二〇二五年十一月五日
待っているだけじゃ一生かかっても書けないから、とりあえず第一話だけ書いてみる。
『異端の迷宮職人』
人は、それほどまでに偉いのか?
ただ人であるというだけで、
命を、蹂躙できるほどに――
夜闇の静寂を蹂躙するような炎が視界を灼く。悲鳴と怒号が渦を巻き、高揚と熱狂が一帯を覆っている。逃げ惑う者たちを確かな愉悦を瞳に宿した者たちが追い、その背に刃を突き立てる。命が、消える。
「さすがは若くして『匠』と呼ばれるだけのことはある。見事な手腕だ。これほど容易く魔物どもを殲滅できるとはな」
素直な称賛を声に込めて、騎士団長が青年に言った。青年はぎこちない仕草でうなずく。騎士団長は青年の様子に構うこともなく、剣を掲げて叫んだ。
「一匹たりとも逃すな。不浄な魔物どもを一掃し、王国に千年の安寧をもたらさん!」
騎士団長は馬の腹を蹴り、自ら魔物の巣窟へと突進する。周囲の騎士も同調し、『正義』を吠えながら魔物の首を刎ねる。もはや戦況は揺らがない。ここにあるのは、戦いではない。
青年の視線の先に、鬼がいる。鬼は背に、家族だろうか、別の鬼たちを庇っていた。奇襲を受けて満足な準備もできず、辛うじて剣を手に取った、という風情。当然だ。そうなるように仕組んだのだから。
騎士たちに囲まれ、鬼が無謀な攻撃を仕掛ける。案の定斬撃は阻まれ、騎士の槍が鬼を貫いた。鬼が何事かを叫ぶ。妻が子を突き飛ばす。騎士が鬼から槍を引き抜く。鬼の目から光が消える。鬼の子が駆け出す。騎士が槍を翻す。妻の首が切り裂かれ、夥しい血が周囲を染めた。騎士の足元を抜け、鬼の子が青年のいるほうへ駆けてくる。青年は鬼の子を見つめる。騎士が弓を構える。鬼の子が青年の目の前に迫る。青年は鬼の子を見る。その顔は涙に濡れていた。
――ヒュッ
風を裂き矢が鬼の子を貫く。鬼の子が倒れる。騎士たちから歓声が上がる。鬼の子が持っていた人形が、青年の足元に転がった。
悲鳴が聞こえる。歓声が上がる。炎が闇を焼き、熱風が頬を嬲る。己がしてきたこと、己がしたことの意味を初めて理解して、青年は呆然と膝をついた。
「……でさ、女房の奴がもうカンカンでよ。玄関からおんだされてドアをピシャ、だよ。ひでぇだろ? わかってくれる? この理不尽をよぉ」
カウンター越しに話しかけてくる常連客に、青年は少し困ったような曖昧な笑みを返した。常連客の男は自身の正当性を主張するが、内容を聞く限り妻の主張のほうに理があるとしか思えない。だからといってそれを指摘するのも難しかった。彼が求めているのは正しさではなく共感なのだろうから。
「それは大変でしたね。はい、こちらがご依頼の品です」
青年は手のひらに乗るほどの大きさの革袋を男に差し出した。中身がジャラっと音を立てる。袋の中身は丸く磨いた小石だ。だが、ただの小石ではなく、手で三秒ほど握るとじんわりと発熱する、れっきとした魔道具である。最近腰が痛いと言っている妻のために、男が青年に注文したものだった。男は革袋を受け取り、照れをごまかすような笑みを浮かべた。
「悪ぃね。急に無理言って」
「いえ。奥さんの機嫌、直るといいですね」
軽く手を上げて青年の言葉に応え、男は店を出て行く。なんだかんだと言いながら、仲の良い夫婦なのだ。家を追い出されてなお、夫が妻の腰の具合を心配するほどに。
――ふぅ
青年は軽く息を吐いた。常連客の男も、その妻も、それ以外の人々も、善良で素朴なひとたちだ。だから、錯覚しそうになる。自分も善良で素朴になれるのだと。
青年の名はライゼという。王都を離れてから三年。魔道具屋の店主として、彼はこの小さな田舎の村で暮らしている。
