二〇二二年五月二十一日
正義について、もうずっと考えている。正義とは何か。何を以て正義と認定されるのか。
なぜそんなことを考えているかというと、正義は多かれ少なかれ物語に登場する要素だからだ。何らかの意味での『正義』が無ければ主人公は主人公たり得ず、何らかの意味での『悪』がないと敵役は敵役たり得ない。それはたとえ悪漢小説であったとしてもだ。もちろん例外もあって、主人公が破滅に向かって突き進むような物語なんかは別なのだろうが、そうでないなら、基本的に主役は何らかの善性を持っている。そのほうが物語を創りやすいだろう。
そんなわけで、正義とは何か、という問いは私の創作に関わる重要なテーマである。
正義について考える時、よく思い出す出来事がある。私が中学生くらいだったときの出来事なのだが、正義を考えるための導線の一つとしてここに示そう。
学校からの帰り道、私の歩く正面から一組の親子が歩いてきた。若い母親と、おそらく小学校に上がる前位の男の子だった。私が、そしてその親子も、歩いていたのは道路と歩道が縁石で区切られた場所の歩道側で、その歩道は狭く、人が二人で並んで歩くのがギリギリの幅しかなかった。このまま歩道を進むと私と親子はぶつかってしまう。どちらかが避ける必要があった。私は縁石を乗り越え、車道側に出た。幸い車道に車の影はない。私はそのまま車道側を進み、無事に親子とすれ違った。いや、すれ違おうとした。その時。
「くるまのみちにでたらいけないんだよ!」
その小さな男の子は私にそう注意した。母親は慌てたように「気を遣って避けてくれたのよ!」と言うと、私に「すみません」と謝った。私は「いえ」と手を振り、そのまま二人とすれ違って歩道に戻った。男の子はどこか釈然としないような顔をしていた。
私が男の子の言葉を聞いたとき、心の中で思わず言ったことを今でも覚えている。
「確かに!」
くるまのみちにでたらいけない、なぜなら危ないから。当たり前と言えば当たり前の話だ。そして私はその当たり前の制約を破った。だから私は男の子に怒られることになった。彼の言い分は正当で、私の行動は誤りだった。私がどのような考えでそれを為したとしても、正しいことは正しく、誤っていることは誤りなのだ。
私は車道に出るべきではなかった。車道に出ずにすれ違う方法を模索すべきだったのだ。きっと正しいとはそういうことだ。最初から最後まできちんと正しくないといけないのだ。
私は正義について何か結論を持っているわけではなく、今も迷っているし悩んでいるが、あの日出会った小さな男の子の言葉は、私の中の一つの指針になっている。