二〇二五年十月十日
『桃太郎』~序章~
むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。ある日、おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。おばあさんが川で洗濯をしていると、川上から、大きな桃がどんぶらこ、どんぶらこと流れてきました。
「これは……」
おばあさんは洗濯の手を止め、流れてきた桃に厳しい視線を向けました。桃が放つすさまじいまでの霊圧がビリビリとおばあさんの肌を刺します。ただの桃、ということはあり得ません。魔魅、化生の類であることは明らかでした。
「……厭な気配はないか。善悪に染まる前の、力の塊と言ったところかの」
おばあさんはそう呟くと、素早く空中にキリークを描き、裂ぱくの気合と共に両手を川に突き入れました。おばあさんの手を中心に川面に蒼い光が走り、穏やかだった流れがざわめき、ゆらぎ、泡立っていきます。おばあさんは川から手を引き抜き、左右に大きく手を広げて水を払うと、身体の前でパンっと両手を合わせました。
「清流の霊威を以て水神を象る。来ませいっ! 清瀧権現!」
おばあさんの言葉に応えるように川そのものが光を放ち、光の中から一匹の龍が姿を現しました。その身体は水で形作られ、太陽の光に透けて美しく輝いています。一見怖ろし気な外見とは裏腹に、竜の瞳は慈愛に満ち、穏やかに微笑んでいるようでした。龍は大きく顎を開き、川を下る桃をその口にくわえると、おばあさんの許へと届けました。おばあさんは軽く息を吐くと、大きな桃の表面に手を当てました。常人では意識を保つことさえ困難なほどの、強すぎる霊気。それは、下手をすればこの国の霊的均衡を狂わせかねない、危険な力でした。
「おじいさんに見せねばなるまいの」
そう独り言ちて、おばあさんは洗濯ものを入れた籠を背負うと、水龍の背に乗りました。水龍はゆっくりと空中に浮き上がり、おばあさんの家に向かって滑るように飛び去りました。
人里から離れ、誰も訪れることのない荒野に、藁ぶき屋根の粗末な家が建っていました。玄関先には雨水をためるための大きな甕が二つ並び、家の周りには、老人二人がどうにか食べていけるほどの広さの畑がありました。今は大根や青菜、雑穀が植えられ、乾いた冷たい風に揺れています。
おばあさんはひらりと水龍の背から身を躍らせ、自らの家の入り口の前に降り立ちました。水龍は役目を終えたように形を失い、ただの水へと戻ります。水龍がくわえていた大きな桃がごろんと地面に転がりました。
「なんとまあ、珍しいもんを拾うてきたのう」
まるで待ち構えていたように、おじいさんが玄関から姿を現します。桃が放つ霊圧をすでに感じ取っていたのでしょう。その手には一振りの大刀が握られていました。
「見てみい。我がソハヤが震えておる。妖、滅ぶべしとな」
おじいさんは大刀を持った右手をおばあさんに向かって突き出しました。大刀の鞘がカタカタと音を立てて震えています。おばあさんはかすかに眉をひそめました。
「災い為すと見やるか?」
「過ぎる力は災うものよ。それが善きものであっても、悪しきものであっても」
おじいさんは鞘を払うと、大刀を正眼に構えました。ソハヤと呼ばれた大刀が、陽の光とは明らかに異なる、蒼く荘厳な光を放っています。
「ここで消えるが仕合わせよ。命を得れば、これに待つは過酷で報われぬ運命であろうからの」
おじいさんがひゅう、と息を吐き、大刀を持つ手に力を込めました。みしみしと音を立てて腕の筋肉が盛り上がり、おじいさんの双眸が翠色の炎を宿しました。周囲を風が逆巻き、地面の名もなき草がちぎれて宙を舞います。おじいさんは大刀を大上段に振り上げました。逆巻く風が大刀に収束していきます。
「瑠璃光十二神刀の八、頞儞羅!」
おじいさんは気合の声と共に大刀を振り下ろしました。大刀に宿った風が大気を切り裂き、桃に向かって奔ります。剣風は桃を大きく吹き飛ばし、そして、
――キィン
硬質な、金属のような音を立てて、桃が見事に左右に割れました。そして、桃の中から現れたのは……
「なんと!」
おじいさんが目を見張り、呆けたように口を開けました。そこにあったのは、陽光に透けて美しく輝く、水で形作られた龍の姿でした。
