


 史也はハッとして、顔を上げた。


 姫羽も、微笑みながら永志を見つめている。


「お前さぁ、恋愛ってのはガキのお人形さん遊びじゃないんだぞ?」


「どっ、どう言う意味ですかっ!」


 史也がムッとすると、永志は真剣な顔で言った。


「今のお前はさ…何つーか、自分が大事にしていた人形を他のガキに取られて、もう2度と戻って来る事のないその人形を思いながら、未練たらしく毎晩ピーピー泣いてるガキにしか見えねぇんだよ…」


 史也は、呆然としている。


「人形は取られたら、2度と戻って来ないかもしれない。でも、人間は自分の思う場所にちゃんと戻って来る。明里は1人の人間で、自分の意思も感情もちゃんと持ってんだ。お前への気持ちが本物なら、お前の所に必ず戻って来るって…な?」


「せ、先生…」


 史也は、永志を見つめながら呟く。


 永志は、優しく微笑んだ。


「心配すんな…男だったら、堂々と構えてろ!」


「先生っ!」


 史也は、感動しながら言った。


「何だか今日の先生、僕達より大人に見えます!」


「は?」


 永志、気の抜けた声を出す。


「い、いくつだと思ってんだよ…」


「少なくとも、精神年齢は僕達と同じくらいかと…」


 そう言って、史也はニコニコしている。


 永志は、黙って頭を抱えた。


「冗談ですよ、いつだって先生は僕達の頼れる兄貴ですって!ホント、有り難う御座いました。先生に励ましてもらったら、何だか気が楽になりました。普段は先生に感謝するなんて事、滅多にないんですけど…」


「史っ!」


 爆発しそうな永志を見て、姫羽は慌てながら言った。


「ま、まあ、とにかく史くんは明里ちゃんを信じて、広い心で待っててあげなよ。きっと今悩んでた事が、バカみたいだったって思う筈だからさ」


 史也も頷いた。


「そうだね…姫も、有り難う。じゃあ、今度こそ本当にお休みなさい」


 史也は、笑顔で部屋を出て行った。


「セーンセっ!」


 姫羽は、ニヤニヤしながら永志を見つめている。


「な、何だよ…」


 警戒する、永志。


「ちょっと…カッコ良かった…」


 そう言って恥ずかしげに微笑む姫羽を見て、永志はドキッとした。


「やっと先生も、まともなアドバイスが出来るようになったんだ?」


 姫羽の言葉に、永志は呆れた顔をした。


「ったく…お前も史も、今まで俺を見下してたって事だな?」


「そう言う意味じゃないって…でもああ見えて史くん、結構悩んじゃうタイプなんだよなぁ。昔っからそうでさ、落ち込んで泣きじゃくる史くんに一晩中添い寝してあげた事もあったっけ…」


「添い寝?」


 永志がそう呟いて、眉をピクリと上げる。


 姫羽は、溜息をついた。


「い、いや、先生、反応し過ぎだって…こんなにやきもちやきとは、思わなかったなぁ…」


 永志も、焦って言う。


「お、俺だって、今までやきもちやいた事なんか1度もねぇもん!」


「え?」


 姫羽は、耳を疑った。


「ホントにっ?」


「嘘ついてどうすんだよ。やきもちなんかやかなくたって、女に不自由してなかったし…」


 途端に、姫羽はムッとした。


「うわぁ…出た、最低発言…じゃあ私、帰るから」


 立ち上がった姫羽の腕を掴んで、永志は言った。


「もう、寝んのか?明日店休みなんだから、ちょっとくらい夜更かししたっていいだろ?」


「え…っと…そ、それは、そう、だけど…」


 姫羽は、考え込んでいる。


「此処、座れって」


 永志は、自分の隣を指差した。


 姫羽は溜息をつき、仕方なく隣に座った。


 永志が、姫羽の肩に手を回して来る。


「何かさ…」


 姫羽は、苦笑いした。


「急に、ベタベタして来るようになった…ね」


「そうか?」


 永志は、あっけらかんとして言う。


「そうだよ!今までだったらガキは早く寝ろとか、もういいからお前向こう行けとか、キモイとかって散々言ってたクセに…」


 姫羽にそう言われて、永志は頭を抱えた。


「だ、だって、お前とはそう言う間柄じゃなかっただろっ?それに俺自身、お前が気になってるだなんて認めたくなかったしよ…1度認めちまったら歯止め効かなくなりそうだったから、わざと突き放してたんだよ…」


