16:押してはいけないスイッチを押した(2)
リリアンが連れてこられたのは第二皇子妃の部屋だった。その部屋はジェレミーの部屋とは扉一つで行き来できるようになっており、室内にはすでにリリアンの荷物が置いてあった。
「ちょっと待って、ジェレミー。これはダメだよ」
「何がダメなんだ?」
「だって、まだ結婚もしていないのに、妃の部屋をあてがうなんて前例がない」
横抱きされたままのリリアンは顔面真っ青でジェレミーを見上げた。妃の部屋は本来、結婚式の日に妃となった令嬢が立ち入ることの許される部屋だ。ヨハネスの婚約者だった時だって宮に部屋は用意されていたが、あくまでもその部屋は客室で、妃の部屋ではなかった。
婚前にこんなことをしては、二人にそういう関係があると公言しているようなものだ。
「わ、私、この部屋使えないよ」
「どうして? どうせ結婚する仲なんだから、なんの問題もないだろ?」
「いやいやいや、あるよ! 問題しかないよ!」
「どの辺が?」
「婚前の、その……、アレは……。宗教的な観点からもアウトでしょ?」
「それは確かにそうだけど……。俺は結婚するまでは君に手を出す気はないぞ?」
「……え?」
「え、何? その反応。まさか、リリアンは俺と婚前交渉する気だったのか? 意外と積極的だな」
「ち、ちちちちちがーう!! そういうことを言ってるんじゃないの! 教会はいつもジェレミーを目の敵にしてるでしょってことが言いたいの! こういう前例がないことしてたら、また嫌味言われ放題だよってことが言いたいの!!」
リリアンは顔を真っ赤にしてポカポカとジェレミーの胸を叩く。違うと言いつつも、少しはそういう展開を想像したらしい。まあ、あれだけ熱烈なプロポーズをされてしまっては仕方がない部分もあるだろう。
しかし、まさかリリアンがそんな想像をするとは思っていなかったジェレミーは、嬉しそうに小さく笑みをこぼすと彼女をぎゅっと抱きしめた。
そしてそのままベッドに連行すると、優しく彼女をおろした。
「な、なぜベッドに?」
「あれ? 期待してたんじゃなかったの?」
「してないし!! 絶対してない!!」
仰向けになったリリアンの肩口に手をついて、ニヤリと広角を上げながら彼女を見下ろすジェレミー。
リリアンは彼の目が若干本気モードになってるような気がして、くるんと体をうつ伏せにすると、頭に枕を被った。
「本当に、本当の本当にダメだからね!?」
「どうしようかな」
ダメだと言われたら欲しくなるのが人の性。
枕の隙間から見えるリリアンの首は肩のあたりまで真っ赤に染まっており、とても美味しそうだ。
ジェレミーは首にかかる彼女の白銀の髪を軽く避けると、その美味しそうな頸にガブリと噛み付いた。
「ひゃ!?」
明らかに首を吸われている感覚があるのに、頭を押さえられて身動きが取れないリリアンは足をばたつかせながら抗議した。
しかし抵抗虚しく、解放された彼女がベッドから飛び降りて鏡を確認すると頸には赤い鬱血痕がしっかりとついていた。
もう当分、髪をアップにはできない。首筋を抑えたリリアンは顔を真っ赤にして涙目になりながらジェレミーを睨みつけた。
「綺麗についたな」
「さ、最低!」
「別に何もしていないだろ。ただ所有印をつけただけだ」
「それがダメだって言ってんの!!」
「なんで? 俺のものになるのが嫌ってこと? 昨日、約束したのに?」
「そうじゃなくて、普通に恥ずかしいじゃない! こんなの見られたら、周りから『あいつら、そういう仲になったんだ、へぇー』って目で見られるでしょうが!?」
「リリアンをそんな目で見てくるやつは目を潰してやるから安心しろ」
「いやいやいや、全然安心できないよね!?」
何なんだろう、この違和感は。話していると時々、とても怖い目で見てくる。
リリアンは体を守るように自分の肩を抱くと、扉の方まで後ずさった。
「……なんだか、おかしくない? どうしたの? ジェレミーって、そんな人だった? 性格変わりすぎじゃない?」
「そうか? 前からこんな感じだけど」
「違うよ! 前はもっとこう、可愛げがあった!」
「可愛げがなくなったのなら本望だ。俺は君に可愛いと言われるのがとても嫌だったからな」
ジェレミーはベッドから降り、ジリジリとリリアンに近づく。
不敵な笑みを浮かべて近づいてくる彼に、リリアンは目を逸らしたくなった。
ジェレミーはこんな感じの人だっただろうか。
確かに意地悪なところはあったが、基本的には優しくて、リリアンをよく慕ってくれていた可愛い弟だったはず。どちらかというと犬っぽくて、こんな獲物を狙う野生の狼みたいな目をした男ではなかったはずだ。
