第2話 仕事ください
前回出したら、テキストがメチャクチャになっていました。
出しなおします。
「おとっつあん、ただいま。」
神田の金物問屋の店先をくぐって、奈美子が実家に顔を出したのは、その日の午後三時過ぎでした。
「おう、けえったか。まあ、お前もひでえメにあったが、いい勉強になったろ。」
甚目寺六太郎氏は、日に焼けた顔をほころばせて、小言一声・奈美子を迎えました。
「奈美子も、ちょうどいいから、いいヒト見つけて落ち着きなよ。」
甚目寺美和という洒落た名前の母親は、開口一番・おばさんなことを口にして、奈美子を家に入れました。
「またあ、母さんはそんなことを言うから、おばさんになるんだよ。」
「バカ言ってんじゃないわよ。正直屋の女将さんからも、お写真いただいてるんだから、いっぺんぐらい見たってバチゃあ当たらないよ。」
「はいはい、御店がつぶれて路頭に迷ってる娘に、ありがたいお小言、かっちけねえ。」
「ほんとにもう、この子は。なんか食べるかい?」
甚目寺美和さんは、母親らしく締めくくって、傷心の娘を迎え入れたのでした。
「正太郎は?」
「ばかやろう、営業に行ってるよ。」
店の方から六太郎氏の声がします。
「そうかあ。あたし、これから職探しに行ってくるよ。」
「いまから?よしなよ。あわてたってしょうがないさ。ご飯くらい食べさせてやるから、ゆっくし探しなよ。」
「そうでぇ、こんな時くらい、親に甘えたっておめぇ、明神さんのバチがくるわけじゃねぇぜ。」
両親の、口は悪いが心のこもった受け答えに、奈美子は心の中で手を合わせているのでした。
「そいじゃ、そうさせてもらうよ。なにしろ、いきなりビンボー人になっちまったから。」
「あんたの貯金は?」
「ぜーんぶ銀行。国の救済が降りるまで、行員には戻ってこないんだってさ。」
「なんだねえ、都合のいいときだけおだてといてさ、銀行さんも人が悪いもんだねぇ。」
「どこの銀行だっておんなじもんよ。借りてもらうときはへいこらして、返す段になるとオニみたいに掌返しやがる。
あたしゃ、いいかげんにいやになってたんだけどね。ほかに行く当てもなかったから、居ただけさ。」
奈美子はうんざりしたように言いました。
「こらこら、まがりなりにも、今まで食わしてくれた会社の悪口はいただけないぜ。」
六太郎氏は、上がり框から足を持ち上げながら言いました。
「でぇてぇお前が行きたいって言うから、しょうがねぇなって送り出したんじゃねえか。つぶれたって文句のもってきどこがねぇだろう?」
「まあ、そりゃあそうなんだけどね。」
「まあいいやさ。ウチの銭は戻ってきたしな。お国もたまには役に立つってもんさ。」
「あはは、おとっつあんにかかっちゃ、お国もかたなしだ。」
「今日はなんかおいしいものでも作ろうかね。奈美子は何食べたい?」
「う~ん、うな平のうなぎがいいなあ。」
「てぇ!この贅沢モンがあ。まいい、買ってきてやんな。」
「あいよ、おまいさん。」
「ああ、そいじゃあたしがお遣いに行って来るよ。」
「そうかい、そいじゃ頼もうかね。荷物置いたら、降りといでよ、お茶にすっから。」
「うん。」
とんとんと、階段を上がって、自分の部屋に荷物を下ろすと、とたんに安心感がどっと押し寄せて、奈美子は座り込みました。
長年住み慣れた狭い四畳半が、このうえもなく懐かしく、奈美子を迎えてくれたようでした。
くどくど口にしながらも、奈美子を気遣ってくれる両親にも、自然と頭が下がります。
家を出て、他人様のご飯を食べてきただけのことは、あったのではないでしょうか。
奈美子が着替えて買い物に出ると、なじみの八百屋がなくなって、コンビニになっていました。
店のカウンターには、バイトとおぼしき人影と、見知った顔がありました。
「公平ちゃん、こんちわ。」
「あれ?奈美ちゃん。ひどい目にあったんだって?たいへんだなあ。」
「平気よぉ。あたしには帰る家があるもん。家のローン持ってるヒトなんか、ヒサンなもんよ。」
「そうだよなあ。なんとかなんねぇのかな、この不景気。」
「ってわりには、不景気なツラしてないよ。」
「まあな、八百屋ぶっつぶして、コンビニにしたら、売り上げ倍になっちまってさ。親父なんかグウのネも出ねえよ。」
「あはは、そりゃあよかった。あんたも、商才があったんだよ。」
