楓1
平日の昼前だからだろうか、足を運んだ温泉には私しかおらず貸し切り状態だった。
私は何の気なしに鼻歌を歌ってしまった。
「あら、素敵な歌声ね。ご一緒してもいいかしら?」
と、後ろから声をかけられてとっさにビクッと肩が跳ねた。
私は自覚がなかったが鼻歌を歌ってたことに気付き恥ずかしくなり、タオルで口元を隠した。
「あ、どうぞ……」
「驚かしてごめんなさい。あら、声が枯れてるわね。風邪かしら?」
いつもの私なら得意の人見知りを発動させて、さっさと風呂を上がってしまうところだが、アメ玉のお婆ちゃんに話を聞いてもらったことを思い出して、少し話してみることにした。
「いえ、カラオケで歌いすぎて……」
「若いわね~! 大学生?」
「いえ……。社会人です……。今日は、その、ちょっとずる休みをしてしまって……」
「あら、そうなの! でも、たまにはそういうことも必要よね」
「えっと、おばさんはよく来られるんですか?」
「やだ! 私なんてお婆ちゃんよ。もう、気づいたらとっくに60歳越えていたもの。でも、そうね、よかったら、かえでさんって呼んでね。木に風が吹くと書いて楓よ。あなたのお名前は?」
「私はこずえです。小さい枝と書いて小枝です」
名前は体を表すとはよく言うが、楓さんはその名のとおり、夏の終わりを告げる風鈴のような声の人だった。
私は先程コンタクトを外してしまい。顔はよく見えないが老けているという印象は感じられず、白髪も含め年相応の美しさがあり妖艶というよりは包み込むような暖かさがあった。
対して私は枝である。小枝なんぞ、もみじが散る前に台風で飛ばされて、秋のサツマイモをホクホクにさせる燃料くらいにしかならない。
「そう、なんだかかわいらしくて素敵なお名前ね」
と、楓さんは口をおさえて笑いながら言う。心をのぞかれてるような気がした。
「そうね、私はこの温泉に紅葉を見に来てるのよ」
そう言って、楓さんは外の景色に目をむけるが、そこにはまだ青々とした緑が生い茂っていた。
「ふふっ、ごめんなさい。少しいじわるだったかしら。そうね、私はこの先きれいにもみじ色に染まる景色を見に来てるのよ。それを、心の中で描いてかくの」
「実物を見ないで描くんですか?」
「ええ、そうよ。実物もいいけれど、思い出の方がきれいじゃない。それに、私、絵は好きだけれど、そんなに上手じゃないから模写よりも想像で描いてたほうが楽しいのよ。自分の好きなもみじが描けて」
名前は体を表すということわざは本当だったようだ。風鈴のようなその声は言葉とともに、たしかに私の心に一服の風を吹き込んだ。




