【0】プロローグ
辺境の地モルシェル。
この地を治めるラングラム伯爵は、藁にも縋る思いでこの国一番の長寿で物知りと噂される老婆の元を訪れていた。
「私がこの地に赴いて数ヶ月。まともに雨が降らないため、王国に納める為の穀物も十分に育たず、民達も飢えで苦しんでいる。このままだとこの国を維持していくことは難しい……」
伯爵は苦悩するように額に手を伸ばすと、きっちりと整えられた自身の髪の毛をくしゃりと握り潰した。
老婆はそんな伯爵に視線を向けるでもなく、伯爵の話に興味が無さそうに、中央に炙られた鍋の中身を木の匙でくるくると掻き回していた。
自身の苦悩する姿を見せても反応のない老婆に、焦れた伯爵はずいと身を乗り出すと性急に本題に移った。
「昔もこの地はこのように干ばつに苦しんだ時期があったと聞く。その時に、この地のどこかに祀られている龍神なる土地神の力を借りて雨を降らせたという言い伝えを耳にした。しかし、それは遥か昔の話で今はもう誰に聞いてもその土地神の祀られている場所を知るものはいない。そこでこの国一番の長寿で物知りというそなたなら、何か龍神についての話が聞けるのではないかと遥々足を運んだというわけだ」
伯爵の話に鍋を回していた老婆の手がピタリと止まる。
そして、ようやく老婆の視線が鍋から伯爵へと向けられ、伯爵は老婆に期待の眼差しを向けた。
「……やめとけ」
しかし、伯爵の期待とは裏腹に老婆は絶望的な一言を告げると、少し間を置いた後重い口を開いた。
「あいつはお前の手に負える相手ではない。下手をしたらお前の身や、この国を滅ぼすことになりかねん」
老婆の言葉に伯爵は食い付いた。
「あいつとは土地神のことか? 何故そのようなことを言う? やはりそなたは土地神について何か知っているのだな。私の身やこの国を滅ぼすとはどういうことだ? 」
矢継ぎ早に質問してくる伯爵に、些かうんざりした様子の老婆は面倒臭そうに大きな溜め息をついた。
「……確かにこの国はかつて龍神様が祀られていた。じゃが大分性格に難のある神でな。やつは気分次第でどうとでも動く。あいつの機嫌取りに散々振り回された挙げ句、ようやく雨を降らせて貰えたと思ったらどんどん調子に乗りおるし。やつの要求に際限がなくなり、その内段々と人々も愛想を尽かし始め、最終的にはやつの存在はこの地から忘れられていったのじゃ」
「それでは、今この地に雨が降らないのはその龍神様の祟りなのでは……」
「それはない」
祟りを懸念した伯爵の言葉を老婆はきっぱりと否定した。
「人々から忘れられ信仰されなくなった土地神はやがて神力も衰える。遥か昔に愛想を尽かされたあやつに今はそんな力などあるわけもない。だから|お願いしても無駄だから《・・・・・・・・・・・》『やめとけ』と最初に言ったのじゃ」
「そんな……」
ギラリと光る老婆の鋭い視線に伯爵は絶望的な気持ちでがっくりと項垂れた。
「この国を救う唯一の希望だと思ったのに……」
(面倒臭いのぉ…。このままだと鍋が焦げてしまうわ)
目の前で肩を落とす伯爵をそろそろ鬱陶しく感じた老婆は早くこの場から立ち去って欲しくて、仕方ないなと言わんばかりに僅かな希望の種を伯爵へと与えることにした。
「…ドルガの谷」
「えっ?」
「この国にそう呼ばれる谷がある。そして、その谷の泉の畔にかつてやつが祀られていた祠がある。まあ、やつの存在と共に今や人々から忘れられ誰も足を踏み入れない場所となっておるからそこに辿り着けるかは分からんがな」
「お、おお…。ありがたい」
伯爵はようやく欲しかった情報を手に入れた嬉しさに、すくっと勢いよくその場から立ち上がると老婆の思惑通り、居ても立っても居られない様子で家から飛び出した。
「忘れるでないぞ。やつは毒にもなる神だと言うことを。やつが無茶苦茶な要求をしてきたら決して耳を貸してはならんぞ」
目的地へと一目散に駆け出した伯爵に、老婆の言葉は最早届いていないのであった。