「ちげぇねえ。おう、これ持ってきなよ。辻屋のおやじさんにゃ負けるけど、けっこう評判いいんだぜ。」
そう言って公平は、おでんを包んで持たせました。
「いいのかい?商売モンを。」
「ばかやろ。心配すんなよ。しばらく居ンだろ?後で飲もうぜ。」
「新婚のかあちゃんが心配するようなこと、言うもんじゃないよ。」
「何言ってやがンだか。鉄ちゃんとか誘ってさ、やろうぜ。」
「ああ、いつでも居るから、呼ンどくれよ。なんせ無職渡世だからさ。」
幼なじみの気軽さで、世間話がはずんで、ついつい長居をしてしまい、新婚のお嫁さんにいやな顔をされてしまいました。
「なんだねえ、公平ちゃんのとこ、おめでたなんだってねえ。」
台所で三つ葉をきざみながら、母親に聞きました。
「ああ、そうだねえ。花ちゃんが言ってたよ。計算が合わないような子供、作るモンじゃないってさ。あんたは、そんなことないだろうね。」
「あはは、バカ言ってるよ。そんなヘマしやしないさ。おとっつあんが怖いもの。」
「だよねえ、あの人もカタいからねえ。」
「鉄ちゃんとか、どうなんだい?」
「どうって?あの子は浮いた話ひとつありゃしないさ。名前の通りカタいからねえ。」
「確かに石頭だったけどさ。」
奈美子は額をさすりながら、昔を思い出していました。
「バカ言ってンじゃないよ、ほら、お吸い物あがったよ。」
「は~い。」
奈美子は、お吸物のお椀に三つ葉を散らして、卓袱台に運びました。
「あれえ、おとっつあん、熱燗つけなくていいの?」
「夏過ぎたとは言え、このクソ暑いのに、熱燗もねえだろ?」
「ちげぇねえ。どれ、あたしにも一杯ちょうだい。」
「こいつめ、ほれ。」
苦笑いしながらも、六太郎さんは奈美子の差し出したグラスに、ビールをついでくれました。
「姉ちゃん・底なしなんだから、今のウチに公平ちゃんとこから、追加たのんどいたほうがいいぜ。」
「バカだねこの子は、タダ酒だったらいくらでも呑んでやるけど、家の酒なんか、のどしめったらそんだけでいいんだよ。」
「ちぇ、所帯じみたこと言っちまってさ。」
明るい笑いのこだまする食卓でした。
夕食が済んで、一息入れた頃、茶の間の電話が鳴りました。
今はなつかしい、ダイヤル式の黒電話が、現役で活躍する甚目寺家でした。
「奈美子ー、電話だよー、公平ちゃん。」
「はーい。」
階段を駆け下りて、電話に出ます。
「はい。あら公平ちゃん。どうしたの?」
「どうしたもこうしたもねぇよ。黒猫にいっからさ、すぐ来いよ。」
がちゃりと電話が切れて、奈美子はあきれた顔で受話器を見つめていました。
「なんだい?公平ちゃん。」
「黒猫にいっから、すぐ来いってさ。」
「なんだねえ、公平ちゃんもお嫁さんもらっても、かわらないねえ。」
「ほ~んと、じゃあ・ちょっくら行ってくるわ。」
「遅くならないようにね。」
「わかった。」
ご近所の気楽さで、横町を抜けたところの『スナック黒猫』には、おなじみの面々がそろっていました。
「もう、公平ちゃんったら、用件だけ言って切っちまうんだもの、今時の若い娘じゃないんだからワンギリはやめなよ。」
「ほえ?今時の若い娘がなんか言ってやがるぜ。」
「あたしゃ、そう言う流行には、とんと興味がござんせん。」
「よう、ナミちゃんとこの銀行、なんでツブれたんだい?」
「鉄っちゃん、そりゃあ聞かぬがハナだぜ。」
「そうは言ってもよう。ニュースじゃわからんもん。」
魚屋の鉄は、鉢巻きの後を残した頭をかきつつ、ビールに手を伸ばしました。
「まあ、そうだよね。いいかい、ウチの銀行の頭取が、愛人こさえたと思いねぇ。」
「ふんふん。」
「その愛人ってぇのが、カネのかかるオンナでさあ。」
「ふんふん。」
「頭取、店のカネに手ェつけやがって、それがバレちまったんだけど。」
「ふんふん。」
「つぶれた原因は、ヤクザに貸した金が、回収できなかったからだよ。」
「なんだそりゃ~!」
「はいはい、タダ酒飲ましてくんな。」
やたらと盛り上がって、『黒猫』は大騒ぎになりました。
「あたし、もう寝るわ。」
奈美子は、頃合いを見計らって、ドアを開けました。
「あ・送ってくよ。」
後から鉄が付いてきます。
「いいよ、すぐそこだから。」
「まあ、そう言うなよ。」
鉄は、そろりとドアをくぐって、出てきます。
