26:ジェレミーと母親(2)
リリアンは昔から、なぜあの場面で皆が皇后を守るのかが不思議で仕方がなかった。
皇帝もヨハネスも、ジェレミーを愛していると言うくせに、こうなってしまった時は必ず皇后の側に寄り、彼女を落ち着かせることを第一に考える。誰もジェレミーを見ない。
ジェレミーが何を言われても、どんな態度をとられても、泣かないから平気だと思っているのだろうか。
そんなわけないのに、そんなはずないのに。
どうして誰も彼の心を知ろうとしないのか。こんなの、到底納得できない。
「リリアン」
「……」
「リリアンってば」
「……」
「ねえ、リリー!」
自分の手を握りしめたまま先を進むリリアンに、ジェレミーは困惑気味に声をかけるが、彼女は振り返りも立ち止まりもしない。
仕方なく、ジェレミーは繋がれた手を後ろに強く引いた。するとリリアンは俯いたまま、ぴたりと足を止める。
「……リリアン?」
「……っ……ひっく……ううっ……」
リリアンの白磁の頬を伝い、ポタポタと流れ落ちる雫。
声を押し殺して涙を流す彼女にジェレミーは目を丸くした。
彼がこんな場面を経験したのは、これが初めてじゃない。自分を見て取り乱す母親の姿は幾度となく見てきた。
初めの方は傷ついていたのかもしれないが、今はもう何とも思わない。何も感じない。怒りも悲しみも寂しさも、何も。
それなのに……。
「……何で? 何でリリアンが泣いてるの?」
まるで、泣けないジェレミーの代わりに泣いているみたいだ。
そう思うとジェレミーの胸は高鳴った。
「もしかして、俺のために泣いてくれているの?」
「そんなんじゃないよ……。そんな恩着せがましいこと、思ってない」
「嬉しい。ありがとう、リリー」
「……だから違うってば」
ジェレミーは袖でリリアンの涙を拭うと、額にそっと口付けた。
そして、少しだけ頬を染め、本当に嬉しそうに笑う。
「リリアンが俺を思って泣いてくれる日が来るなんて、思わなかった」
「……私はいつでも泣きたかったわ」
昔から、リリアンが皇后に会うときは必ずジェレミーがいない。公式な場でも、初めから第二皇子などいないかのように、皆が振る舞う。
そんな異常なことがまかり通るたびに、リリアンは『こんなのおかしい』と叫びたかった。
でもそれは許されない。大人たちが許さなかった。
(こんなの、おかしい)
討伐でのあの時、ジェレミーが言った『お前に俺の気持ちがわかるのか』という言葉。
あれは彼の本心だ。自分の本当の気持ちを理解してほしいという彼の本心。
「ジェレミーはもっとワガママになって良いのよ。むしろそうなるべきだわ」
「ワガママになったから君を手に入れたんだ。俺はそれで十分だよ」
「そんなわけないわ。そんなわけ、ないのよ……」
溢れて止まらない涙を拭い、リリアンは強い眼差しをジェレミーに向けた。
「私、決めたわ」
「何を?」
「私は貴方を世界で一番幸せな男にする」
「今でも十分幸せだよ。リリアンが俺のために泣いてくれるのだから」
「いいえ。違うわ。貴方はもっと幸せになれる」
「リリアン……」
力強く言い切る彼女にジェレミーはたまらなくなってしまった。
だから自然と彼女の腰に手が伸びる。
「リリー……」
自分の容姿は嫌いなはずなのに、リリアンの潤んだ瞳に映る自分は少し好きになれる気がする。ジェレミーは彼女の美しい銀の髪に触れ、少し赤くなった頬に触れた。
そして細い腰を抱き寄せて唇を近づけ……
………たところで、声をかけられた。
声の主はキース・クライン。空気が読めない彼の側近だ。
笑顔で振り返ったジェレミーは、その表情とは裏腹に地を這うような低い声でキースの名を呼ぶ。
「キース・クライン」
「あ、あの、わざとじゃないって言うか……」
「なあ、キース・クライン。お前は愛しい人との時間を邪魔されても広い心で許せるタイプなのか? それは素晴らしい。俺も見習わなければならないな。いやぁ、本当に素晴らしい。尊敬するよ」
早口の嫌味で捲し立てられ、キースの額からは汗が滲み出る。
リリアンはそんな彼を庇うように、会話に割り込んだ。
「ジェレミー、クライン卿は恋人いたことないわよ?」
「ぐふっ! まさかの援護射撃!! このタイミングで天然を発揮しないでくださいよ、ハイネ嬢」
「事実を言っただけなのに、怒らないでよ」
「事実でも言って良いことと悪いことがあるのです! それよりハイネ嬢。そろそろお帰りの時間です」
「あら、もう?」
キースは睨みつけてくるジェレミーの視線を持っていた書類で防ぎつつ、リリアンに懐中時計の文字盤を見せた。
「侍女のシュナイダー夫人が西門でお待ちです」
「そう。じゃあジェレミー、私はもう帰るけど、その、大丈夫?」
「大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。無理。寂しい」
「あらまあ。どうしましょう」
「ちょっと殿下? 大丈夫じゃないのは僕の方なんですけど!? 仕事たまってるんですけど!? 新任の騎士のこととか、やる事山ほどあるんですけど!?」
「無理」
「無理じゃない! ワガママ言わないでください!」
「だってさっき、リリアンが『もっとワガママになって良いって言ってくれたもん」
「もん、じゃない! いい加減にしろよ、こら」
リリアンを抱きしめて離さないジェレミーは幼児のように駄々をこねた。
そんな彼が可愛く思えたのか、リリアンは彼の頬にチュッと口付ける。
「……………え?」
「また明日も来てあげるわ。それでいい?」
頬を押さえ、コクコクと頷くジェレミーにリリアンは悪戯っぽく笑った。
「じゃ、また明日ね」
「うん。また、明日……」
リリアンはそう約束すると、踵を返し、ケイトの待つ西門へと走った。
ジェレミーは遠くなる彼女の背中を眺め、小さくため息をこぼす。
「なあ、キース」
「はい、何でしょう」
「俺を世界一幸せにするって、それもう実質プロポーズだよな?」
「……そうっすね」
その後、呆れ顔のキースは目をキラキラと輝かせる主人の手を引いて、執務室に連行した。




