二〇二二年五月二十九日
季節感がないなぁ。
サンタクロースが来る、というのは子供にとってなかなかに重要なことでございまして。なぜならサンタクロースは『良い子』の許にしか訪れないから。すなわちサンタクロースの来訪とプレゼントの授与(下賜?)は、子供にとって一年間の行動に対する第三者的評価を意味しているのだ。サンタクロースが来なかったら、それは『悪い子だったから』であり、サンタクロースのプレゼントが希望と異なるのであればそれは『良い子度が低かったから』。サンタクロースが『良い子に望む物を与える』というゲームであるなら、プレゼントの有無や質は『良い子』の達成度を反映している。少なくとも「サンタクロースは『良い子』の許にしか訪れない」と伝えることは、言う側の意図に関わらず、子供にそういう意味を伝える。
私の年齢がまだ一桁だったころ、サンタクロースにとあるおもちゃをお願いしていたことがある。決して安くはないそのおもちゃを手に入れるため、私は日々サンタクロースにお願いし、宿題を片付け、お手伝いに励み、夜更かしもしなかった。さあサンタよ、非の打ちどころのない良い子の私に、望む宝を与え給え!
そして十二月二十五日の朝。枕元にぶら下げた靴下はからっぽで、靴下とは無関係な場所に一つの箱が置かれていた。しまった、おもちゃの大きさを考えていなかった。このおもちゃは靴下に入る大きさではなかった。ごめんなさいサンタさん気がきかなくて。でもよかった、靴下に入らないから回収しましたってならなくて。サンタの柔軟な対応に感謝しつつ、私は箱を開けた。
――コレジャナイ
私が願ったのは、この箱に入っていたものとは違っていた。いや、似てはいる。機能的には同じと言っていい。私が望んだのは二つの機能が一つに統合されたおもちゃで、箱に入っていたのはそれぞれの機能を持つ二つのおもちゃだったのだ。言うなれば、テレビデオが欲しいと言ったらテレビとビデオをもらったようなものだ。実際、テレビデオはテレビ機能が壊れると自動的に両方の機能が使えなくなるので、テレビとビデオは別々のほうが良い。いや、テレビデオのことはこの際どうでもいいのだが。
私はしょんぼりとした。サンタにお願いをしてから今日までの、あの努力では足りなかったというのか。私は『良い子』たり得なかったのか。みじめだった。涙が出そうだった。鼻水が出た。
そのとき、箱のふたの上に一通の手紙があることに気付いた。箱の中身ばかり気にしていたので気付かなかった。私は封筒を開けた。そこには私の兄の文字とそっくりの筆跡で、こう書かれていた。
『きみがほしがっていたおもちゃとはべつのおもちゃをとどけることになって、ごめん。じつは、きみのいえにプレゼントをとどけにいくとちゅう、トナカイがおおきなくしゃみをしてしまって、ふくろにいれていたプレゼントがじめんにおちてしまったんだ。あわててひろったのだけれど、よういしていたきみのおもちゃはこわれてしまった。かわりをさがすじかんもなくて、にたものをよういするのがせいいっぱいだったんだ。どうか、がっかりしないで、うけとってほしい』
なんだ、と私は思った。なーんだ、そうだったのか。私が良い子じゃなかったからじゃないんだ。トナカイのせいだったんだ。そりゃしょうがないや。トナカイだってわざとくしゃみをしたわけじゃないんだし。私はホッとした。涙は流さずに済んだ。鼻水はティッシュで拭いた。そして私は手紙の最後に、ちょっと衝撃の一文を見つける。
『三太より』
サンタってかんじでかくとそうなの!?
もう良い子とか悪い子とか、プレゼントがどうとか、そんなこと全部吹っ飛んで、私はサンタが『三太』という日本人だったという驚愕の真実を知ったのだった。