「大変だけど、がんばれよ。」
「まあね、ウチがつぶれた訳じゃないから、食うには困らないさ。」
「そりゃそうだけど、なあ、奈美子。」
「なんだい?」
「おまえ、魚屋の女房はいやか?」
「なんだい、藪から棒に。」
「どうなんだよ、いやか?」
「まあ、いやはないけど、考えとくよ。」
「そうかい…」
立ち止まった鉄を残して、奈美子はさっさと家に入りました。
「早かったねえ。」
「ああ、まあね。」
「どうしたんだい?鳩が豆でっぽくらったみたいな顔してさ。」
「いま、鉄っちゃんにプロポーズされちまった。」
「なんとまあ、こんな男みたいな娘の、どこがよくてねえ?」
「それが母親のセリフかい?」
「あはは、まあ、鉄っちゃんなら気心も知れているから、いいんじゃないの?」
「う~ん、考えとく。」
奈美子は、頭をかきながら、二階に上がっていきました。
「ほんとにねえ、もらってくれるんなら、うれしいけどねえ。」
美和さんは、アゴに指を添えながら、二階を見上げていました。
「結婚ねぇ、あいつと一緒になるつもりだったから、考えてはいたけど、いきなり風をくらって逃げられたんじゃ、二の足踏んじゃうよねえ。」
奈美子はいきなりの事態に、顎に手を当てて考えました。
確かに、男を見る目がなかったと、思い知らされてしまいます。
「かっこいいとか、洒落ているとか、男の値打ちって、そんなもんじゃないよね。」
真面目なジャガイモが、鉢巻きをしているような、鉄の顔を思い出しました。
「魚屋の女房かあ、けっこうあたしに似合ってるかもね。」
カールのかかった髪を指にからめながら、奈美子は空を見つめました。
突然、透吾の顔を思い出し、苦笑します。
「逃げた男の顔じゃなくって、あの人の顔を思い出すなんざ、あたしもけっこう浮気者だ。」
二日目にしてすっかり気持ちの離れてしまった男のことなんか、思い出したくもありませんでした。
何があっても朝はやってきます。
「おはようございます!」
ばかでかい声に、家中がたたきおこされてしまいました。
いろいろと考えているウチに、眠りこけてしまった奈美子は、眠い目をこすりながら階段を降りました。
「なんだよ鉄っちゃん、こんな朝はやくからよぅ。」
奈美子はぶつぶつ言いながら、玄関の鍵を開けて、引き戸を開きました。
「はえ?」
鉄男は、この暑いのに、紋付きの羽織袴で、鯛の尾頭付き持参で玄関に立っていました。
「ば・ばっかじゃないの?何よ、そのかっこうは。」
「おまえの親父さんに、挨拶にきた。」
「やめてよ。考えさせてって言ったじゃない。いきなりそんなことされても、こまっちまうよ。」
「そうは言うけど、ケジメつけなきゃよ。」
「あんただけケジメつけて、どうするのさ。あたしの気持ちは、どうなるのさ。」
「…」
鉄男は、黙って奈美子をみつめていましたが、ひとつため息をついて、くるりときびすをかえしました。
「わかった。出直してくる。」
奈美子はほっと一息、ため息をつきました。
「いい奴なんだけどねえ。気が短いって言うか、そそっかしいと言うか。」
「どうしたんだい?今の、鉄ちゃんだろ?」
「そうだよ。紋付きなんか着てさぁ。あわてもんだよねえ。」
「ふうん、本気だったんだねえ。」
美和さんは、鉄男の後ろ姿を眺めながら、独り言のように言いました。
奈美子のできる職探しなんて、せいぜいハローワークに行って、話を聞くことと、就職情報誌を読む程度でしかありません。
奈美子は、ハローワークの近くで、就職情報誌を二冊ほど買い込んで、ぶらぶらと歩き始めました。
「あ・浅草の観音さんだ。」
あてもなく歩いているうちに、奈美子は浅草まで来ていたようです。
神田からは三~四キロありますよ。
仲見世は、いつも通りのにぎわいで、おのぼりさんや、近所のお年寄りがうろうろしています。
「おせんべいでも、買って帰ろうかな?」
浅草寺境内は、平日の昼頃だというのに、たくさんの人が行き交っていますが、ふと、石畳の道に、知った顔を見たような気がしました。
「あれ?」
石畳の道で、鳩に餌をやっているのは、透吾でした。
「あれぇ?奈美子はん。どないしやはったの、こんなところで。」
「透吾さんこそ、どうしたのよ。今日は仕事じゃなかったの?」
「まあね、ちょっと気分転換。」
「ふうん。」
