45:顔を剥ぐ(1)
弟の瞳に、長年彼を苦しめてきた色がないことに気づいたヨハネスは目を丸くした。
ジェレミーはそんな兄に対し、信じられないほどに軽く返す。
「ああ、なぜか変わってしまって。今から医務室に向かうところなんです」
「何故かって、何だよ……」
あまりにケロッとしているが、これは普通のことではない。ヨハネスはジェレミーの両頬を掴むと自分の方に引き寄せ、瞳を覗き込んだ。
一歩間違えば、先程のリリアンのキスが上書きされてしまいそうなほどの近さだ。ジェレミーは思わず半歩ほど下がる。
「近いです、兄上。これは色々と危ない距離感です」
「何か心当たりはあるのか?」
「……心当たりは、まあ、あります?」
曖昧な返事をしたジェレミーはちらりとリリアンの方を見た。
リリアンはキョトンと小首を傾げたが、そこから5秒ほど考えてハタと気が付いた。そして青い顔をして口元を押さえる。
「え、うそ。私?」
「100パーセントそうだとは言い切れないけど……。おそらくは」
「何?リリ……、ハイネ嬢が何かしたのか?」
「べ、別に大したことはしていないわ! なんというか、さっき痴話喧嘩をしたときに……ね?」
「ねー?」
リリアンはジェレミーと顔を見合わせて苦笑いを浮かべる。ヨハネスはその表情から彼女が何かをやらかした事を察した。
「ジェレミー。見えているのは確かだな?」
「むしろ以前より視界良好です」
「そうか、よかった。もしリリアンが痴話喧嘩の末にお前の視力を奪ったとあっては、流石に彼女を取り押さえねばならないからな」
「よ、よかったぁ……」
「いや、良くはないからな?ハイネ嬢。君は一体何をしたんだ?」
「何もしてません!」
「絶対に嘘だろ。白状するんだ」
「うう……」
「兄上、リリアンを責めないでください。ただ少し浄化されただけです。言うなればそう、リリアンは悪の呪いを解いてくれた天使なのです」
「……真顔で気持ちの悪いことを言うなよ。意味がわからん」
何がなんだか良くわからない説明に呆れ顔のヨハネスは、とりあえず医務室で診察を受け、父である皇帝に報告するようジェレミーに指示した。
そして念のため、誰かに医務室への同行を頼もうとヨハネスが後ろを振り向くと、ベルンハルトが真っ青な顔近づいてきてジェレミーの手を掴んだ。
「ジェレミー殿下!今すぐ医務室に参りましょう!自分がお連れします!」
「は!?」
「さあ、早く!」
「ちょ!痛い!離せ!」
異様に焦るベルンハルト。明らかに様子がおかしい。彼はジェレミーの手を強く引っ張り、強引に医務室へと連行しようとした。
リリアンは様子がおかしいベルンハルトを止めようと、彼の腕を掴んだ。
「ちょっと、ベルン!?何してるのよ!乱暴にしないで!」
「うるさいっ!」
「きゃっ!?」
ベルンハルトは見たことがないほど恐ろしい形相でリリアンの手を乱暴にを振り払い、彼女を突き飛ばした。
それを見たジェレミーは、自身の体内に流れる血液が一瞬で沸騰するのを感じた。
「離せ、シュナイダー卿。俺に触れるな。気分が悪い」
地を這うような低く重い声。怒気を含んでいるのがよくわかる。ダニエルは思わず体を強張らせた。
「おい、そこの衛兵。こいつを拘束しろ」
「え!?し、しかし……」
「こいつは未来の皇子妃を突き飛ばした。危険人物だ」
そう言って掴まれた手を振り解くと、ジェレミーはベルンハルトを思い切り蹴飛ばした。
後方数メートルは飛んだベルンハルトは、柱にぶつかり背中を強く打つ。
近くを巡回していただけの衛兵は彼が痛みで動けない隙に、命じられた通り拘束した。
「くっ……」
背中が痛むのか、ベルンハルトは体を丸くして苦しそうな声を漏らす。
ジェレミーはリリアンの手を引いて起こすと、彼女を後ろに隠した。
「俺の婚約者を突き飛ばすとは何事か」
「……も、申し訳ありません」
「なあ、何故そんなに焦る?俺の瞳の色が変わるとお前に何か不都合でもあるのか?」
「そうではありません。ただ殿下のことが心配で」
「嘘をつけ。お前が兄上をけしかけて俺とリリアンの仲を裂こうとしていたことはわかっている。どういうつもりだ?」
「な、何のことだか」
「とぼけても無駄だ。状況証拠しかないのが悔やまれるがら、それでもお前が何かを企んでいるのは明白だ。イライザの弟子だかなんだか知らんが、皇族侮辱罪でお前を現行犯逮捕する」
「なっ!?」
「俺の婚約者を雑に扱うことは俺を侮辱するのと同じことだ」
法の拡大解釈だと言われようが、ひとまずはこれでベルンハルトを拘束できる。牢屋に放り込めば尋問もできるし、彼が何を企んでいるのかを暴くことも容易いだろう。
ジェレミーは顎をクイッとあげ、牢に連れていくよう衛兵に命じた。しかし、
「も、申し訳ありませんがご同行願います。シュナイダー卿……」
「くそっ!」
「えっ……?」
衛兵がベルンハルトにかけようとした手枷は、衛兵の手首ごと宙を舞う。
彼は剣を抜いたのだ。
空を舞う手首と手枷。飛び散る血の赤と、衛兵の悲鳴。それに気を取られた一瞬のうちに、ベルンハルトは間合いを詰めた。
彼の大きな手がジェレミーの顔面を掴もうとするかのように近づいてくる。まるで全てがスローモーションのように、ゆっくり動いているように見える。
ジェレミーは咄嗟に動けなかった。
「きゃーっ!誰かー!」
「手が!血が!」
「に、逃げろ!」
「ジェレミー!危ない!」
野次馬の悲鳴でハッとするジェレミー。リリアンは咄嗟に彼の腕を後ろに引いて転ばせると、ベルンハルトに凝縮した浄化の魔力を打ち込んだ。
それは魔獣討伐の際、本来は後方支援の彼女が前線に配置された時に使う、彼女のオリジナルの技だ。
正式な術式というわけではなく、ただ魔力をぶつけるだけの物理攻撃で、相手が浄化の対象でない限りは石を投げつけられたくらいのダメージしか与えられない。
だが、何度か放ったその魔力が避けきれなかったベルンハルトの顔の右半分に直撃した。
そしてベルンハルトは、断末魔のような悲鳴共に顔を手で多い、蹲る。
「え、うそ……。命中?」
あのイライザの指導を受けたベルンハルトが石を投げつけられた程度で蹲るだろうか。一瞬そんな疑問が浮かんだが、リリアンは今がチャンスと言わんばかりに叫んだ。
「クライン卿!衛兵の彼を医務室へ!」
「は、はい!」
「ミュラー卿は手枷を!早く!」
「は、はい!」
ダニエルはすぐさま手枷を取り出した。そしてそれをベルンの手にかけようと、顔を覆う彼の手を剥がした。




