二〇二五年九月二十七日
ずっと書きたいと思っている物語がある。幾つもある。前にも言ったかもしれないが、私は昔話を創作したい。昔話の定義からしておかしな話だが、まるで昔から語り継がれてきたような物語が書きたい。
『騎士と歌姫』
とある高級酒場の歌姫が、ひとりの騎士に恋をする。騎士もまた、その歌姫に心を奪われた。身分違いの恋に悩む歌姫は、同じ酒場の嘘吐き道化に相談する。道化はまるで芝居じみた軽薄な調子で言った。
「任せて。この僕が、君と騎士の橋渡しをして差し上げよう」
歌姫は道化の力を借りて、騎士と逢瀬を重ねる。歌姫は気付かない。道化の瞳に映る淡く押し殺した感情を。
時は流れ、隣国との戦が始まる。騎士は武勲を立てるため前線に赴く。身分、家柄、血統、うるさい周囲を黙らせるだけの実績を掲げ、堂々と歌姫を迎えに行くために。必ず帰ると約束をして、騎士は都を離れた。歌姫は独り、騎士の帰りを待つ。今日は無事だろうか。明日は怪我をしないだろうか。……命を、落としてしまわないか。待つだけの日々は歌姫の心をジリジリと苛む。次第にやつれていく歌姫に、道化は告げる。
「僕に騎士の剣はないけど、僕は名もないただの道化だけれど、あなたを寂しさから守ることはできる。悲しみから守ることはできる。あなたが望んでくれるのなら、僕はあなただけの騎士になろう。いつも傍にいて、あなただけを守り、あなただけのために在る、世界でただ一人の騎士になろう。この夜空に輝く月に誓う。僕は」
偽りのない道化の眼差しを、歌姫は驚いた様子で見つめ返す。
「あなたを守ってみせる」
道化が手を差し伸べる。ためらい、目を伏せ、そして――歌姫は道化の手を取った。
戦場で騎士は戦う。一心に歌姫を想いながら。
歌姫は穏やかに歌う。隣にいる道化に微笑みながら。
戦場で騎士を支えるのは歌姫の存在だった。しかし、日常で歌姫を支えるのは、騎士ではなかった。
戦が終わり、騎士は都に凱旋する。無数の勲章を身に付け、歌姫を迎えに行くために――
騎士が都に帰ってくる日の前日、珍しく泥酔した道化が歌姫の待つ家に帰ってくる。驚き、どうしたのかと問う歌姫に、道化は皮肉げな笑みを浮かべた。
「どうしたのかって? お祝いだよ。この薄っぺらい偽りの日の終わりのね」
おかしそうに笑いながら、道化は歌姫に告げる。自分が歌姫に手を差し伸べたのは、騎士の親族から依頼され、彼女を監視するためだったと。他に言い寄る男を遠ざけ、騎士が帰ってくるまで待つことができるように。
「ほら見て。これが君との三年の値段さ。僕らじゃ一生かかってもお目に掛かれない金貨の山さ」
道化はガシャンと革袋を机に投げる。歌姫は屈辱に震え、涙を流した。
「全て噓だったの? この三年の月日も、月に誓うと言ってくれたあの言葉も!」
「僕はもともと嘘吐き道化。嘘を吐くのが商売さ。僕が真実を言うことなんて、今までもこれからだってありゃしないのさ」
ぴしゃりと乾いた音を立て、歌姫が道化の頬を打つ。流れる涙を拭いもせず、歌姫は家を出て言った。道化は声を上げて笑う。おかしそうに、おかしそうに、ずっと。
騎士は歌姫に求婚し、歌姫はそれを受け入れた。英雄とその美しい妻の幸福を、都の人々は皆、心から祝福した。歌姫は幸せになった。道化のことなど忘れて、幸せになった。
都から遠く離れた田舎町に、一人の道化の姿があった。道端に立ち、人々に物語を聞かせる嘘つき道化。今日も物語を演じ終わると、人々が投げるおひねりを、礼を言いながら拾っている。
そんな道化に、客の一人だった少年が近づいた。
「あんたの嘘は本当よりも本当みたい。あんたが演じる泉の森の魔女は、地獄の悪魔よりも恐ろしい。あんたが演じる正義の騎士は、輝くばかりに清らかだ。でも、だからこそ聞きたいんだ。あんたは今までに、一度でも、本当のことを言ったことがあるのかい?」
道化は少年の頭を軽く撫でると、少しだけ目を伏せた。
「僕は嘘をつくのが仕事だから、本当のことなど言ったことはないよ。ただ、一度だけ。月明かりの下で誓った、あの約束だけは、偽ることができなかったよ」
呟くように、そんな言葉を残して、道化は町から姿を消した。そしてその後、道化の姿を見たものは誰もいない。