「鳩の餌、あげてみる?」
「そうだな…」
奈美子は、素直に鳩の餌を受け取って、そこいらに蒔いてみました。
くるっくーと言いながら、ハトが集まってきて、奈美子のまわりを歩きます。
「のどかなもんだねえ。」
「そうやね。なんか飲む?」
「この男は、昼間っから呑む話かい?」
「あ、あのねえ、お茶でも飲むかって、聞いてるんやけど。」
「あ?あはは、いやあ、あんたの顔見てると、酒のことしか思い出さなくてさあ。」
「パブロフの犬かい!」
透吾は迷惑そうな顔をしてうなりました。
ハトの餌を、まわりにばらまいてしまうと、奈美子は透吾の後について歩き始めました。
浅草商店街の一角で、小さな喫茶店に入った二人は、すみの席に座りました。
「なんや、就職情報誌かいな、ええ仕事あった?」
「なんだかさあ、ずっと同じ仕事してきたから、なにやっていいのかわからないんだ。」
「ふうん。事務系?」
「そうだね、でも窓口はもういやだなあ。けっこう、いやな客っているんだよね。こう、ねちねちとさあ。」
「ふうん、給料はどのくらい?」
「贅沢言わない。食べて、アパート借りられるくらいあれば。」
「欲がないねえ。」
「しょうがないよ。中途採用で、たいした資格を持っているわけじゃないもの。」
「運転免許は?」
「一応持ってるよ。ほとんどペーパーだけど。軽自動車くらいなら、運転できるよ。」
「そう?それならけっこう幅があるんやないの?」
「なんだよ、運送屋でもやれってか?」
「いやいや、書類届けたりするとき、車に乗れると便利やん。」
「まあ、そうだな。」
二人は、就職情報誌を挟んで、真剣に検討していました。
「あ・いたいた、ここじゃないかと思ったんですよ。」
そこに女性の声が割って入りました。
「ああ・よしこちゃんか、どないしたん?」
やってきたのは、小野寺よしこでした。
透吾が女性と同席していることに、一瞬気色ばんだ顔をしましたが、落ち着いた声で言いました。
「こんにちは、小野寺よしこと申します。どうぞよろしく。」
「甚目寺奈美子です、なんだかおじゃましちゃったみたいだね。」
「いえ、仕事中に勝手に抜け出した、透吾さんが悪いんですから。」
「めずらしなぁ、よしこちゃんが、あわてて呼びにくるなんて。」
よしこは、透吾の耳に口を近づけて、なにがしか伝えています。
「クライアントがお待ちですよ。さあ、いらしてくださいな。」
よしこは、一緒に居た奈美子に軽く会釈すると、透吾の手を引いて店を出ました。
さりげなくレシートを抜くことを忘れません。
「へえ、やるもんだね。」
奈美子はよしこの細かい気遣いに、好感を持ちました。
あわただしく出ていく二人を見送って、奈美子は就職情報誌に目を戻しました。
「はあ、どこをとっても、帯に短しタスキにゃ長し…、どうしたもんかなあ?」
奈美子が腕を組むと、Dカップの胸が、ちょんとその上に乗りました。
「フーゾクって訳にもいかないしなあ、おミズは肌に合わないし、仕事ってむずかしいよなあ。」
さんざん眺めたあげく、最初に目に付いた会社に連絡してみることにしました。
給料がよければ仕事はきつそうだし、簡単な仕事は、当然給料が安い。
わかってはいても、いい仕事がほしいのは、どなたも一緒と言うことでしょう。
銀行のお仕事は、窓口勤務が一年とちょっとでしたから、日計が合わなかったときの地獄には、ほとほとうんざりしていました。
「直接お金をさわらない仕事がいいなあ。」
…というのが、事務系を探している理由でした。
とりあえず、連絡してみて、面接の日を確認しました。
翌日にはOKと言うことで、奈美子はほっとして、喫茶店を出たのでした。
仲見世をひやかして歩くうちに、まわりは少しずつ夕方となり、九月にしては涼しさも格別な黄昏となってきました。
「これで、無職渡世じゃなきゃ、いい夕方なんだろうけどさあ。追いつめられちまって、強迫観念しかないよね。」
奈美子は深くため息をつき、黄昏る町並みを見つめました。
「いやだ、透吾さんったら。」
ふと聞いたような名前に振り返ると、片腕にぶら下がるように女の子をひっつけた、透吾がやってくるところでした。
「んだ?安そうなオンナ連れてさ。」
当の透吾も、奈美子に気が付きました。
「おや、よく会うねえ、奈美子はん。」
