172.散歩
「蓮華くん、ちょっと散歩しに行きましょう。コンビニの新商品が気になるからついてきてほしいの」
「あ、うん、勿論」
朝食後、食器を下げているタイミングでヴィオラに声をかけられ、半ば引っ張られる形でそのままマンションを出た。ちなみに千里さんとジャックさんは食器洗いを引き受けてくれたので留守番だ。洋士は食べ終わってすぐに自室に戻ってしまったのでなにをしているのかは分からない。
「新商品の話は嘘よ。ごめんなさい、貴方を外に連れ出す為の口実だったの。正直食事中の空気が悪いからどうにかしてほしいって言いたくて。……貴方と洋士くん、まだ気まずいままなの?」
「そう見える?」
「千里ちゃんもジャックくんも気付いてるわよ。それで? 蓮華くんは洋士くんがなんで怒ってるのか分かったの?」
どうやらヴィオラは先日の昼食時に僕の発言で洋士が怒って自室にこもったときの事が続いていると思っているようだ。まあ内容的には間違っていない。あのときも、今日の夜中も、洋士は僕と一緒にこのまま暮らしたがっているのだから。
洋士に言えない事をヴィオラに言える訳がない。でも心配してくれている彼女に対して「ヴィオラには関係ない事だから」と突っぱねる事はしたくない。どう話すべきか。そう思うと、上手く言葉が出てこなかった。
宣言通りヴィオラはコンビニを素通りして、いつぞやの喫茶店への道を先導し始めた。どうやら最初から喫茶店で話をするつもりだったようだ。
前回同様落ち着いた雰囲気の店へと入ると一番奥の席へと案内された。ここのソファに深く沈み込むと、なんとなく気持ちがほぐれる。今なら上手く相談出来る気がした。
飲み物とケーキのセットを注文してからも根掘り葉掘り聞くような事はせず、全く関係無い軽い雑談を振ってくれるヴィオラ。本当に、なにからなにまで気を遣わせてしまっている。全ての商品がテーブルへと並ぶときには、あれだけ悩んでいた伝え方もすんなりと頭に浮かんできた。
「……洋士は僕とこのまま暮らしたがっている。今日の夜中にも直接はっきり言われたんだ。でも僕は、考えさせてほしいと言った。その言葉には『考える』んじゃなくて、『一緒には暮らさない』という意味が込められている事に洋士は気付いてる。だから怒ってる……というより悲しんでるんだと思う」
「どうして一緒に暮らさないの? 遠慮? それとも蓮華くんにとってここの居心地が悪いから?」
「本当言うと、はっきりと言われる前から洋士の気持ちには気付いていたんだ。ただずっと、自分自身に言い聞かせて気付かない振りをしていた。洋士の気持ちは素直に嬉しい。別にここの居心地が悪いなんて事もない。まあちょっと緑が足りないとは思うけど。ただ、僕は洋士に対してずっと言えてない事がある。だから一緒には暮らせない。僕は洋士に相応しくないんだ。でも僕は卑怯だから、その事を洋士に伝えれば、彼の方が僕に失望して離れていくと分かっていて黙ってる……」
「つまり……蓮華くんの本心は一緒に暮らしたいのね。でも隠し事がある罪悪感で一緒に居られないと思っている。そしてその隠し事は洋士くんに関係するなにかで、バレれば嫌われると思っている、と。ずっと気になってる事があって……気を悪くしないでほしいんだけど。貴方と洋士くんって、本当に親子?って位お互いの愛が重いのよね。最初は恋人同士って言った方がしっくりくると思った位。でも、今はそれもなんとなく違うかなって。愛というより執着なんじゃないかなって……」
ヴィオラの言葉に、僕は妙に納得してしまった。僕が洋士を避け続けて数百年経っている。でも、洋士は単純に僕に育てられた事に恩を感じてそれを返そうとしていただけなのかも。その度に僕が、恩を返してもらうような人間ではないと思ってのらりくらりと避け続けた物だからこじれてしまった。今思えば、開き直ってさっさとその分だけ対価を受け取っていればとっくに縁は薄くなっていたのかもしれない。洋士は完璧主義の節があるから、未だに恩返しが出来ていない事に業を煮やし執着し続けているだけというのは十分にあり得る。