「な、何がしたいの?これからどうするつもりなの? 今、何を考えているの?」
「そんなに怯えないでくれ。俺はただリリアンが欲しいだけだ。君と結婚して君を一生俺に縛りつけたいだけ」
「縛りつけたいって……」
リリアンの前まできたジェレミーは、彼女の髪に触れるとその毛先にそっと口付けた。
どこか諦めたような目と、自分を悪人だと思っているような言い回し。
リリアンはそんなジェレミーに、彼の昨日の言葉を思い出した。
「ねえ、もしかして、本当に私があなたのことを好きにならなくてもいいって思ってるの?」
ジェレミーは昔から、どこか諦めているような目をする子だった。
それは母である皇后が彼の存在を嫌悪しているせいか、それとも皇后の侍女たちが主人である皇后に忖度して彼に冷たい態度をとってきたせいか。
はじめて会った時はその黄金の瞳から感情は失われていた。
何も期待していない寂しい目をした少年。
それがジェレミーに対する第一印象だった。
だから、リリアンはヨハネスと会う時には必ずジェレミーを誘った。今にも消えてしまいそうな、この世に未練なんてなさそうな、子どもらしからぬ目をした彼が心配だったのだ。
できるだけ、そばに居ようと思った。寄り添おうと思った。そして自分がそうして接することで、いつか彼が彼自身の存在を認めてくれれば良いのにと思っていた。
(まだ、自分は何も望んではいけないと思っているのかしら……)
不幸である事が皇后への償いであるかのように、ジェレミーは何も求めない。
それは、はじめて手を伸ばしたリリアンに対してでさえ、同じで……。だから彼は彼女の心まで手に入れようとは思わないのだろう。
リリアンはそっと、ジェレミーの頬に手を伸ばした。
「心が伴わない結婚に、貴方は満足するの?」
政略結婚だったヨハネスなら、それで満足するかもしれない。
けれど、ジェレミーは心からリリアンを求めている。それなのに彼女に好かれる事は求めていないというのは、にわかには信じがたい。
ジェレミーは自分の頬に触れる彼女の手に、自分の手を重ねると、悲痛な表情を浮かべた。
「望めば手に入るのか? 君は心をくれるというのか?」
「そ、それは……。約束はできないけど……」
「約束できないのならそういう事を言わないでくれ……」
重ねた手をギュッと握り、ジェレミーは声を震わせる。
リリアンはそんな彼を見て『違う!』と声を上げた。
「そうじゃなくて! その、約束はできないけど、努力することはで、できるって言うか……」
「努力?」
「あ、貴方を好きになる努力よ! 私、正直言って今までジェレミーのことそんなふうに見たことないし、ずっと弟としか思ってなかったから、だから、その、今すぐ好きになるのは難しいけど、でもそういう風に見るように努力することはできると思うの。もっと意識するから、だから、あのね……。あ、諦めないで良いんだよ?」
言葉を詰まらせながらも、ジッと彼の目を見つめて話すリリアン。ジェレミーは彼女をグイッと自分の方に引き寄せると、息苦しさを感じるくらいにキツく抱きしめた。
リリアンからは思わず、ウプッと声が漏れる。
「く、苦し」
「自分で何言ってるかわかってる?」
「わかってる、つもり、です」
「そんなこと言われたら期待してしまうだろ」
「期待していいよ」
「簡単に言うなよ。期待して、それでもし『やっぱり好きになれませんでした』とか言われたら、俺、何するかわかんないぞ?」
「何するかわかんないって……。な、何するの?」
「さぁ? その時にならないとわからない」
「何それ、怖い」
「でも一つだけ言えるのは、リリアンがどんな結論を出しても、俺は君を手放さないってことだな」
そう言うと、ジェレミーはリリアンの頬にチュッとキスをした。リリアンは頬を押さえて赤面する。そんな彼女を見て、ジェレミーはフッと不敵な笑みをこぼした。
「これからは、好きになってもらえるように頑張るとするよ」
「が、がんばる?」
「色々と、ね?」
「イロイロ……」
「せっかくリリアンが諦めなくても良いと言ってくれたんだ。俺のことを意識せざるを得なくしてやろう」
楽しそうに笑うジェレミーに、リリアンはゾワッと背筋に冷たいものが走る感覚を覚えた。
どうやら、彼女はまた、押してはならぬスイッチを押したらしい。
「お、お手柔らかに、お願いします……?」
自分で言い出したことだが、恋愛ごとにはめっぽう疎い彼女は、これから彼が自分を落とす為にどんな罠を仕掛けてくるのか予測できない。
狼に狙われた子うさぎは、へへへっと苦笑いを浮かべた。