「奈美子はんじゃねえよ。どうしたんだい?変なオンナ連れてさあ。」
透吾の隣の女性は、あきらかにむっとした顔をして、奈美子を見ました。
「ヘンなオンナはひどいなあ。この子は、モデルの美亞ちゃんやよ。けっこう、雑誌なんかにも出てはるんやけど、知らへん?」
「しらんわ、あまりファッション雑誌なんて、見ないしね。」
「ふうん、美亞ちゃん、こちらは甚目寺奈美子さんと言って、僕の友人や。」
「荘野美亞です、よろしく。」
あまり歓迎されていない口振りで、しぶしぶ挨拶をする美亞です。
(さっきの小野寺って子のほうが、ずっといいのにな。)と、奈美子は考えていました。
「これから食事に出かけるんやけど、奈美子はんもどう?」
「やめとくよ、お邪魔しちゃ荘野さんに悪いからね。」
「そうか?食事くらいええやんなあ?」
透吾は、美亞に向かって、そう言いますが、当の美亞は口をとがらせて、不満そうです。
「ま・楽しんできなよ。」
奈美子は素っ気なく言って、その場を離れました。
「透吾さん、行きましょうよお。」
鼻にかかったような、甘ったるい声が耳にざわりとからみついて、奈美子はぞっとしました。
「ちっ、なんであんな頭のわるそうなのと、つきあっているのかねえ?人格疑っちまうよ。ああ、さっさと帰ろう、胸悪くなりそうだ。」
奈美子は、胸を押さえながら、足を速めました。
昼間の、ハトに餌を与えている透吾と、今の透吾では、表情がまるで違うように思えました。
ハトを見つめる透吾の目は、柔らかく、さわやかな印象があったのです。
今の透吾には、そんなものが感じられませんでした。
「ちくしょう、どうかしちまってるよ。」
奈美子は、美亞の顔が、声が、頭からはなれず、悔しさが喉の奥からせり上がってくるような感覚に、閉口していました。
「甚目寺…さん?」
突然、耳に心地よい声が、聞こえてきました。
奈美子が顔を上げると、そこには小野寺よしこが立っていました。
地味なスーツに身を包み、アップにまとめた髪は、昼間に見た時とかわりません。
めがねの奥から、理知的な瞳が、奈美子をのぞき込んでいます。
「あ・ああ、小野寺さん。さっきはどうも。」
奈美子は、口の中でもごもごと、挨拶らしきことを口にしました。
「昼間はごめんなさいね、大急ぎの仕事があって、ろくに挨拶もできなくて。いま、お時間あります?」
「ああ、あたしは失業中だから、時間なんて掃いて捨てるほどあるよ。」
「は・掃いて捨てるほど?うふふふ、江戸っ子ねえ、奈美子さん。」
「おう、神田の生まれよ。鮨でも食うかい?」
よしこは、目を丸くしていましたが、こくりとうなずいて言いました。
「いいわね、この辺でいいお店があるのよ、行きましょ。」
奈美子の前に立って、さっさと歩き始めます。
「おいおい、あたしゃそんなに手持ちが…」
「いいわよ、お近づきのしるしに、あたしがおごるから。」
「いいのかい?」
「いいって、今度、就職が決まったら、おごってちょうだい。」
よしこの気遣いに、奈美子はうれしくなりました。
「まかしといてよ、どど~んと、おごっちゃうよ。」
よしこと並んで歩きながら、奈美子はにこにこと言いました。
「『あらまさ』じゃん、ここのしょっつるはおいしいよね。」
「あら、じゅんさいや、スカベもおいしいわよ。ちょっとお寿司は出ないけど。」
「まあね、いいじゃん、お座敷・開いてるかなあ。」
「たぶん、この時間ならOKのはずだけど、ちょっとお兄さん、お座敷あいてる?」
『はい、けっこうです。』
「だって、行こうよ。」
よしこは、さっさとヒールを脱ぐと、座敷に上がり込みました。
「あ、まってよ。」
奈美子は、あわてて後を追います。
衝立で仕切っただけの、小さなお座敷は、板敷きの落ち着いた雰囲気で、照明も落としてあるので、田舎風です。
やってきたビールで乾杯したあと、さっそく二人は四方山話に、花を咲かせました。
「いやあ、小野寺さんって、もっとカタい人かと思ってたけど、けっこう面白いひとだったんだねえ。」
「そこが悩みのタネなのよ。いまだに、学級委員みたいだって言われるの。まあ、教員免許だって、もっているけどねえ。」
「あはは、小野寺さんの教師なんて、イメージどんぴしゃじゃない。」
「ああもう、よしこでいいわよ。あたしも奈美子さんって呼ぶから。」
