皇女の贈り物
一番古い記憶は君と出会った時のことだ。
四歳の誕生日。
皇女である母は僕のために生まれたばかりの一匹の魔物をプレゼントした。
「この魔物はね、黒狼というの」
青黒い毛皮に包まれた子犬。
僕の印象はまだそんなもので、その可愛らしさに惹かれて頭を撫でていると母が言った。
「ごらんなさい。この子の爪と牙を。今はまだ幼いけれど、成長すれば人間を苦も無く殺すの」
言葉を聞いて怖くなり、僕は思わず離れてしまう。
するとその魔物は不思議な顔をして僕の方へとやってきて体を擦りつけてくる。
「気をつけなさい。この子の頭は人間の脳にも匹敵するの。あなたがこの子を愛すればこの子もまたあなたを愛してくれるでしょう。しかし、あなたがこの子を疎めばこの子もあなたを疎むでしょう」
ぐりぐりと頭を押し付けてくる黒狼の頭を僕は震えた指で撫でながら母へ問う。
「どうすればいいの?」
「それを考えるのはあなたよ」
母はそう言って笑った。
そう。
これが、僕の持っている一番古い記憶だった。
一番はっきりと覚えている記憶はあの日のことだ。
僕が生まれた頃から既に不安定だった帝国の情勢は、僕が七歳になったその日に起きたクーデターで遂に終わりを迎えた。
僕と母そして黒狼は必死に宮殿を逃げていたけれど、敵兵の声はどんどん迫って来ていた。
そんな最中、母は立ち止まる。
「ごめんなさい。もうあなたと一緒には行かれない」
そう言って泣いている母の顔。
響き渡る怒声と悲鳴、そして転がる夥しい死者。
その中で母は僕と黒狼に向かって小さな声で魔法を唱えた。
空間魔法。
それに気づいた僕は「止めて!」と泣き叫ぶ。
しかし、母の詠唱は既に終わっていた。
「その子を大切にしてね。何があってもその子と二人で……」
その声が消えると共に僕はもう見知らぬ土地で黒狼と二人きりだった。
最早、全てが無駄だと気づいた僕の頬を黒狼が心配そうな声を出しながら身を擦りつけてくる。
この子なりの愛情なのだ。
そう理解した僕は泣きながら黒狼を抱きしめた。
一番幸せだったのは君と共に生きている日々のことだった。
幼かった僕はもう十八の歳を過ぎ、一人でも生きていける年齢だった。
いや、君と一緒なら生きていける、か。
「黒狼」
僕がそう呼べば君はいつでも隣にやってくる。
だから、僕は君と一緒に居る時に片時だって寂しさを感じたことはなかった。
君は既に馬よりも大きな体を持っていて、かつて母が僕に教えてくれたように人間を容易く殺すことが出来ただろうし、僕に対する反応を見れば君が人間に匹敵……いや、きっと人間と同じくらい頭が良いのだってわかった。
君の力を借りれば、きっと復讐することだって出来る。
けれど、僕はそんなこと望んでいなかった。
「行こう」
君と一緒に生きていけるなら、それだけで良かった。
きっと、君も僕の考えを知っていたのだろう。
だから、僕が呼べば君はすぐ隣に来てくれたんだろう。
「二人で生きていこう。これからも」
そう言って僕と君は十年以上も旅を続けた。
僕の最期の記憶はあまりにも凄惨なものだった。
帝国が消えようとも僕の身体に流れている血は紛れもなく皇のもの。
僕が存在しているだけで争いの火種は存在する。
故に僕は今も尚、僕を探し続けている輩に見つかった。
一緒になって必死に逃げていたけれど、もう逃げきれないと悟って僕は叫んだ。
「逃げて! 黒狼!」
君は必死にそれを拒もうとしたけれど、僕は母譲りの魔法を使って君を遠くへ飛ばした。
母のようにとても遠い場所には飛ばせなかったけれど、それでも僕の命が消えるまでには十分な時間だった。
僕はすぐに男達に捕まり、まず左腕を刎ねられた。
「悪く思うなよ」
悲鳴をどうにか抑えている僕を蹴飛ばし男はさらに言う。
「お前が女を抱く度にこっちはびくびくしなきゃならん」
吹き出る血を抑えていた右腕がさらに刎ねられる。
両腕がなくなり叫ぶ僕を見て男達は下品な笑いをする。
「いつ死ぬか賭けねえか?」
段々と意識が遠のいているのに、痛みだけが克明に分かる。
苦しい。
「おい。ちょっと待て。こいつ……」
そう言って近づいてきた男が僕の胸を強引に触った。
「おいおいおい……やっぱり、女じゃねえか」
「はぁ!? 男だって聞いたぞ?」
「ふざけんなよ。それなら……」
その後に続く言葉までは分からなかった。
もう僕の意識はなかったから。
けれど、きっとそれで良いのだろうと僕は何となしに理解していた。
目覚める前のことを僕はよく覚えている。
僕は気づけば花畑の中に転がっていた。
切断されたはずの両腕が確かに存在していた。
あまりにも奇妙で呆然としていると、向こうからよく知っている顔が駆けて来た。
「よく頑張ったね」
「母さん」
僕はそう言って思わず駆け寄り母の胸に飛び込んだ。
「小さな体でよく頑張ったね。本当に偉かったよ」
泣き続ける僕の頭を撫でながら母は言った。
「おかげで全部、ぜ~んぶ計画通りにいったよ」
「計画?」
奇妙な言葉に驚いて身を話すと母は不気味なほど穏やかな笑みをして言った。
「そう。あなたの黒狼がしっかりあなたに報いてくれたの」
「黒狼が?」
ぽかんとする私の前に窓を開けたような空間を一つ造り出した。
