二〇二二年五月三十一日
惑わされるでないぞ。
己の信じる道を行くのじゃ。
文末の表現をもう少し考える。
「た」を重ねない、というルールは、本来的には「た」を重ねることを問題視しているというよりは、同じ表現が連なることを問題視している、と考えるべきかもしれないと思う。例を示そう。
「ねぇ、ネズミ。私ね、……」
シンデレラは困ったように目を伏せ、ゆっくりとネズミに近付く。ネズミは無言でシンデレラを見つめる。シンデレラがネズミの目の前に立ち、その顔を見上げる。手を伸ばせば触れられる距離。シンデレラは濡れた瞳でネズミを見つめ、そして――
シンデレラの右手が跳ねるように動き、ネズミの喉を切り裂くべく襲い掛かる。その手には手品のように銀の短剣が握られている。ネズミはわずかに身を引いて刃を避ける。シンデレラは短剣を翻し、一歩踏み込んで心臓を抉らんと迫る。身をよじってそれを躱し、シンデレラの右手首をつかむと、ネズミは感嘆したように笑う。
「殺気ゼロから殺りに来るかい。相も変わらず恐ろしいねぇ」
どういうシチュエーションだよ。シンデレラがネズミに秘密を知られ、口を封じようとしている場面ですね。ああ、あの、ワイヤーアクションで有名な?
まあ、アクションの描写がヘタクソだとかはともかく、注目すべきは文末である。一部例外もあるが、基本的に「る」または「う」段で終わっている。どうだろう、違和感を覚えるだろうか。それとも気にならない?
比較対象として「た」で終わるバージョンも見てみよう。
「ねぇ、ネズミ。私ね、……」
シンデレラは困ったように目を伏せ、ゆっくりとネズミに近付いた。ネズミは無言でシンデレラを見つめていた。シンデレラがネズミの目の前に立ち、その顔を見上げた。手を伸ばせば触れられる距離。シンデレラは濡れた瞳でネズミを見つめ、そして――
シンデレラの右手が跳ねるように動き、ネズミの喉を切り裂くべく襲い掛かった。その手には手品のように銀の短剣が握られていた。ネズミはわずかに身を引いて刃を避けた。シンデレラは短剣を翻し、一歩踏み込んで心臓を抉らんと迫った。身をよじってそれを躱し、シンデレラの右手首をつかむと、ネズミは感嘆したように笑った。
「殺気ゼロから殺りに来るかい。相も変わらず恐ろしいねぇ」
どうだろう。何か見えるものがあるだろうか。
私の見解を言うと、まず、この場面の描写として「た」を重ねる書き方は不適格だろうと思う。リズムが悪くなっているだけで、何か伝わるものがあるような気はしないし、伝わるべき秘めたものもなさそうな気がする。うまくいっていない感じが伝わってくる。
では前者の「る」を重ねる書き方はどうか。「た」を重ねるよりもマシな気はするが、あんまり気に入らない。場面が流れ過ぎている。リズムが単調になっている。
じゃあどうすれば気に入るん? ということになるのだが、個人的にいい感じなんじゃないかという書き方はこうだ。
「ねぇ、ネズミ。私ね、……」
シンデレラは困ったように目を伏せ、ゆっくりとネズミに近付いた。ネズミは無言でシンデレラを見つめる。シンデレラがネズミの目の前に立ち、その顔を見上げた。手を伸ばせば触れられる距離。シンデレラは濡れた瞳でネズミを見つめ、そして――
シンデレラの右手が跳ねるように動き、ネズミの喉を切り裂くべく襲い掛かる。その手には手品のように銀の短剣が握られていた。ネズミはわずかに身を引いて刃を避ける。シンデレラは短剣を翻し、一歩踏み込んで心臓を抉らんと迫った。身をよじってそれを躱し、シンデレラの右手首をつかむと、ネズミは感嘆したように笑った。
「殺気ゼロから殺りに来るかい。相も変わらず恐ろしいねぇ」
なんか落ち着きがいい。アクションとしてはもう少しサッと流れてほしい気もするが、それはおそらく文末の問題ではない。
基本的に「た」と「る」が交互に現れる。この構成が示すものは、たぶんだが、描写のグループ化だ。「る」は次の文との関連を強く示唆する。「た」は次の文との関連を絶つ。「る」で流れ、「た」で止まる。それがリズムを作り出す。
別に交互に書けと言っているわけではない。「る」と連続させれば、次に「た」が現れるまでの文が一つにグループ化される。「る」が連続する限りは場面は流れていくので、動作に切れ目がないことを示すにはよいかもしれない。感覚的にはアクションシーンの無酸素運動中は「る」を連ねたほうがいいような気がする。ちょっとやってみよう。
「ねぇ、ネズミ。私ね、……」
シンデレラは困ったように目を伏せ、ゆっくりとネズミに近付いた。ネズミは無言でシンデレラを見つめる。シンデレラがネズミの目の前に立ち、その顔を見上げた。手を伸ばせば触れられる距離。シンデレラは濡れた瞳でネズミを見つめ、そして――
シンデレラの右手が跳ねるように動き、ネズミの喉を切り裂くべく襲い掛かる。その手には手品のように銀の短剣が握られていた。ネズミはわずかに身を引いて刃を避ける。シンデレラは短剣を翻す。ネズミが身をよじる。短剣が空を切り、ネズミはシンデレラの右手首を掴んだ。
「殺気ゼロから殺りに来るかい。相も変わらず恐ろしいねぇ」
……うまくいってる? いってないかな? いったことにして。前よりも経過時間が短いような気がしない? もうちょっとやりとりが増えないとダメかな?
アクションとしてはシンデレラの右手が動いてから右手を掴まれるまでが一連の流れなんだけども、手の短剣にフォーカスしているところで映像が一瞬止まる(あるいは遅くなる)ので文末は「た」になり、ここで一度場面の流れは途切れる。「る」と「た」の使い分けは動作としての連続性ではなく場面(あるいは映像)としての連続性だということだ。つまり、見せたい単位。「た」はその単位が終わったことを読み手に伝える。読み手は「た」の出現によって描写を評価する。「何が起こったのか」を読み手が判断するタイミングとして「た」は機能する。
そうだとすると、「た」が連続する場合の気持ちの悪さの正体も見えてくる。「た」が連続するとは、一文ごとに読み手が描写の評価を迫られるということだ。一文の情報量がものすごく多いならともかく、短い一文で描写を評価するのは難しい。そうすると、その一文の奥に隠された意味を想像したくなる。しかし想像するためのよすががないためにモヤモヤすることになる。
逆に「る」が重なり続けると、読み手は描写の評価のタイミングを与えられない。「何が起こったのか」を評価したいのに、「いや待て! まだ言い足りないことがある」と言われ続けているようなものだ。明らかに時間が経過しているのに描写を評価できないのはストレスになり得る。読み手から評価されない描写は緊張感を失い、冗長な印象だけが残る。
とまあ、つらつらと書いてきたが、ここらで結論といこう。今回の結論は、
私は「る」が連続する書き方はあんまり好きじゃない
です。結局好き嫌いですよ。感情のままに書くがよろしかろうと存ずる。
信じるか信じないかは、あなた次第です。