二〇二三年九月三日
「おかあさんって火星人!?」
幼稚園から帰るなり、私は母にそう言ったそうだ。どうやら幼稚園で、火星には知的生命体がいるかもしれない、という話を先生から、タコみたいなイカみたいな生物の絵と一緒に聞かされたらしい。なぜそんな話を幼稚園の先生がしたのかは分からない。そして、タコやイカ的生命体の絵を見せられていながらなぜ母を火星人だと疑ったのかも分からない。私の母は、断っておくがタコにもイカにも似てはいない。人間だ。
真剣な眼差しで問う私に、母は神妙な面持ちで答えた。
「そうよ。おかあさんは実は火星人なの。だから満月の夜に月からお迎えのロケットが来たら、帰らなければならないのよ」
火星人だと言っているのになぜ月から迎えが来るのか、という疑問は置いておこう。そこは問題の焦点ではないし、当時の私にそれに気づく思慮はない。そんなことより問題なのは、次の満月には母がいなくなってしまうということだった。私は涙目になって震える。母がちょっと慌てた様子で何か言おうとしたとき、私たちの様子を見ていた兄が笑って言った。
「だいじょうぶだよ。お母さんは、満月になるたびにお迎えのロケットが来るけど、毎回乗ろうとするときに『タイジュウオーバーデス。ロケットニノルコトハデキマセン』って言われて帰れないから」
母が思わずといった様子で吹き出し、軽く兄を睨んだ。兄は母から目を逸らす。私は兄に「ほんとう!?」と詰め寄り、兄は笑いながら「ほんとほんと」を答えた。
その日の夕食の時、私は真剣な眼差しでお皿を眺めていた。そこには大好きなハンバーグ。おはしでハンバーグを切り分け、私は隣に座る母のお皿に自分のハンバーグを半分乗せた。付け合わせのブロッコリーも乗せた。にんじんは全部乗せた。母は驚いて私を見る。
「どうしたの? お腹痛いの?」
私は首を横に振る。じゃあ自分で食べなさい、好きでしょう、と言う母に、私は頑なにそれを拒絶した。困惑したように母は私を見る。あっと兄が声を上げた。
「もしかして、おかあさんを太らせたいの?」
一瞬、何のことか分からないようにきょとんとして、そして母は大きな声で笑った。兄も私を見て笑っている。何を笑うか。もし痩せてしまったら母は月に帰るんだぞ。それでいいのか。いいわけないだろう。
「だいじょうぶだよ。ちょっと痩せたくらいじゃロケットには乗れないから」
ちょっとくらいじゃだいじょうぶって、そんな答えで安心できるものか。もっと真剣に考えろ!
「どのくらい?」
私の真剣な問いに、兄は腕を組んで考えると、
「半分くらいにならないとロケットには乗れないね」
と断言する。はんぶん、か。私は母を見る。比較的丸い。これが半分になるとなれば、かなり骨と皮だ。つまり、だいじょうぶかどうかは、おおむね見ればわかる。母はまだ丸い。丸い母はロケットに乗れない。
「私はいっぱい食べてるから、心配しないで自分のを食べなさい」
母は私の頭を撫でた。私は母のお皿から自分のハンバーグを取り戻し、元気よく手を合わせて言った。
「いただきます!」
にんじんを戻さなかったことはすぐに露見した。
「子育てしてよかった、ってそのときすごく思ったわぁ」と当時を述懐する母の談。