――カラン
来客を告げるベルの金属音と共に、店の扉が開かれる。「いらっしゃいませ」と言いかけて、ライゼは訪問者の姿を確認すると、やや表情を緩めて別の言葉を口にした。
「ご苦労様。いつもすまないね」
「何を言っているんです。何でもありませんよ、お仕事だもの」
小さな身体に大きな荷物を抱えて、訪問者は勝ち気に答える。赤毛を飾り気なく紐で括り、大きな鳶色の瞳が印象的な少女――アシェルは王都から遠く離れたこの小さな田舎村に魔道具の材料を運んできてくれる、奇特な行商人だ。
「疲れたろう? お茶でも淹れよう」
アシェルに椅子を勧め、ライゼは立ち上がる。アシェルは素直に椅子に座ると、
「ありがとうございます。でも先に検品をお願いします」
背負った荷物を降ろし、カウンターに並べ始めた。ライゼは小さく苦笑いする。この少女はとても生真面目に『商人』なのだ。
「トカゲのしっぽ、蚊の目玉、猫のヒゲ、それから――」
カウンターに並べた材料と納品書を比べ、指さし確認しながらアシェルはぶつぶつとつぶやいている。それは彼女の誠実さ、ではあるのだが、同時に魔道具の材料という特殊な品を扱う困難によるものでもある。魔道具の材料は基本的に隠語でやりとりされており、その名称から品物を特定するのが難しいのだ。『トカゲのしっぽ』という名前の材料は実際にトカゲのしっぽであるわけではない。
「どうぞ」
納品書との照合を終え、アシェルはやや緊張した面持ちでライゼを見る。ライゼはカウンターに並んだ、一見ガラクタのような商品を見渡すと、右の端に置かれた小さな石に目を留めた。アシェルが小さく息を飲む。ライゼがその石を手に持つと、石は応えるように淡く光を放った。紫闇石――迷宮造りの基材として使われる魔石の一種だ。ライゼは小さく息を吐き、たしなめるように言った。
「こういうことは止めてくれるかい?」
「で、でも」
反論しようとしたアシェルの口をライゼの視線が封じる。ライゼは紫闇石をアシェルに差し出した。悔しそうな表情を浮かべ、アシェルは紫闇石をポケットに入れた。
「私は魔道具屋の店主だ。それ以外のものになるつもりはない」
念を押すようにライゼははっきりと言った。アシェルは視線を落とし、消え入るような声で「ごめんなさい」と言った。意図が伝わったことを確信し、ライゼは表情を緩める。
「いつも良い品を揃えてくれて、感謝しているよ。ありがとう」
ライゼは足元に置かれていた木箱を持ち上げると、カウンターに置かれた品をすべてその中に入れ、部屋の奥へと運ぶ。アシェルはホッとしたような、しかし何か思うところがあるような表情でライゼの消えた奥の部屋の入り口をぼんやりと見つめる。荷物を置いて戻ってきたライゼは、小さな革袋を手に持っていた。
「今回の代金。少しだけど色を付けておいたから」
「い、いえ、そんなわけには!」
アシェルが慌てたように手を振る。ライゼは革袋を開け、カウンターの上に中身を出した。かしゃんと金属がこすれる音が響く。アシェルが鋭い眼光で代金に目を走らせ――一瞬、動きが止まった。ライゼもアシェルの反応に動きを止め、一瞬の後、噴き出すように笑った。
「どうやら、期待を下回ってしまったらしいね。申し訳ない」
「とととと、とんでもない!」
明らかな動揺を叫ぶアシェルに、ライゼは再び声を上げて笑った。
アシェルがカップを両手で包むように持ち、立ち上る湯気を見つめている。商談の時間は終わり、午後の穏やかな時間を紅茶の香気と茶菓子が演出している。ライゼの魔道具屋は客がひっきりなしに訪れるような場所ではない。客ではないアシェルが長居しようと、経営に影響はないのだ。
