二〇二三年一月三日
新春幻想。
気が付けば二○二二年が終わっていましたよ。本当に? ウソなんじゃないかな? ほら、西日本はまだ二○二二年なんじゃない? 時差の関係で。そうだそうに違いない誰かそうだと言ってあるいは一月四日が唐突に国民の祝日になれ!
時間は平等で、残酷だ。何をしても、何もしなくても過ぎ去っていく。ちょっと待っては通用しない。ちょっと待ってって言いたくなる場面はいくらでもあるけどね。何を間違えて私は今ここにいるのか。この場違い感はどれほど遡れば解消されるんですか? 知らんがな? おっしゃるとおり。
私はこの一年で何をしたのだろう。三年で、五年で、十年で、何をしてきたのだろう。実に面白いことに、何も思いつかない。私は私の過去を語ることができない。まるでフィクションの登場人物のようだ。彼らは描写される以上の情報を持たない。存在しない情報を語ることはできない。空想と現実の区別がついていない、という言説は批判的な文脈で耳にすることが多いが、私はまさに空想と現実の区別がついていないのかもしれない。私は私の実在性を未だ確信できない。私は現実に存在しているだろうか? 私の実体が現実ではなくフィクションの中にある、というのは可能性として十分あり得ることではある。もしそうだとすれば、現実の私は『偽物』だろうか。この違和感を説明するにはちょうど良い言葉ではありそうだ。
恋愛おみくじ、なるものを引いてみた。結果は末吉。『吉』ではあるので喜ぶべきだろうか? 『末』なのでダメだろうか? 新年のおみくじは凶や大凶を抜いている、という噂もあるので、実質的には最低ランクかもしれない。私自身の状況に照らして適切な結果だと言えなくもない。
私はまず出会わず、出会っても価値観のすり合わせに失敗するらしい。笑ってしまうほどピタリと当たっている。現実を直視せよと神様にまで言われているのだろうか? 新年早々手厳しいことだが、長年の怠惰のツケを払わねばならない時期なのだということかもしれない。ぼんやりと生きてきてしまったから。まあしかし、今更だ。私なんてそんなもんですよ、神様。
箱根駅伝を見る。つい、心の中で頑張れ、と思う。タイムとか順位とかよくわからないしどうでもよいが、怪我なく無事に完走して欲しい。どうか思いを残さぬように。
誰もが思いを残さぬように。
誰もが苦しまずにいられますように。
誰もが幸せにあれますように。
本年もどうぞよろしくお願い致します。