「じゃあよっちゃんだ。」
よしこは、げんなりした顔で言いました。
「おやつあげないわよ。」
「わはははははは、知ってるー!」
奈美子の大笑いに、店中の視線が集まりました。
「そう言えば、透吾って、どんな仕事してるんだい?やたらと羽振りがよさそうだったけどさあ。」
「透吾さん?建築設計よ。小さな事務所だけど、評判はいいわね。」
「よっちゃんは?」
「あたしはそこの事務員、女の子はあたしも含めて十人。」
「ふうん、それであんなに羽振りがいいかねえ?」
「よく知らないわ、サイドビジネスで、輸入関係の仕事をしているらしいけど。」
「ふうん、じゃあそっちの方が、景気がいいんだ。」
「そうでしょうね、あまり深く突っ込んで、聞いたことがないから。」
「そうなんだ、んでさあ、よっちゃんは、透吾とデートしたりなんかするの?」
「たまにね、あの通りの人だし、けっこう気に入っているのよ、そう言う関係。」
「ふうん、手近で手を出すような奴には、見えないけどなあ。」
「わかんない。ただ、あたしが初めてだって言ったら、驚かれちゃった。」
「わはは、それネタに、脅しちゃえ。」
「だめ!そんなことしたら、透吾さん、絶対にあたしのこと許してくれないわ。」
「そう言う奴なの?」
「もー、ぜったい逆らったりできないもの。こわいんだよー。」
「こわいの?」
「いついなくなっちゃうか、わからないもの。だから、気を遣っちゃう。」
「ふうん、よっちゃんって、つくすタイプ?」
「まあ、そうね。」
「そうなんだあ、すごいよなー。」
「人によるわよ。透吾さんには、なんでもしてあげたいわ。」
「うひゃー、でも、今日はモデルの女の子といっしょだったよ。」
「でしょ?彼女、しつこいのよ。一度、仕事場にまで電話してきて、透吾さんにどなられてたわ。よくあれで、捨てられなかったと、感心してたの。」
「んな、簡単に捨てるの?」
「仕事場にプライベート持ち込むの、キライだから…」
「ふうん、厳しいんだ…」
「まだ居るわよ、この前、Fポンの原宗右衛門が、キャンギャル紹介してたから。」
「え・えふぽんってなに?」
「え?知らない?フォーミュラニッポンっていう、四輪のレースよ。三〇〇〇㏄の専用エンジンを積んだ、フォーミュラーカーレースよ。」
「そうなんだ、ハデな世界だねえ。」
「も・ハデハデ。そりゃあ、黙々とテストをこなす、なんて言う地味―な仕事も多いんだけど、世間に見えるのは派手な部分だけですものね。」
「そうだねえ、あ・●ッチとかも出てるやつ?(古いよ!)」
「そうそう、透吾さんは、けっこう変な知り合いが多いのよ。」
「ふうん。よくわからないや。」
奈美子は、よしこのことが、とても気に入っている自分に気が付きました。
はきはきとした受け答えや、自分を持っている姿勢が、とても共感できます。
「よっちゃんは、どこに住んでいるの?」
「あたし?あたしは板橋の建て売り。通勤がきついのよ。」
「ぎゅうぎゅう?」
「そうそう、お尻なんかいっつもさわられるし、たまったものじゃないわよ。あ・おたがいさまかぁ。」
「そうだね、そんなやつ、ヒールで踏んでやるけどさ。」
「あたしのピンヒールは痛いわよお。」
「うん、イタそうだった八センチ?」
「うん、透吾さんが好きなんだ。」
「あれで踏まれるのが?」
「そんなヘンタイさんじゃないわよ。」
「あはは、でも、よっちゃんの胸、おおきいねえ、Gカップ?」
「育ちすぎてこまっちゃった、下着のかわいいのがないのよねえ。しかも、カップで選ぶとアンダーがむっちゃ太いのよ。」
「そうだろなあ、下着ドロなんかにとられない?」
「たまにね、あまり外には干さないけど。」
「ハラ立つよなあ。せっかくいいの見つけたのに、盗まれたりするとさあ。」
「そ・サイズないから、輸入物が多いしねえ、高いのよお。」
小料理屋に美女二人で呑んでいると、ぞろぞろとナンパ男が寄ってきて、じゃまでしょうがありません。
「ああ・じゃますんなよ、酒おごりたいなら、そこに置いてかえンな。」
奈美子は、ぽんぽんとタンカを切って、蹴散らしています。
「奈美子さん、あしらうわねえ。」
「あ?だってさ、たいがいあたしのお尻が大きいからって、寄ってくるんだもん。いいかげん、アタマにくるよ。」