そこには本来の青黒い毛皮を真っ赤に染めて国を破壊する恐ろしい魔物と化した君が居た。
「言ったでしょう? あの子の爪と牙は人間をあっさりと殺すと」
見慣れぬ姿の君を見て呆然とする僕に対して母は言葉を紡ぐ。
「言ったでしょう? あの子の脳は人間にも匹敵すると」
母の笑顔が恐ろしかった。
「だから、あの子は愛するあなたを殺した国に復讐しているの」
そこまで聞いて僕はようやく悟る。
まさか……。
「全部。全部このため。一か八かの賭けだったけれど。いえ、ダメ元の賭け……いや、もしかしたら賭けにもなっていなかったのだけれど、それでも、あの子はよくやってくれたわ。勿論、あなたもね」
「それじゃあ、黒狼はそのために……?」
「もちろん。そうでなければ、何であんな化け物を大切なあなたに贈るの?」
強い、強い嫌悪感を覚えた。
いや、もっと酷い。
半ば恐怖にも近い感情だった。
母は。
この人は。
私が苦しんで死ぬことも、それによって黒狼が復讐することも全て想定していたのだ。
「苦しかったでしょう? けれど、安心して。ここはもう天の国だから」
そう言って私を抱きしめようとする母を。
私は。
悲鳴をあげて拒絶していた。
ふと目が覚める。
花畑ではない。
藁で出来た簡易なベッドの上だった。
息苦しい。
そう思いながら右腕で目を擦る。
そこで気づく。
腕がある。
どちらも。
しかし、どちらの腕も青白く、そして見るも痛々しい継ぎ接ぎがあった。
魔法か、あるいは技術か。
いずれにせよ、無理矢理取り付けたのだろう。
混乱したまま半身を起こすと、視線の先にはテーブルとこちらを背にして座っている青年の姿があった。
「黒狼?」
何故か、奇妙な確信を持ったまま僕はそう呼びかけていた。
振り返った青年の髪の毛は青黒い。
考えてみれば接点などそれくらいしかないのに。
「目覚めた?」
「これは一体?」
素直な問いかけに青年は視線を逸らして吐き捨てるように言った。
「あのまま死ぬのは哀れだと思ったんだ。だから」
「蘇らせてくれたの?」
間抜けな問いだと思った。
事実、死んだはずの僕はこうして生きている。
それを思えば何が現実であるのかなんて、こんなにもはっきりしているのに。
「あんたがあの女狐の思い通りになるのは哀れだったから」
「母さんのこと?」
僕の問いに青年は答えなかった。
だが、それ故に青年が……君が始めから全てを知っていたのだと僕は分かった。
「そっか。人間並みの頭を持つんだよね」
「人間以上だ」
そう言って苛立つ君に対して僕は笑った。
「そう。そうだね。僕は母さんの企みなんて全然わからなかったもん」
「本当に間抜けだな。あんたは」
「酷い言いぐさだ」
そう言ってベッドの方へ足を下ろそうとした途端、僕はそのまま態体勢を崩してベッドから滑り落ちそうになってしまう。
「馬鹿!」
そう叫ぶと同時にこっちへ駆け寄ろうとした君は椅子に足を引っかけて転び、対して僕はなんとかベッドから落ちずに済んだ。
「黒狼。君の方がよっぽど馬鹿みたいじゃないか」
「うるさい。この体にまだ慣れていないんだ」
「そう言えば君、どうしてそんな姿に?」
僕が問うと君は舌打ちをして僕の隣に座る。
「あの姿では人間の言葉は分かっても人間の声は出せん」
「魔法の詠唱が出来なかったってこと?」
「あぁ」
近づいて来たくせに頭を擦りつけもせずそっぽを向く君が愛おしくて僕は思わず君の頭を引き寄せて抱きしめる。
嫌がるかと思ったけれど、君は意外にもされるがままだった。
奇妙な光景だった。
それでも心は穏やかだった。
「それで僕はこれからどうすればいい?」
問いかける声に君はぶっきらぼうに答える。
「二人で生きていこう。そう、あんたは言っていただろう?」
「なるほど。一度死んじゃったけれど、構わないかい?」
「そのために蘇らせたんだ」
君は僕の胸の中で頷き、そっと離れる。
僕の胸中では多くの想いが去来していた。
その中には母のことも、僕を失った君が成したことも、そしてこうして蘇った事に対するものもあった。
けれど、今は。
「ありがとう。黒狼」
素直な気持ちを君に告げるばかりだった。
そんな私の言葉に君は首を振って告げる。
「それは種族名だ」
「種族名?」
「あんたは自分が『人間』なんて呼ばれて嬉しいか?」
「ちょっと嬉しくないな」
僕がそう言うと君は「だろう?」と頷いて言った。
「名前が欲しい。あんたがつけた名前がな」
「そんなこと言われても……」
「俺はあんたを復活させるためにとても苦労したんだぞ? それでも何もないって言うのか? 皇女様」
まくしたてるようにして言った君の言葉がどこか心地良い。
つんけんとした態度が全て照れ隠しなのだと今になりようやく分かった。
「変なものでもいい?」
僕の問いに君は頷いた。
そこで僕はにこりと笑って君に名前を贈った。
名前としてはおかしいかもしれないけれど。
それでも僕からすればこれ以上のものはありえない。
「滅茶苦茶な名前だな」
君の言葉に僕は心から同意をする。
「けど、良いじゃない。僕からすればそれがぴったりなんだから」
そう言って僕は君の名前を呼んだ。
もう滅びてしまった僕の国で使われていた言語で『最愛』を意味する言葉を。




