二〇二二年五月二十七日
睡魔には勝てぬ。
小説の作法について語りたい。語りたいが、語ることができるものがない。なんかこう、小説とはかくあるべし、みたいなことが言えたらいいのに。でも根本的に私は、
好きにすればいいじゃん
と思っているから、言えることが何もない。
文末の作法について、「○○た」という表現を連続して使わない、というものがあるらしい。彼は言った。私は答えた。彼は苦い表情を浮かべた。私は空を見上げた。文末が全て「た」で終わっているのはよくない。へぇ。
言わんとしていることはわかる、気がする。リズムがたどたどしい。スッと流れていかない。何かが引っかかる。そう言われれば確かにそうだ。そうなんだけども……
私、この「た」が連続する書き方、ちょっと好きだったりする。なんだろう、言葉には現れないノイズのようなものが伝わる気がするのだ。リズムが断ち切られ、ぽつりぽつりと物語が紡がれる。ぎこちなく一歩ずつ進んでいく。なぜぎこちないのか。どうしてリズムが断ち切られているのか。それは、途切れた言葉の間に示されない何かがあるからだ。拒絶、孤独、建前の裏、秘めた想い。そこには伝えたくない言葉が隠されている。そしてそれは、ざらっとした不穏な気配を伴って伝わるのではないか。表層に現れている言葉は真実を表してはいないのではないか、という不安を、読者に与えているのではないか。
「本当にいいの?」
彼は言った。
「終わったことだよ」
私は答えた。
彼は苦笑いを浮かべる。
私は空を見上げた。
「本当にいいの?」
彼は言った。
「終わったことだよ」
私は答える。
彼は苦笑いを浮かべた。
私は空を見上げた。
「本当にいいの?」
彼は言った。
「終わったことだよ」
私は答えた。
彼は苦笑いを浮かべた。
私は空を見上げた。
伝わるものが違わないだろうか。「終わったことだよ」という言葉の意味が変わっていないだろうか。彼の苦笑いに別の色が混じっていないだろうか。
……
あれ、気のせい?




