168.あーあ
ホワイトブレイズキャッスルからアイシクルピークまでは五分の三、およそ百五十キロメートルほどの距離が残っている。
氷華亭での食事を終えてスノウラビットをレンタルした僕達は再び城壁の外、極寒の世界へと旅立つ事にした。とはいえフロストウルフケープ、ヒートコア、恐ろしいほど高いテントという三種の神器を手に入れた今、来たときより気分は軽い。やっぱりお金の力は偉大なようです。
そうそう、すっかり忘れていたけれど出発直前にヴィオラに教わって倉庫の開放を行いました。とりあえず一列だけ。この一列は、テイム予定の氷狼専用食料庫にするつもり。食べる物を肉と仮定して、ひとまず調達は道中で行う予定で考えている。
さて。意気揚々と出発したは良いけれど先ほどから微塵も進んでいない。覚悟していたとはいえ、スノウラビットを乗りこなすのが想像以上に難しく、何度も叩き落とされているからだ。落馬と同様の衝撃なので、正直な話ゲームじゃなければ何回かに一度は首の骨を折って死んでいる気がする。
「これは思ったよりも時間がかかりそうだなあ……」
「まあ、でも慣れたら馬よりも早いんじゃないかしら? なにせ……このサイズだもの」
スノウラビットの首元を撫でながら言うヴィオラ。そう、ギルドで話を聞いたときは、ウサギに乗れるのか?と心配していたのだけど、実際にこの目で見たスノウラビットは想像の何倍も大きく、見上げるほどの体高だった。跳躍距離は言わずもがな、だ。
現実のウサギの特性からいけば瞬発力と跳躍力こそあり、短距離での移動には優れるものの長距離の移動は向かないように思える。けれど騎乗動物を扱う店の店主が「アイシクルピークまでの距離でも問題ない」と太鼓判を押してくれたので、そこはファンタジー特有なのだろう。
それにしてもあと百五十キロメートルとは……現実で三日近くかかるのではないだろうか。なるべくテレポートスクロールのような高価なアイテムは節約したい所だけど、今後またアイシクルピークに行く際は使用せざるを得ないだろうなあ、時間の方が勿体ないし。
「あ、そうだ、興味深い情報を仕入れたのよ! 蓮華君に教えようと思ってすっかり忘れてたわ。……あのね、氷狼にはボスが居るみたい。通常の個体は普通の動物の狼を従えているけど、ボス氷狼は氷狼達を従えてるんだって。だから通常の氷狼より強いらしいの。どうせテイムするならボスを狙ってみれば良いんじゃない、蓮華くん?」
「ボス……ボスかあ。確かにテイム出来るならしてみたいけれど、ボスって聞いたらヤテカルとかスパイピオンとか……なかなか苦労した記憶ばかりなんだけど。テイムするなら圧倒的な強さを見せつけて倒さないといけないだろうし、僕一人の力でとなるとちょっと厳しいんじゃないかなあ」
「ボス氷狼の思考次第でしょうけど、別に蓮華くん一人で退治する必要はないんじゃない? どちらかというと、ボス系はテイム出来ないようにシステム側で制限がかかってるかの方が重要よね」
「あー、そういう可能性もあるのか。まあじゃあ、積極的には探さないけど見つけたら試してみるって事で。ところで、ヴィオラも氷狼をテイムするって言ってなかった? ボスはヴィオラが試してみれば良いのに」
僕の言葉を待ってましたと言わんばかりにヴィオラは極上の笑顔を浮かべた。
「ううん、私はやめとくわ、もっと気になる情報を入手したから。グラシアルムースという魔獣を探してみようと思って」
「ぐらしあるむーす? ……美味しそうな名前……なんて冗談だけど。Glacial Moose……氷河の鹿? 鹿をテイムするの?」
「ええ、なんでもアイシクルピークにしか生息していない、とても美しい鹿なんですって。流れるような銀色の毛と立派な角を持っている……らしいわ。目撃情報が殆どないから、実在しているのかどうかすら分からないんだけど。古くから伝わる『グラシアルムースの物だろう角』はホワイトブレイズキャッスルで見て来たから鹿が居るのは確かみたい」
「なるほど、銀色の……それはとってもヴイオラとお似合いの鹿だろうね。でも、情報が少ないって事はテイム条件も一切分からない?」
「そうね。子供向けの絵本とかの中には『綺麗な物を好む』って書いてあったけど。本人がそこまで美しいなら、きっと求める美しさのハードルもエベレスト級よねー、どうしようかしら」
≪ヴィオラ嬢の姿で一発KOだとは思うが≫
≪美しさを求める鹿とか嫌だわ……≫
≪気位が高そうw≫
まあ正直僕もヴィオラの見た目であれば鹿さんも惚れると思うけど、それを口にするのは視聴者の反応が怖いからやめておこう……。
十キロ程度進んだ辺りでお昼休憩の為ログアウトする事に。とはいえ、ここに来て突然天候が大荒れに荒れたせいで、なにも見えない状態。戻って来たときに進行方向が分からなくなるのでは?と思った僕は、目印をつける事を提案したのだが。
「うーん、まあ、マップを見れば進行方向は分かるから、多分大丈夫じゃないかしら……?」
「あっ」
そうか。そうだよ。ゲームだった。普段普通にマップを見ながら進捗を確認するのに、吹雪いた途端にマップの存在を忘れるなんて我ながら恥ずかしすぎる。
≪天然ありがとう≫
≪視界が悪いから目印をってすぐに思う決断力?経験力?の高さよ≫
≪分かる、このゲームあまりにもリアルすぎて時々現実的な判断しがち≫