「清瀧権現、か?」
おばあさんもまた、信じられぬと言うように呆然と水の龍を見つめました。おじいさんの斬撃は水の龍のちょうど中心に、縦に大きな傷痕を残しています。そして次の瞬間、龍は力尽きたように形を失い、地面を濡らしました。龍の身体の影にいたモノが二人の前に現れます。
「すでに命を得ておったか」
苦々しい顔をして、おじいさんが呻きました。ふたりの前に現れたのは、玉のように可愛らしい赤子の男の子でした。ただ、普通の赤子と違うのは、その赤子は空中に浮かび、ほのかに光を放っていることでした。
「ワシの術を桃の中から見ておったのじゃな」
おばあさんは感心したように呟きました。無論、見ただけで術が使えるようになるはずはありません。赤子が持つ、人の身にはあり得ぬ膨大な霊力がそれを可能にしているのです。赤子はつぶらな瞳で、不思議そうにおじいさんたちを見つめています。
「さて、どうしたもんかいの」
おじいさんは困ったように顔をしかめました。妖とは言え、見た目は人間の赤子です。刀で切りつけるのはためらわしいのでしょう。おばあさんも同じ思いなのか、「ふーむ」と唸り赤子を見つめています。
戸惑うおじいさんとおばあさんを、赤子はしばらくの間見つめていましたが、そのうちに飽きたのか、周囲をきょろきょろと見回し始めました。目に見えるものすべてが珍しいのでしょう、そこらの雑草や石ころにさえ、きらきらと輝く無垢な瞳を向けています。やがて赤子の目が、玄関先にある甕を捉えました。赤子は嬉しそうにニコニコと笑いながら、甕のある方向に手を伸ばします。赤子の目が鈍く金色の光を宿しました。
ゴポッ、コポッ
「何の音じゃ?」
粘性を帯びた水音が耳に届き、おじいさんは不快そうに顔をしかめました。周囲にはかすかに、何かが腐ったようなにおいが漂い始めています。おばあさんはひきつったような笑みを浮かべ、玄関先の甕に目を遣りました。その額には冷たい汗がじんわりと浮かんでいます。
「どこぞの沼とつなげおった」
おばあさんの言葉が合図であったかのように、赤子が見つめる甕から濁った水があふれ出しました。ヘドロ混じりのその水は、明らかに甕の容量を超えて、周囲を水浸しにしていきます。「誰が掃除をすると思うとるんじゃ!」という、おじいさんの悲鳴に似た嘆きが聞こえました。
赤子は楽しそうに、きゃっきゃと笑い声を上げると、手足をバタバタと動かし、そして身体の前でぱちんと、そのもみじのように可愛らしい手を合わせました。同時に、おじいさんとおばあさんの頭の中に直接、音のない声が響きます。
『濁流の瘴気を以て邪龍を象る。来よ、徳叉迦!』
地面にあふれたヘドロ水から黒い霧のようなものが立ち上り、徐々に集まって何かの形を成し始めました。集まった霧は光通さぬ濃い闇となり、やがて一匹の龍の姿に変じました。
「誰に教わるでもなく、八大竜王を従えるか。まさに化け物よの」
おばあさんは赤子を見つめ、感心したようにため息を吐きました。
八大竜王の一、徳叉迦。瞳に毒を持ち、見つめられた者はことごとく死に至ることから『視毒』の異名を持つ、闇色の龍です。
「都の暦博士どもに見せてやりたいわ。あれらが十年掛かって習得する秘術を、生まれて一刻も経たぬ赤子が会得したと知れば、どんな顔をしよるか見物じゃ」
徳叉迦の妖しく光る赤い瞳を平然と見つめ返して、おばあさんが言いました。おじいさんはあきれたようにおばあさんを軽く睨みます。
「なにを悠長な。どうするんじゃ、アレ」
「情けない声を出すでないわ。確かに徳叉迦を降ろす霊力は大したものじゃが」
おばあさんは背を伸ばし、呼吸を整えると、
「所詮は、児戯よ」
空中にカーンを描き、ふう、と大きく息を吐き出しました。すると徳叉迦の身体が、まるで無理に空気を吹き込まれたように膨れ、丸く広がっていきます。やがて限界まで膨れ上がった龍は、
ぱしゃん
と音を立ててはじけ、ただの泥水に戻りました。赤子は目を丸くしておばあさんを見つめると、嬉しそうに笑い声を上げました。
「言葉通り、戯れということか」
おじいさんは表情を改め、大刀を握る手に力を込めて呻きました。戯れに八大竜王を呼ぶような存在を放置しておくことはできません。もし人里に徳叉迦が現れれば、村がひとつ死に絶えてもおかしくはないのです。奥歯を強く噛んだおじいさんの横顔を見つめ、おばあさんは覚悟を決めたようでした。
