二〇二四年五月三日
じゃっかん朦朧としながらこれを書いている。風邪薬の効果だろうか。ここに書く内容は支離滅裂になる可能性を考慮したうえでお読みいただきたい。まあ、私が書くものは多かれ少なかれいつもピントがずれている気がしないでもないが。
気が付けばゴールデンウィークが半分終わり、前回の投稿から二か月が経っていた。時間が加速度的に過ぎ去っていく。過ぎた時間に見合う内容がないままに。もったいないことだ。
ずっとぼんやりと生きてきた。今もそうだ。生きている実感はない。世界はいつも他人の顔をしている。
小学生の時、ぼんやりと「ああ、私は中学生になるんだな」と思っていた。
中学生の時、ぼんやりと「ああ、私は高校生になるんだな」と思っていた。
高校生の時、ぼんやりと「ああ、私は大学生になるんだな」と思っていた。
大学生になり、ぼんやりとしていたら、次の姿がわからなかった。だから私は、「ああ、私は死ぬんだな」と思っていた。
大学を卒業し、私は死ななかった。予定が狂った。非常に困った。だって、生きる準備など何もしていない。当然就職もできなかった。このまま何もせずにいればいずれは死ぬのだろうが、ちょっと苦しそうで嫌だった。想定は、何だろう、ぱっと消える。スイッチを切るように。最初からいなかったみたいに。でも、そんなことは起きなかった。話が違うよ神様。神様なんて信じていなかったくせにね。
欠陥品である自覚はある。私は世界を夢の中のようにしか認識していない。実感を伴って他者を受容できない。私にとって他者はファンタジーと同義だ。恋人も友人も、実在するなど信じられない。
ゲド戦記の翻訳者である清水真砂子さんがかつてインタビューで言っていた。
『私はいつか人を殺すのではないかと恐れていた』
清水さんがどういう思いでそれを言ったのかはわからないが、その言葉自体にはとても共感する。私はいつか人を殺すかもしれないという漠然とした不安は常にある。
どうして生きているんだろうな、と思う。生きる理由も目的も持ち合わせてはいない。理由もなく走り続けるのは辛い。そろそろ許してもらえないだろうか。
世界は常に証明を求めてくる。「あなたは何ができますか?」「あなたは何の役に立ちますか?」私にできることはないし、私は何の役にも立たないから、その問いには答えられない。私に経済的な価値はない。私のあらゆる行動が金額に換算されるのは耐えがたい。それなのに世界は私を包摂しようとする。善人の顔をして。あたかもそれが唯一の正解のように。
何がしたいの? 何もしたくないよ。息をするのが苦しいよ。あたかも価値があるように嘘を吐くのは苦しいんだよ。からっぽな中身を隠してさも意味ありげに騙すのは辛いんだよ。
咳をする。咳ばかりしている。咳をして今日が終わる。めまいがする。世界がぐるぐると回る。風邪薬は効いているのか効いていないのかわからないな。効いているからこんなとりとめのないことを書いている気はするけど。