「そ、それじゃあまた一時間後に集合って事で!」
なんとなく生暖かい空気のヴィオラと視聴者さんの反応がいたたまれなくて、僕は逃げるようにGoWをあとにした。
§-§-§
「という訳で、今日のお昼は鍋焼きうどんです」
「どういう訳かは全然分からないですが、美味しそうなのです!」
「鍋焼きうどん……熱いのは苦手だと何度も言っているのに」
「ジャックはわがまま言いすぎなのです! 熱いのを食べたら溶けて消えるならともかく全然平気なの知ってるですよ!」
「ふふ、猫舌なら少しだけ氷を入れてぬるくしちゃえば良いじゃない? 冷めるまで待ってたら、せっかくのうどんが伸びちゃうわよ」
「だ、誰が猫舌だ!」
「ったくうるさいな。お前達は静かに食事をする事も出来ないのか?」
「いやあ、二日続けて洋食フルコースだったから、和食が恋しくなっちゃって。といっても昨日だって夕飯は和食だったんだけどさ」
五人も集まれば一気に騒がしくなる。うるさいと言いつつ、家主の洋士も実はまんざらではない顔をしているし、僕も食べてくれる人が居る方が作りがいがあるので嬉しい。
全員が席についたのを確認し、声を揃えて「いただきます」を言う。これもちょっと前の僕からすれば信じられない光景だ。
「あ、そうだ、蓮華くん。今度サイン会をするんですって?」
「ん、そうそう。それで今、サイン会に合わせて出す新刊……といっても単行本を文庫サイズにして出し直すから完全新作ではないんだけど。それの巻末に収録する、別シリーズの短編を書いてほしいって言われてる」
「あら、じゃあしばらくは日中帯も仕事をするの?」
「いや、今まで通り夜中だけで事足りると思うよ。四週間後……二月二十五日までに三千から五千文字書けば良いだけだから」
「ふうん……私も昔、創作活動に憧れてちょっと書いてみた事があるけど……三千文字どころか千文字すら書けなかったわよ。やっぱりプロは違うわねえ」
「まあ何百年も作家をしてれば嫌でも慣れるよ。問題はどちらかというと、アイディアの方かなあ。なにか思いついても『どこかに似たような話があったな』ってなるんだよね。調べてみたら数百年前の自分の作品だった、なんて事もざらでさ。自分の作品だから厳密には盗作じゃないけど、別人を名乗っている以上世間的には盗作になるでしょ? だから線引きが難しくて」
本当、そういう意味では早く政府が公表してくれれば、過去の僕の作品も自分の作品だと立証出来て楽なんじゃないかなーとか思っていたり。まあそれ以上の問題がいくつも出てくるだろうけどね……。
「ああ、クリエイターはそういう問題もあるのね……私はずっとバイト暮らしだから、そういう悩みとは一切無縁で。ところで、サイン会は誰でも参加出来るものなの? ちょっと興味があるんだけど」
「えっとねー……そういえばその辺りの詳しい話は聞いてなかったな。どうなんだろう?」
言われてみれば、佐藤さんからはサイン会の日程と場所位しか聞いていない。何時に始まるのかすら確認していなかったな。
「書店の売り場に、サイン会対象の書籍が売っている。それを購入した人物だけが、特設フロアで開催中のサイン会への入場券を貰えるようになっている筈だ。サイン会自体は十三時から十四時半までの一時間半、場所はオフィス街の『綴じの庭』書店だな」
「あ、そうなんだ。……って詳しいね、洋士。それは出回ってる情報? それとも実は一枚噛んでたり?」
「噛んでると言えば噛んでるが、この情報自体は既に公開されている物だぞ」
ああ、やっぱり噛んではいるのか……一体この息子はどこまで事業を手広くやっているのだろう。聞きたいような、でも聞くのが怖いような。
「へー……ありがとう。ところで蓮華くんはそのままの顔でサイン会をするの? そんな事をしたら間違い無くバレると思うけど……」
「ん、それについては同意の上でサイン会の話を受けたから。ちゃんと篠原さん……前の担当さんがご丁寧に説明してくれたからね。『配信者で作家と分かれば、下心を持って近付く人が増える筈ですからそれも踏まえて考えてください』って。でも僕はそのうちまた田舎に戻る訳だから、バレても日常生活に支障が出る訳じゃないし。ゲーム内でなら人目もあるし、そこまでぐいぐい来る人は居ないでしょう?」
「その『ぐいぐい来る』例外が私だった訳よね……。まあリスクが分かってるなら別に良いのよ。でもまさか田舎に戻るつもりでいるなんて。てっきりずっとここで暮らすのかと思っていたんだけど?」
「え? いやいや、持ち家もあるし、ずっと息子に迷惑をかけるわけにもいかないし? コクーンの改造が終わって、原初の人々の問題も解決したら帰るつもりだよ。あ、でもその前にガンライズさんが、ナナと僕とヴィオラとの四人でオフ会をやりたいとは言ってたかな」
「オフ会! 楽しそうね。是非参加させてちょうだい」
ヴィオラが弾んだ声音で話している最中に、ガタンと大きな音を立てて立ち上がる洋士。
そのまま「部屋に戻る」と言い残して食器をおざなりに流し台へと置き、自室へと引きこもってしまった。なんだろう、急に不機嫌になったような……。
不思議に思いつつも話を続けようとヴィオラを見れば、まるで「あーあ」と言いたげな表情でこちらを見ている。え、僕に原因があるって事?