二〇二五年八月九日
ずっと感じている、刑事ものや探偵ものの物語に対するアンチテーゼとして。
「あなたが殺したんでしょ?」
青年の顔は蝋のように白く、軽薄な笑みを浮かべた優男を揺れる瞳で見つめる。男はおどけた様子で言葉を続けた。
「被害者のゴトウってヤツは、まあ控えめに言ってロクデナシだよね。犯罪を繰り返してはムショとシャバを行ったり来たり。窃盗、暴行、脅迫、詐欺、そして――」
背を丸め、下から覗き込むような上目遣いで、男はたっぷりと間を取る。
「――ストーカー」
青年の身体がビクリと震える。想像通りの反応だったのだろう、男は満足そうにうなずいた。
「婚約者がいたよね。確か、宍戸さん、だったっけ?」
「彼女は関係ない!」
青年が初めて声を荒らげる。大きな声に男は顔をしかめた。
「つい最近、婚約を解消してるね。どうして?」
青年は視線をそらしてうつむく。
「……それに答える義務はない」
「彼女と結婚することはできないと思ったからでしょ?」
男の軽薄な声に青年は答えず、地面を見つめている。男は張り付いたような薄笑いのままだ。
「通話記録を調べさせてもらったよ。事件の前日にゴトウに連絡してるね。何を話したの?」
青年は顔を上げ、キッと男をにらむ。
「……何が目的だ」
「死ぬ気でしょ?」
男の表情から軽薄さが消える。怒りを湛えた瞳で青年を見据える。青年はハッと息を飲んだ。男は正面から青年に近付き、襟首をつかんで引き寄せた。
「自分の命の価値を間違えるな。勝手に背負って、勝手にさよならできるほどあんたはこの世界から孤立しちゃいない」
優男然とした風貌に似つかわしくない強い力で、体が浮くほどに襟首を締め上げられ、青年は苦しそうに顔をしかめた。男は突き飛ばすように青年を解放する。青年は激しくせき込んだ。
「少なくとも、宍戸さんはあんたを大切に思っているよ」
青年は奥歯を噛み、地面を見つめて呻くように言った。
「……大切だから、もう会えないんだ。人殺しと歩む人生を彼女に負わせられない」
青年は顔を上げる。その顔はどこか吹っ切れた清しい表情になっていた。
「自首するよ。罪は、償わなければ」
「ああ、せんでいいよそんなこと」
男の顔に軽薄な笑みが戻る。「は?」と青年は不可解そうに声を上げた。男は楽しそうに、あるいは自慢げに口の端を上げた。
「今頃オレの仲間が、あなたの犯罪の痕跡をすべて消してる。仮に自首したとしても起訴できないくらいに、徹底的にね。だから自首なんてしなくていいし、してもただの妄想狂として扱われるだけだよ」
青年は目を丸くして呆けたように口を開ける。かろうじて絞り出した「どうして?」の問いに、男は冗談のような口ぶりで答えた。
「ゴトウは控えめに言ってロクデナシだと言ったろ? 奴が殺されなかったら、残りの人生でもっと多くの人を騙し、殴り、盗み、傷つける。でもあなたは違う。あなたのこれからの人生は、彼女を、家族を、周囲の人々を幸せにする。自分の欲のために他者を蔑ろにして恥じない者の命に価値はないよ。そんなものとあなたの人生を引き換える必要はない」
男はへらっと表情を崩した。それは本心を隠すための仮面だろうか?
「最大多数の最大幸福ってやつさ。ゴトウは死ぬことで世界の幸福に寄与する。あなたは生きて、自分と周囲を大切にすることで世界の幸福に寄与するのさ」
自分の言葉が気に入ったように男はうんうんと何度もうなずく。まるで理解できない、というように、青年は何度も瞬きをした。
「……あなたは、いったい何者なんだ?」
理解の範疇を越えた男の存在を、自分の中で再定義するために、青年は問う。男は芝居がかった様子で「うーん」と悩ましげにうなると、「ああ」と言ってポンと手を叩いた。
「『ワルモノ』、かな。なにせ人殺しを庇おうってんだからさ」
呆然と立つ青年に男は近付く。
「あなたは生きなきゃいけない。人を殺めた事実を背負って、それを隠して生きなきゃいけない。苦しかったらオレを呼びなよ。話くらいは聞いてやる。だけど――」
男は青年の胸を右手の甲で軽く叩く。軽薄な表情を裏切る鋭い光が瞳をかすめた。
「――自覚はしておいて。あなたはもう、正義から逃れられない」
男の放つ静かな威迫に気圧され、青年は青ざめた顔でごくりと唾を飲んだ。
成立してる?