「まあ、確かにおぉきいわよねえ。何センチ?」
「ええ?九十三…かな?」
「うそお、九十八でしょ、かーなーりイッてると見たわ。」
「ちょ、ちょっとぉ、そりゃないわよ。最近やせてきたんだから。」
「ええ?いいわねえ。」
「よかあないよ、フトるときはおなかからフトってさあ、ヤセるときはおっぱいからやせるんだもん。」
「あ・それ、言えてるわよねえ。」
「そう言えばさ、あんた、透吾のどこが好きなの?」
「なによ、唐突ねえ。」
「いや、なんとなくさ。」
「そうねえ、哀しいところかな…」
「なにそれ?」
「あの人、いつも色々な人と遊んでいるけど、少しも満たされていないのよ。」
「ぜいたくなの?」
「ちがうわ。どちらかと言えば、質素なのが好きよ。そうじゃなくて、きっとぽっかりと穴が開いているのよ。だーれも埋めることができないようなね。」
言って、自分でも気障だと思ったよしこは、くいっと杯をあけました。
「ふうん」
「なんだか、そこが見捨てられないって言うか…あたしが居るからねって、言ってあげたいの。」
「そんなもんかなあ。」
「まあ、つきあって見ればわかるわよ。」
「そんなに接点があるとも思えないけど。」
「たぶん、あなたも惹かれてしまうわ。」
「じょ・冗談、あたしはああいうのはちょっと遠慮したいよ。めんどくさそうだもの。」
「あはは、そうかしら?」
二人は、しこたま呑んで、食べて、分かれました。
翌日、奈美子は電話をしておいた会社に、面接に向かいました。
「ウチは新聞の折り込みチラシなんかをデザインする会社で、細々ながら三〇人やしなっています。」
会社の説明は、社長自らがしていますが、どうも胡散臭さがぬけず、社長のアブラ顔もちょっと遠慮したい感じでした。
「あなたのような即戦力になりそうな人は、大歓迎ですよ。」
「はあ、そうですか?」
いきなり握られた手を、振りほどくのも大人げないように思えて、躊躇しているまに、社長の手はお尻にまで伸びてきました。
「ひっ」
ぞわぞわと、背中をはい上がる悪寒に、思い切り拳を突き出していました。
「なにしやがんでぇ!べらぼうめ!」
ごきい!
にぶい音がして、社長はもんどりうって、しりもちをつきました。
「な・なにをする!」
「ナニをしたのはそっちだろ。セクハラするなら、相手見てするんだな。今日の所はカシといてやらぁ、二度とナメたマネすんじゃねぇぞ!」
ばあんと大きな音を立てて、ドアを閉めると、一目散に走り出しました。
もちろん、履歴書をひったくって、取り戻すことは忘れませんでした。
「うひゃあ、ひどいシャチョーだねえ。社員もたまったもんじゃないだろなあ。」
駆け足は、徐々にスピードを落とし、ふつうの早さになる頃には、ため息が出ていました。
「はあ、やっちまった。いくら中小企業とは言え、ウチの銀行には、あんなの居なかったもんなあ。」
人の良さそうな、窓口の係長の顔が浮かびました。
(あんなお人好しばっかりそろっているから、ヤクザなんかにだまされるんだ。)
奈美子は、自分の星の巡りが、つくづく悪いことに難儀していました。
喫茶店に入ることももったいなくて、自販機の前でコーヒーを買って、口をつけたところに、携帯電話のコールが鳴りました。
「はい、甚目寺…あれ?よっちゃん。」
電話はよしこからでした。
『奈美子さん、ウチの上の階で社員募集しているわよ。ちょっとのぞいてみない?』
「へえ、そりゃありがたいな、どんな会社だい?」
『ええっと、お皿なんかを輸入しているみたい。』
「ふうん、場所どこ?」
『言問橋の西、浅草寺病院から北に三本目の角を、右に入ったところよ。』
「あ・わかるわかる。じゃあ、行ってみるよ。ありがとね。」
でも飲んでいかない?」
「いいね、行こうか。」
奈美子は、スニーカーのひもをなおしてから、よしこの隣に立って、歩き始めました。
表通りの喫茶店は、意外と混んでいて、入り口奥の一席しか空いていませんでした。
二人はそこに陣取って、さっそくコーヒーを挟んで話し始めました。
「おもしろいよね、だんだんと事務所の形が整っていくんだもん。あたし、最初からできあがっている事務所しか知らないから、新鮮だわ。」
「ふうん、まあ、普通はそうよね。あたしたちみたいな、建築設計してると、そういうの慣れちゃってるものね。」
