233.水底にのこした記憶
「砂漠にしてもここにしても、貴方達は地表の下に生活基盤を築くのが上手いですね」
完成した施設内から窓の外、優雅に泳ぐ魚の姿を眺めながら僕は言う。
「褒められて悪い気はしませんけどね。……あくまで必要に迫られてそうしてるだけで、誰も好きこのんで日の当たらん場所に住みたいとは思いませんよ。まあ中にはそういう物好きも居るかもしれませんが、少なくとも俺は違う」
白衣を着たひげ面の男性が眉間にしわを寄せながら囁くような声音で答えた。
「これは失礼、失言をしてしまったようです」
「……良いんですよ、ナティオ様は十分我々の事を理解しようとしてくださっている。あの人達とは違ってね」
弱々しく微笑んだ男性の横顔を見て、僕——オーダーナティオ——は胸が締め付けられる思いがした。彼らの助けになりたい。けれども一方で、彼らに仇なす相手が他でもない自分の同族である事が、より一層心の痛みを強める原因でもあった。
オーダーナティオの胸中が手に取るように分かる事に僕は驚いた。取り戻した記憶の量が増えるにつれて、彼と同化していく、という設定なのかもしれない。
「そうだ、今日はちょっとしたプレゼントを持ってきました。きっとこの子は貴方がたの良き隣人となるでしょう」
そう言って僕が差し出したのは、小さな水槽に入った一匹のタコだった。両の手の平に丁度乗るくらいの大きさだろうか。
「……タコ、ですか?」渡された男性もやや困惑した面持ちでタコを見つめながら問いかけてくる。それはそうだ、僕だって「良き隣人になる」と言われてタコを渡されたら、意図が掴めないと思う。むしろ渡した本人を心配するかもしれない。
「ええ。この子には私の力の一部を渡しました。一見して普通のタコに見えますが、そのうち立派な守護者としてこの施設を守り抜いてくれる事でしょう。力を渡した影響で、意思の疎通も可能ですから話しかけてあげてください」
「なるほど、そういう事ですか。ありがたいですが、本当に良いんですか? 力の一部、なんですよね」
「構いませんよ。……私の身体は一つしかありません。貴方がたが危機に陥ったとしても間に合わないかもしれない。だったら私の力を受け継ぐ者を最初から置いておいた方が安全です。……この施設と貴方がたにはそれだけの価値がある。同胞が砂漠の研究所の為にその身を賭したのと同じ理由です」
「そこまで我々の事を考えてくださるなんて、本当に優しいお方ですね」
「……いいえ、私は……。本当に優しい者は、たとえ差し違えてでも同胞を止めるでしょう。私は私の身が可愛い。だからこれは、そんな崇高な気持ちではないのですよ」
「それでも俺は感謝していますよ。やらない善よりやる偽善ってね。この生存戦争に生き残る事が出来たら、子孫に貴方の事を語り継ぎましょう」
その言葉を最後に視界は暗転し、次に戻った視界はなんとなく霞みがかかったような、ぼんやりとした状態だった。目の前には男性が居る。
「……お前もだいぶ大きくなったなあ。ここじゃ狭いだろ、もっと大きいところに移してやりたいがあいにくと、ここは湖だしなあ……、良い方法を考えるからもう少しだけそこで我慢してくれるか」
その声で自分がタコになっている事に気が付いた。そうか、これはインクシアの記憶か。力の一部を分け与えた存在だから記憶を覗く事が出来ているのかもしれない。
オーダーナティオは守護者としてインクシアを預けたはずだけど、見た限り、ここは施設内の水槽の中。彼らは愛玩動物としてインクシアを扱っているようだ。
一瞬暗転を挟み、再び現れたのは前回と同じ男性と、もう一人女性だった。
「……それでな、インクシア。この薬を飲むとお前の体質が変わって……簡単に言えば海水だけじゃなくて淡水にも対応出来る身体になるんだ。この施設は湖の中、つまり周りは淡水だ。いつまでも狭い水槽の中じゃ辛いだろうと思って薬を開発してみたんだ、どうだ? 飲むか?」
視界が揺れる。インクシアが何度も首を縦に振っているようだ。なるほど、だから湖の中にタコが居た訳か……。
次の場面では、人との距離が若干離れていた。どうやら施設の外、湖へと上手く馴染んだあとのようだ。
「へへ、インクシアは今日も楽しそうに泳いでるなあ、頑張って研究した甲斐があったってもんだ」
「そうだね、確かに楽しそうだ。おや、もしかしてあの触手……挨拶のつもりかな?」
例の二人がそう言って手を振り替えしてくれている。その様子に、僕の心がふわふわするのと同時に、僕の心はぞわぞわした。インクシアは、長い年月が経った今もただ自分の使命を全うしていただけなのだ。それを僕は……。
最後の場面は視界が非常に悪かった。次々と飛んでくる飛来物を見るに、インクシアは目を怪我してしまったのかもしれない。視界内には誰も居らず、代わりに背後から怒鳴り声が聞こえてきていた。
「インクシア! もう良い! もう無理だ……! この施設は放棄する事になった! 直に俺達も撤収する! 誰も居ない空っぽの建物になるんだ、分かるか? もうここを守る必要はない! お前はもう自由だ! 本当は連れて行ってやりたいが、お前は大きくなりすぎた。……それに俺達だって明日をも知れない状態だ。だから、……、だからここでお別れだ、本当にすまない。せめて怪我をしないように、湖底に隠れてやり過ごしてくれ。お前が無理をするのは見ていられない」
声はもう聞こえなかった。それでも僕はがむしゃらに飛来物を触手で叩き落としていた。もしかしたらそれは意地だったのかもしれない。或いは、願掛けだったのかもしれない。いつか、皆とまた出会えるように。この施設さえ無事であれば、会いに来てくれるんじゃないかとそう期待を込めて。