「えっ…?」


「お前って普段から、俺に弱み見せた事ねぇじゃん?泣き顔にしたってそうだし…」


「言ったでしょ?先生にだけは、見られたくないって…」


「だ、だからさ…その…お前がしおらしくなったら、どんな感じになっちまうのかなーっとか、想像してたらさ…その…」


「な、何?」


 口ごもる永志に、姫羽は訊き返す。


「いや、だから…出会ったばっかの頃は、まさかそんな事考えるとは思ってもみなかったんだが、まあ…その内、俺と会ってる時以外のお前の事を考えてたら、何つーか…」


 言いにくそうな永志を見て、姫羽は眉を顰めた。


「ん?ま、待って…先生、もしかして…わ、私の事、そう言う目で見てくれてた事、あったのっ?」


 手で顔を覆いながら、永志は呟く。


「しょうがねぇだろ…俺は、死んでも認めたくなかったんだよ!お前に対する、ムラムラとした気持ちを!お前が俺の部屋に来る度、そう言う気持ちと葛藤して…だからこれは違う、お前だけは違う!って言い聞かせながら、俺は戦って来たんだよ!」


「た、戦うって、大袈裟な…」


 と、言いつつも…姫羽は、正直…嬉しかった。


 何故ならあの頃はガキ、ウザイ、キモイばかりで、完全に自分は永志の眼中にはない存在なんだと、諦めながらの毎日を送っていたからだ。


「それに、はっきり言って今までの女達は体の関係だけの存在だった。向こうはどうだかしらねぇが、俺は1度だって好きだと思った事はねぇ。全ての女を、モノとしか見てなかったからな」


「何気に、最低発言…」


「かもしんねぇけど…でも、お前は違う。俺が生まれて初めて好きで、大事にしたいと思った奴なんだよ。だから、別に…まあ、お前の事抱いてみたいって気持ちがないとは言わねぇけど、焦って先に進もうとは考えてない。こうして、今までよりもお前を近くに感じる事が出来るだけで、今は満足してるからさ」


「先生…」


 微笑む、姫羽。


 永志は、そんな姫羽にそっとキスをした。






「ねえ、あーちゃん」


 大護の部屋。


 大護と明里は、向かい合ってソファーに座っていた。


「な、何?」


 恐る恐る返事をする、明里。


「明日、僕と一緒に帰ってくれないか?両親に、紹介したいんだ」


 先程何処かで聞いたような台詞を、大護は口にした。


 明里は、目を丸くして大護を見つめている。


「この前も言ったけど、僕は本気であーちゃんを引き取りたいと思ってる。養父母に話はしてあるから、後はあーちゃんが会ってさえくれれば…」


「ちょっと、待って…」


 明里は、悲しげな表情を浮かべた。


「私の…私の気持ちは、どうなるの?」


「あ…あー、ちゃん?」


 大護は、唖然とした。


「気持ちって…僕の事、嫌いなの?」


「好き、だよ…」


 明里は、静かに言った。


「そ、そうだよね?良かった!」


 大護は笑顔になり、明里の隣に座って手を握って来た。


 しかし、明里はその手を振り払った。


「そう言う意味の、好き…じゃ、ない…」


「え…」


 眉間に皺を寄せる、大護。


「大ちゃんが私の事、そう言う風に見てた事は…な、何となく分かってた。でも…ごめん、大ちゃん…私も、小さい頃から大ちゃんの事、好きだった。でも、それは大事なお兄ちゃんとして…」