「封じる。よいな?」
おばあさんは短くそう言うと、おじいさんの答えを待たずに合掌印を結びました。目を閉じて意識を集中し始めたおばあさんの身体の表面がほのかな光を放ち、風もないのに着物の裾がはためきます。おじいさんは哀しげに目を伏せました。赤子はおばあさんに、何が起こるのかと期待に満ちた視線を向けています。
「三尊の大悲を以て妖し力能を封ずる。左手に日光、無明の闇を滅尽し、右手に月光、無間の焦熱を滅却せん」
赤子の左手の甲にア、右手の甲にシヤの種字が浮かび、光を放ちます。突然自分の手に現れた光が恐ろしかったのか、赤子は火が付いたように泣き始めました。しかしそれをかき消すように、おばあさんの冷厳な呪言が朗々と辺りに響きます。
「中尊よ、浄瑠璃界の主よ、無辺の光明を以て遍く世を照らす者よ。災う者を除き給え。妖しを降伏し、石片の深きに沈め封じ給え」
おばあさんの身体を覆う光はいよいよ強くなり、光の柱となって周囲をまばゆく照らしました。赤子の額にはバイの種字が浮かび、赤子が自ら放っていた光を吸い込んでいきます。おばあさんはカッと目を見開き、両の掌を赤子に向かって突き出して叫びました。
「封咒・薬師三尊!」
突き出した掌から瑠璃色の光が奔流となって赤子に向かいます。光は赤子を包むように赤子の周囲をくるくると巡りはじめました。おばあさんは突き出した両手をゆっくりと左右に広げました。
赤子の浮かんでいる真下の地面には、いつの間にか大人の拳ほどの大きさの石が落ちていました。おばあさんが両手を身体の前で合わせれば、赤子はその石に封じられて、すべて解決です。おばあさんは短く鋭く息を吸い、両腕に力を込めました。
ガシッ
おばあさんが両手を合わせようとしたまさにその時、おじいさんの左手がおばあさんの右手首を掴みました。集中を破られ、激しいめまいに呻きながら、おばあさんはおじいさんをキッと睨みました。術は辛うじて崩壊を免れ、瑠璃光は未だ赤子を包んでいます。俯くおじいさんの表情からは、強い苦悩と、そしてかつての後悔が伝わってきました。
「一切衆生悉有仏性。妖といえども、命ある限りそれを奪ってはならん」
おばあさんはおじいさんをじっと見つめました。おばあさんは知っていました。今、隣にいる男の過去を、修羅に生きた永い刻を、その慟哭を知っていました。おばあさんはふっと表情を緩めると、手首を掴むおじいさんの手に、自身の左手を重ねました。
「わかった」
「……すまぬ」
おじいさんの手がおばあさんの手首から離れました。おばあさんの目が、仕方ないな、と言いたげに微笑みます。なぜなら、今からずっと昔に、おばあさんはおじいさんの隣にいることを、自らの意志で選んだのです。この男が抱える底のない空洞を満たす闇に、ほんの少しでも灯りをともすために、彼女はここにいるのですから。
おばあさんは再び意識を集中すると、今度は赤子を包み支えるように両手を差し伸ばしました。赤子の周囲を回っていた瑠璃色の光が、赤子の身体に吸い込まれるように消えていきます。赤子はゆっくりと空中を移動し、おばあさんの手の中に納まりました。赤子を包んだ光は消え、赤子は今、すやすやと眠っています。赤子を大切そうに抱え、おばあさんは安どのため息を吐きました。
「この子がワシらのもとに来たも仏縁よ。ワシらはこの子に、正道を示さねばならぬ」
おじいさんは赤子の頭をそっと撫でながら、自らに言い聞かせるように呟きました。安らかに眠るこの無垢な魂は、今はまだ何色にも染まってはいません。しかし無色であるということは、どんな色にも容易に染められてしまうということです。白に染まれば世を救う英雄に、黒に染まれば世を滅ぼす魔王に、この赤子はなってしまうのです。赤子を見つめるおじいさんの目は、哀しみに満ちていました。強すぎる力は災う。そしてその災いは、誰よりもまず、力を持つ本人に襲い掛かってくるのです。
(願わくば、英雄でも魔王でもなく、ただ幸せな生を――)
おばあさんの腕の中で、赤子はすぅすぅと可愛らしい寝息を立てて眠っています。赤子を待ち受ける過酷な運命を予感しながら、二人はそれでも、赤子が平穏な人生を歩むことを願わずにはいられませんでした。
桃太郎の親であるからにはただ者であるはずがない




