二〇二二年九月十日
小説って何だろう。文章で表現するとはどういうことだろう。そんなことを考えたり、考えなかったりしている。漫画ではない。アニメでもない。実写でもない。舞台劇でもない。朗読劇でもない。文字で書いて、読んでもらうという表現形式を選んだ。ならば文字で書くということそのものに、何らかの意味を見出すべきだろうか? 絵が描けなかったから小説を書いている? アニメやドラマを自主制作するのはハードルが高い? 舞台を一緒にやる仲間がいない? 朗読の技術はない? それは確かにそうかもしれないけれど、それだけが理由だとすると、消去法で残った手段が小説だった、ということになるのだろうか?
こっからは宣伝ね。苦手な人、嫌いな人は読まないが吉。
私、前にも言ったけど、トラック無双という連載を書いております。まあ好きにやりたい放題書いている作品なんだけど、ちょっと意識していることがありまして。この作品、小説という形式でないと成立しないんですよ、たぶん。アニメ化ドラマ化、絶対できない。やろうとも思われない、というのは置いておいて。小説以外の媒体にコンバートすると、おそらく破綻するか別物になる。なぜなら、この作品は『地の文がしゃべる』から。
トラック無双は『一人称傍観者視点』を採用している。いや、そんなカテゴリないと思うんだけど、そうとしか言えないのでそう呼んでいる。通常の一人称はだいたい物語の登場人物の視点がその心情と共に描かれる、と思う。しかしトラック無双は物語の外部にいる人物(正確に言うとその表現はやや語弊があるのだが)の視点で描かれている。『俺』は世界から隔絶し、物語に影響を及ぼすことができない。ただ物語の主人公であろう人物たちを外側から見つめ、彼らの冒険を描写し、ツッコミを入れる。『俺』のツッコミは物語に届くことはなく、『俺』とは無関係に物語は進んでいく。
一人称の物語をアニメ化できるのは、地の文を担うのが登場人物だからだ。地の文の情景描写や心情描写は絵と動きと間(他にもあるかもしれない)に変換されるが、小説で地の文を担っていた人物はアニメの中に必ず登場する。地の文で行われた描写は全て、その登場人物の表情、視線、動き、セリフで表現されることになる。でも、トラック無双の『俺』は物語の中に登場しないから、変換後に彼の表情、視線、動き、セリフを担う者がいない。小説の中には確かに存在した『俺』は、別の媒体にコンバートした瞬間に消えてなくなるのだ。
小説という媒体でしか表現できないことは、存在する。そう信じている。文字を追うことで産み出されるものがある。『絵にも描けない美しさ』を読み手に伝えられるのは小説だけだ。この物語は小説でなければならない、その理由があるものを書きたい。トラック無双のアプローチは邪道だろうけれど、私は小説を書いているのだと、消去法によって残った方法を採用したのではなく、自らの選択として小説を選んだのだと、胸を張って言いたいのだ。だから試行錯誤は続けていこうと思う。トラック無双は私の初めての連載作品であると共に、壮大な実験作でもあるのだ。
まあでも、小説でしか表現できないことって、普通は登場人物の内面を指すよね。