「そんな事を聞く為に、わざわざ会いに来たんじゃないよ」


 大護は、真顔になった。


「僕はね、あーちゃんと大人の付き合いがしたいんだよ。もう大事なお兄ちゃんとか、そんなくだらない感情は捨てて…」


「くだらない?」


 明里は、大声で怒鳴った。


「どうして、そんな事言うのっ?」


「あ、あーちゃん…?」


「大ちゃん、変わっちゃったよ!もう、私の知ってる大ちゃんじゃない!」


「だったら…あーちゃんの知ってる僕って…何?」


 大護が、静かに尋ねる。


 明里は答えた。


「あの頃は、何もなかった…両親の存在は勿論、愛情もお金も自由も何もかもなかった…でもそれを全て埋めてくれたのは、他でもない大ちゃんの優しさだった…普通の家庭の子供達に苛められた事もあったけど、私は大ちゃんがいてくれたから、頑張ってやって来れたんだよ…」


 俯く大護。


「大ちゃんが引き取られたあの日、私は独りぼっちになった…淋しくて、やりきれない気持ちでいっぱいだった…でも、今まで私を守ってくれた大ちゃんを思い出しながら、今度は私が返す番…そう思って、私より小さな子供達の面倒を一生懸命見た…そして中学に入ると同時に、私はこのお屋敷に引き取られたの…」


 明里は、当時の事を思い出していた。


「普通の家庭に入る事は、怖かったよ…でも大ちゃんも頑張ってるんだから、私も頑張ろうって心に決めた…実際は、怖がる事なんて何もなかったんだけどね…私を引き取って下さった大旦那様は、昔は厳しかったなんて信じられないくらいお優しい方だったし、そのお孫さんである典鷹様の存在も私にとっては励みになったし…」


 明里は、大護を見つめた。


「当時の典鷹様は今の大ちゃんと同じ、20歳くらいだった…大ちゃんにも話したけど、典鷹様は心臓を悪くされてこのお屋敷に寝たきりのまま、お育ちになったの…そう言う意味では私達と同じで、外の世界なんか全くご存じない方だった…お友達だって、1人も…それでも、典鷹様は精一杯生きてらっしゃったの」


 大護は、黙って明里の話を聞いている。


「そんな周りの方々の生き方に影響されて、私も精一杯生きる事にした。8年ぶりに大ちゃんがこのお屋敷を訪ねてくれた時だって、昔と変わらず優しい大ちゃんだった事が物凄く嬉しかった…」


「だったら!」


 大護は強く言い返そうとしたが、明里は首を横に振った。


「でも、話している内にやっぱり昔の大ちゃんとは違う事に気が付き始めちゃったの。昔の大ちゃんは、何もなくてもその中から幸せを見つけ、小さな存在の自分達でもきっと何処かで誰かが必要としてくれている…そう言う風に、前向きに物事を考える事が出来る人だった」


「今の僕は…そうじゃないって言いたい訳?」


 大護が、冷めた口調で言う。


 明里は頷いた。


「私、美味しい中華料理なんて食べたくなかった!あんな綺麗なブレスレットもいらないし、何も買ってもらわなくたって良かった…ただ昔と変わらない大ちゃんのまま、私に笑っていて欲しかっただけなのに…っ!」


 やがて、明里は泣き出してしまった。


「分かった…」


 大護は立ち上がると、明里の腕を掴んで無理矢理引っ張った。


「え…っ、な…っ、何っ?」


 引きずられるようにして、明里はベッドの上に突き飛ばされた。


「だっ、大、ちゃ…んっ!」


 大護は明里に覆い被さり、無理矢理キスをした。


「ん…っ…んーっ!」


 明里は、涙を流して抵抗する。


 大護は明里の腕を押さえ、自分が結んでいたネクタイを外すと、それで縛り付けた。


「人間ってのはな、嫌でも大人になんだよ…言っただろ?もう、あの頃の俺達じゃないって。いつまでも、ガキみたいな事言ってんじゃねぇよ!」


「だっ、大、ちゃ…ん…っ?」


 明里の表情は、恐怖に満ちていた。


 大護は、明里の襟元に手をかけた。


「どれだけ大人になったか、確かめてみようか?」


 大護は、明里の洋服を思い切り破った。


 明里の白い柔肌と、胸のふくらみが露になる。


「や、やめて…っ」


 明里は、再び泣き出した。


「黙れ!」


 あの頃の大護は、もう何処にもいなかった。


「嫌…っ……嫌ぁぁーっっっ!!!!!」

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