「うーん……私は第三者だから、当事者からしてみたらとても勇気が必要な事を今から簡単に言うわよ。相応しい相応しくないは、蓮華くんじゃなくて洋士くんが決める事よ。だから蓮華くんは……隠し事の内容を、洋士くんにちゃんと伝えた方が良いと思う。それで洋士くんが蓮華くんを責めるなり、恨むなりするとしたら、彼の、貴方への愛情はそれまでだったって事。彼が貴方を家族に相応しくないと考えたという事よ。それにね、一旦物理的に離れて冷静になった方が歪に歪んでしまったその感情を、解きほぐす事が出来るんじゃないかしら。今まで……ずっと蓮華くんは、洋士くんと距離をとる為に田舎で一人暮らしをしていたんでしょう? でも、隠し事を打ち明けている訳じゃないから、お互い感情を整理する事は出来ていない。むしろ洋士くんの気持ちは、余計に煮詰まって面倒な事になっている。だから離れるにしても、次はちゃんと全てを明るみにしてから離れるべきだと思うの」
確信を伝える事が出来ないのでこんな抽象的な話し方しか出来なかったにもかかわらず、ヴィオラはしっかりと理解した上で親身になって考えてくれている。彼女も「隠し事」の内容を知れば失望するだろう。それなのに僕の立場になって考えてくれているのが、騙しているようでどうにも居心地が悪い。でも僕と洋士の関係に新しい風を吹き込んでくれそうな気がして、今は耳を傾ける事で精一杯だ。
僕が熱心に頷いていると、急にヴィオラは少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「偉そうな事を言ってみたけれど、私も家族との縁は薄い人生を送ってきたからあまり参考にならないと思うわ。それでも、第三者だからこそ客観的な視点で見られる事もある。貴方達は随分と長い間当事者だから、視野が狭くなりすぎなのよ多分。……今すぐに話せとは言わないわ、私達のような者にとって、時間に限りがあるとは限らないから。それにもしかしたら二度と修復出来ないレベルでこじれてしまう可能性もある。だから何年もかけて悩んでみるのも一つの手よ。……私が言えるのはこれ位かしら? とりあえず食べましょう。悩むにしたって糖分は大事よ」
今の僕にとっては、甘い物よりもヴィオラのいたわるような柔らかい声音がなにより必要な栄養分だったけれど、それは口には出さず代わりにケーキを口の中へと放り込んだ。うん、美味しい。
そのあとは他愛のない話をした。すっかり冷め切った最後の一杯を飲み干してから、店主に頭を下げて店を出た。この喫茶店に入るときはいつも面倒毎を抱えている気がして、純粋に商品を味わえていない謝罪の意味も込めてだ。
「さて……このあとは? 家に帰ってゲーム?」
「そうね、その方が良いんじゃないかしら。貴方の顔色、ひどいもの。夜中から今までずっと悩んでたんじゃない? こういうとき、なにもかも忘れて寝てしまえないのは不便よね。ならせめて、目的が分かりきっているゲームに没頭してしまった方が気楽よ。……あと最後にこれだけは言わせて。もしも洋士くんに全てを話すと決めたら、私にもその内容を教えてもらえないかしら。彼が貴方との決別を選んだとしたら、私はきっとその判断をあざ笑ってあげるわ。例えどんな内容だったとしても、貴方が洋士くんに害を為そうとして行った事だとは思えないから。だからなにがあっても私は貴方の味方よ、それだけは忘れないで」
怪しまれないように帰りにコンビニで適当に今週の新作デザートを購入し、あとは会話らしい会話もせずにそれぞれの家に戻った。ヴィオラの最後の言葉が頭から離れなかった。本当に全てを話しても、彼女はああやって笑ってくれるのだろうか……。
家に戻ると、考えるなと言われてもどうしても洋士の事を考えてしまう。僕と違って人間の料理全般を不味いと感じる洋士は、僕との関係が微妙な今、律儀に朝食に顔を出す必要はなかった筈。それなのに朝食の席に顔を出し、皆と同じ物を食べてから自室にこもるのだ。正直な話、それが不思議でならない。
本当はリビングを使いたいだろうに、僕が居るから自室に引きこもって……。ただの執着だったとして、どうしてそこまでして僕に恩を返そうと思うのだろう。洋士は元々昔から人付き合いを一切好まない性格をしている。それこそ僕の事だって口座番号を調べるなんて洋士の力があれば朝飯前だっただろうし、金だけ振り込んで関係を終わらせる事も出来た筈なのに、自分から面倒事に首を突っ込むなんて珍しい。
彼の肉親を殺してでも守りたかった関係の筈なのに、いつの間にこんなにすれ違ってしまったのだろうか。悔やんでも悔やみきれない今のこの現状から逃げるように、僕はコクーンの中へと身体を滑り込ませた。