二〇二四年一月二十九日
トラック無双のブクマが増えて、イヤッホゥと調子に乗って次話を投稿したらブクマ減ったわ。何が、何がアカンかってん。あれか、変態には共感でけんいうことか。
……
そら、しゃーない。切り替えてこ。
そんな愚痴で始まりました、おそらく一月最後の雑記でございます。今日はね、物書きの条件についてつらつらと語ってまいりたいと思いますよ。なぜって? それは、ブクマが、減ったからさ。
物書きの条件、というか、表現者の条件、と言うべきかな? そういうものがあると、私は思うわけですよ。それは技術的な巧拙とか、商業的な成功とか、そういうものではなくて、もっと根本的な部分で、別れてしまうんじゃなかろうかと。プロの条件、というのとは別ね。プロの条件はプロに聞いてくんさい。私がそれを語るのは越権行為ですので。
もったいぶらんと早く言えって言われそうなんだけど、そうするとすぐ終わっちゃうんであえてもったいぶって話す勇気。その条件は、成功を約束するものでも破滅を回避させる知恵でもなく、ただ表現者であることを保証するようなものかなーと思います。拙くても、流行りに乗っても無問題。表現者であるということはそういうことではない。
じゃあどういうことなのさ、ということになるんですけども。私の個人的な見解を披露いたしますよ。だが、私の見解が正解と思うなよ! すべての答えは、あなたの心の中に。ということで回答はこちら! じゃじゃん!
私の描いているものは面白い、と言い張る心。
表現者の条件というのは、そういうもんなんじゃないかな。根拠はあってもなくてもよくて、とにかく「私の物語サイコー」という熱量、あるいは確信。それさえあれば人は表現者であり、あり続けることができるのではあるまいか。
もちろん、これは『頑なであれ』と言っているわけではない。技術の拙さや展開の強引さ、誤字、誤用の指摘を受け付けない頑固さは決して良いものではない。他者の意見を聞き入れない漫画家は大成しないと鳥嶋編集長は言っていた、気がする。
しかし、その作品の主題、描こうとしたものそのものは、誰が何と言おうと面白い、と言い張ることは必要なんだと思うのです。「これがよい」「これこそがよい」と断言する強い気持ち。そういうものを持っていないと、どれほど技術が高かろうと、評価されようと、表現者であり続けることは難しいんじゃないかな。あるいは、表現者であり続けることが辛くなるんじゃないかな、と思います。
私の文章が下手だから伝わらんかもしれんが、私の物語は私の書いた物語よりも何十倍も面白いんだぞ!
そういう感覚。伝わってる?
結局何が言いたいかと言うとね、
ブクマは減ったけど私は書き続けてやるよチキショーッ!!
ってこと。トラック無双は本当はもっと面白いんだからな! 私が下手なだけで!