二〇二二年六月三日
私が書く物語の登場人物には名前がないことが多い。青年、少年、あるいは王、令嬢、聖女に魔女、天使。年齢区分又は性別、地位、職業で表される人々。それは私が名前を付けるのが苦手だから、ということはもちろんあるのだが、それだけが理由、というわけでもない。おそらく、私はキャラクターから物語を創っていないからだ。
キャラクター、とは、つまり人格である。いつかの時点で生まれ、自らの視座を獲得し、自らのように振る舞って、やがて死ぬ。人格は自らを目的とする存在であり、何かのための手段として存在するものではない。
一方で、物語にはキャラクターでない登場人物がいる。役割を担うための存在、何かの目的のために配置された人物。分かり易く言えば、話しかけると「ここはラダトームの町だよ」と答えてくれる青年の事である。え? 分かりづらい? くっ、これが世代間ギャップってやつかい。
役割を担うための人物は装置である。物語に配置された装置。彼らは役割を果たせば消え、その後に言及されることはない。作中で名前が設定されていようがされていまいが、役割によって配置されるものは全て装置である。
キャラクターと装置の違いは、役割との結合度だ。キャラクターも役割を担うが、役割とキャラクターは分離可能でなければならない。キャラクターは役割を果たし、あるいは果たせず、あるいは果たさず、役割を変え、役割を踏み越える。それはキャラクターが視座を持つ存在だからである。彼らは自らの前に立ち現れる現実を解釈し、再構築する力を持っている。だからこそ物語が生まれ、展開する。
装置は役割と不可分だ。ギルドを訪れた主人公に絡んでくるちんぴらは主人公に返り討ちにあわなければならない。主人公に負けそうになったときにとっさの機転で逆転劇を演じてはならない。未知の力に覚醒することもない。彼らは『無様に負ける』という役割を踏み越えられない。現実を解釈するための視座を彼らが持たないからだ。たとえ意思を持っているかのように描かれていたとしても、彼らに意思はない。淡々と登場し、役割を果たし、去っていくのみだ。
物語を創る時、私はたぶん、世界にキャラクターを配置するのではなく、役割を配置しているのだろう。彼はこういう人物だからこう行動するのだ、ではなく、こう行動するからにはこういう人物でなければならない、という形で人物を造形している。それは役割が先行し、かつ不可分であるということを意味していて、つまり私が書く物語の登場人物は、少なくともその出発点において全て装置である。
登場人物に名前を付けられない、ということの意味を考えてみる。名前を付けないということは、その人物が『個』性をはく奪されるということだ。抽象化されると言ってもいいかもしれない。青年は青年だが、『どの』青年かは提示されない。青年は装置であるから、役割さえ果たせば、青年は交換可能である。つまり、青年は『どの青年でもよい』。それはすなわち、青年は私でもいい、ということであり、青年はあなたかもしれない、ということだ。
私は普遍を描きたいのだろうか。そこのところはよくわからない。個を詳細に描きながら普遍を伝えることは、たぶんできる(私にできるかどうかは別の問題だが)。個を詳細に描けばリアリティは増すし、本来的に小説という媒体が目指すところはその方向なのではないか、という気もする。しかし、私はその方向に何となく馴染めないのだと思う。ぼんやりとした、ヴェールを一枚隔てた、抽象的な世界を好んでいる。そちらのほうがもっと『本質』に手が届く。神が細部に宿るなら、神を殺した先にある細部の溶けた世界を見たいと、そう思っているのかもしれない。
いつにも増してとりとめのない話。




