二〇二二年七月二十四日
曲尾仁庵は信頼のない作家である。ここでいう『信頼』とは人間的なものではなくて物語の創作者としての信頼のことを指す。そもそもお前は作家じゃないだろうという的確なツッコミは今は忘れておくれよ。物語を創ってる人はみんな作家ってことでいいじゃん。
創作者としての信頼とは、その人の作品は私にとって「面白い」という読者の確信を得ていること、と考えよう。作者名が読者の安心材料として機能する、いわばブランディングと言い換えていいようなものだ。曲尾仁庵は信頼のない作家である、と言う時、それが意味するものは、曲尾仁庵はブランディングに失敗している、と同義である。
読者の信頼を得る方法は、連載をきちんと完結させた実績があるとか、更新頻度を高くして読者の「読みたい」に応え続けるとか、読者と交流して作者そのものを好きになってもらうとか、実現可能性を度外視すれば考え付くものはいろいろあるだろう。その中で自分に合ったもの、できそうなものを選択すればいいわけだ。
で、ここからが本日の本題。曲尾仁庵が信頼されない理由を考えよう。私はもう手遅れだが、次代を担う若い人々に何か有益なものがあれば幸いである。ただ、ひとつはっきりとしていることは、有益性を求めるなら私の雑記など読むべきでないということなのだが。
先ほど、創作者としての信頼とは、その人の作品は私にとって「面白い」という読者の確信を得ていること、と言ったが、重要なのは傍点部分、「私にとって」というところである。客観的に評価が高いとかは本質的な問題ではない。読者の興味は最終的には「私が面白いと思うかどうか」にしかない。そしてそれは、同一作者の作品でも一方は面白かったけどもう一方は面白くなかった、ということがあり得るという意味で、本来は作品単位で判断されるものだ。
しかし、ある作品が読者にとって面白いと判断された場合、同じ作者の別の作品を読もうとすることがある。いわゆる『作者読み』である。面白い作品を書いた作者の別の作品も面白いのではないか、という推測が働くわけだ。そして実際に読んでみて、面白ければ読者はその作品ではなく作者を信頼するようになる。
だとすれば、作者が信頼されることに最も重要なのは、作品傾向を揃えることである。特定のジャンルに絞って書く、ハッピーエンドにする、など、最初の作品で満たした読者のニーズを次の作品でも必ず満たす作品群を作る。少なくとも最初の作品から数作品は同じ系統でまとめる。系統が異なる物を書いたら別のシリーズとして明示する。そういう地道な努力が信頼の獲得には必須なのである。まかり間違っても私のように、ギャグテイストの作品の次にバッドエンドの作品を書いたりしてはいけないのだ。
分かってんならやれよって話である。むざむざ失敗を繰り返している私が言っても説得力は皆無である。でもね、言うは易しの言葉の通り、実際にやろうとすると結構大変なんすよ。好きに書けなくなるんすよ。話の内容以外のところをいろいろ考えないといけなくなるんすよ。自己管理ができないと無理なんすよ。
そんなわけで、曲尾仁庵は今日も信頼されない作家です。私のようになるな! にあんとの約束だぞ!