「あ・そうだね。新築なんか多いの?」
「う~ん、都心じゃ改築の方が多いわね。ビルの新築なんて、何十億ってお仕事でしょ?ウチなんかとても依頼がないわよ。」
「じゃあ、普段はどんな仕事してるの?」
「そうね、マンションのリフォームとか、店舗の改装とか。小口注文をたくさん集めて、なんとか糊口をしのいでいるのよ。」
「ふうん、片岡のダンナは、それを設計してるってわけだ。」
「そう。あの人、小技がうまいから、けっこう名指しで注文が来るのよ。特に、クラブのママとか。」
「…らしいっちゃあらしいねえ。」
「でしょ?そのかわり、面倒見もいいから、最後の細かいところまで、しっかり管理してくるわよ。」
「ふうん。」
「で・どう?あの会社、やってみる気になった?」
「ああ。でも、いつになっても社長がやってこないんだけどさあ、どうなっているんだろうねえ?」
よしこは、少し困った顔で奈美子を見ました。
「事務所が完成したら、顔を出すわよ。改装の契約は、全部ウチが肩代わりしてるんだけどね。」
「へえ、業者の手配までしてるんだ。」
「そ・そう言うのは、小回りの利く、中小企業でなくちゃね。」
「あ・もしかして、そう言うきりもりは、よっちゃんの仕事?」
「あたり、業者の差配とか、材料の選定とか、けっこうおもしろいわよ。」
「ふうん、すごいねえ。」
「あら、だいたいは透吾さんが、設計書に書き込んであるから、それを見て注文するだけだもの、簡単な仕事よ。」
「でも、出来上がりが形になって見えるから、やりがいがあるよね。」
「まあ、それはそうね。」
「アイスコーヒーってさあ…」
「?」
奈美子は唐突に話を変えました。
「なんか、夏が過ぎると、さみしいよねえ。台所の隅なんかに、ぽつんとアイスコーヒーのボトルが置いてあるの。
あれって、忘れ去られたみたいでさ、もうだれも振り返らないのに、でもそこに居るのよ。」
よしこは、奈美子の心情を読み取れずに、あいまいな表情で、奈美子の手を見つめました。
ぴるるるるる
そのとき、よしこの携帯が鳴りました。
「あら、噂をすれば…透吾さんだわ。」
よしこが携帯のボタンを押すと、透吾のよく透る声が聞こえてきました。
「よしこちゃん、下総サジのいいのが手に入ったんやけど、食べへん?」
「下総サジ?うわあ、食べたい。今どこ?」
「うな平。」
「あ・何匹いるの?」
「へ?二十匹以上おるな。ゆうべ、魚勝さんと釣りにいったんやけど、大漁でなあ。」
「まあ、奈美子さんも呼んでいい?」
「ええよ、どうせ食べきれる量やないもんな。連絡できる?」
「ここにいるよ。下総サジだって?イキなもん知ってるじゃない。」
「なに言ってはるのん?うまいモノに国境はあらへんのんえ。」
「あはは、そらそうだ。で?どこだい?」
「うな平やよ。」
「そりゃあ、ウチの近所じゃないか。」
「ああ、そうやね。ほな、待ってるから。」
そう言って、電話は切れました。
「えへへー、天然物のウナギなんて、久しぶりだあ。よっちゃんって、いっつも食べてるの?」
「ううん、たまにね。透吾さんが、こうして釣りに行ったときくらいよ。」
「それでも、天然物の下総サジじゃない。うらやましい~」
「まあまあ、それじゃあいきましょ。」
「おっと、そうだった。ウナギは待ってるうちも、ご馳走のウチってね。ハシリ酒に間に合わせなきゃね。」
「はいはい。」
奈美子はママチャリを引きながら、よしこと並んで家路につきました。
二人が、『うな平』に近づくにつれ、ぷうんと香ばしい香りがただよってきました。
まるで、『おいでおいで』しているような、その香りは、客をつかんで店に引きずり込むような気がします。
「あああー、このにおいに引きずり込まれるんだよお~。」
奈美子は、ハナをひくひくさせながら、うな平の扉に手をかけました。
「まあ、奈美子さんって、そんなにウナギが好きなの?」
「これの嫌いな江戸っ子が居るんなら、見てみたいよ。」
「そうなの?」
「天ぷら・にぎり・ウナギなんてものは、江戸前の職人芸の世界なんだ。一般家庭であの味は、出せやしないよ。」
「ふうん、そうなの。」
よしこには、そんな奈美子の、江戸っ子のこだわりが、ほほえましくもありました。
表現が古くさいですね。
ずいぶん前の作品です。
今風には、なりませんわ~(笑)