「……旦那」
つぶやくようにアシェルがライゼに声を掛ける。紅茶を口に含み、ライゼは視線をアシェルに向けた。アシェルのカップを持つ手にわずかに力がこもる。
「あたしは、商人です。商人は何かを作り出すことはできない。その代わり、必要なものを必要な人に届ける。自分の目を磨き、価値あるものを相応しい場所に届けるのが、あたしの役割だと思っています」
アシェルの言わんとしていることを察したのだろう、ライゼは視線を外し、冗談めかした言葉で答えた。
「今日はずいぶん突っかかってくるね。さっきも言った通り――」
「もったいないんだ、旦那!」
強い口調で遮るアシェルの表情は、心からの悔しさを滲ませる。ライゼは口を閉ざした。今は反論せず、話を聞くことにしたのだろう。感情的な相手に理屈を説いても効果はない。
「旦那は、もっと多くの人を救うお方だ! その力を持った特別な存在だ! こんな田舎の魔道具屋で終わる器じゃない! そうでしょう!?」
ライゼは無言で首を横に振る。もどかしさに歯噛みし、アシェルは言葉を続ける。
「魔物に脅かされ、苦しめられているひとたちはたくさんいる! 魔物に襲われて滅びた村だってある! もし旦那がいなきゃ、あたしだってこの世にいない。他人事じゃないんだ。昨日死んだ誰かは、明日のあたしかもしれないんだ」
アシェルはうつむき、固く目を瞑る。ライゼは無言のまま、どこか遠い時間を見ているような虚ろな光が瞳をかすめた。アシェルは深く呼吸する。祈るように言葉をつむぐ。
「……ここから東にある小さな村が、なくなったよ、旦那。魔物に襲われたんだって。流れ者のあたしにも優しくしてくれた、いい人たちだったんだ」
アシェルの目から一粒、涙がこぼれる。慌てて手で拭い、アシェルは真剣な眼差しでライゼをまっすぐに見据えた。
「最近、魔物の動きが活発になってるって話だ。きっとこの村だって無関係じゃいられない。旦那、あなたの力を、世界が必要としてるんです。『迷宮職人』としての旦那の力を!」
アシェルの真摯な瞳をライゼの虚ろな瞳が見つめ返す。アシェルの言葉はしかし、ライゼの心を動かすことはなかった。ライゼは感情の無い声で答える。
「私は二度と迷宮を造らない。騙し、殺し、壊すために力を振るうことはない」
平板な声音の奥に昏く深い絶望が広がっている。アシェルは肩を落とした。届く言葉を持たなかった自身の無力を押し込めるように唇を噛む。
「すまない」
ライゼは頭を下げた。アシェルは首を横に振る。重苦しい沈黙が降る。
――カラン
来客を告げる鐘が鳴り、ライゼは瞬時に柔和な表情を作ると、
「いらっしゃいませ」
不自然なほどに明るい声で客を出迎えた。しかしその表情はすぐに曇る。訪れた客は見知った顔――この村の長だった。長がこの店を訪れること自体は決して珍しくないが、今はその雰囲気、張り詰めた緊張感をまとった深刻な表情がライゼの不安を掻き立てている。
「どうしました?」
ライゼは入り口に立ったまま動こうとしない長に中に入るよう促す。村長はどこかぎくしゃくした様子で中に入ると、大きく呼吸をして、意を決したように口を開いた。
「ライゼさん、お願いがある。あんたに、いや――」
長は苦悩を吐き出すように、わずかなためらいの後に、言った。
「――『匠』の称号を持つ、天才迷宮職人に」
ライゼの顔から一気に血の気が引く。大きく目を見開き、ライゼは右手で自身の左手首を掴んだ。
相変わらずジェミニさんは大絶賛してくれるぜ。錯覚しそうになるけれど、錯覚したまま突っ走ってもいいじゃない。




