盟約の竜 8
明け方の空は、不思議なほどに静かで穏やかだった。今日も雲一つなく晴れる、そんな予感をケレスに与えた。
だが同時に、これほど空と大地の、空気の違う朝は無いだろうとも思う。
一夜を明かしてもケレスの頭の中は混沌だった。心と体の奥底に、幾重に包んで封をし、闇の内に隠しこんで、見ていなかったものが暴かれ、朝日の下にまざまざと晒されているような錯覚をした。
錯覚では無かったな。
ケレスはそうごちて、扉を開けた。
黎明の頃の世界は、十分に明るく開けているくせに空だけが暗い。暴かれたものを陽の下に晒すまでに猶予がある、そんな風に感じた。
ケレスは、巌の国に不似合いな小さな森へと足を向けた。
木々の集まりの中に、その空間は閉ざされ、守られている。カノが飛ぶ練習をしている時に何度も付近を通った場所であったが、全く気付いていなかった。案内役が歩みを止め、先へ行くよう促した。カノは一つ呼吸をして、木々の隙間にゆっくりと分け入った。
ちょうど、陽が高くなった頃合いである。しかし枝葉の天蓋に守られ、その空間は光に焦がされることもなく、しかし闇に塗れることもなかった。
カノは驚きに声を漏らす。地面から、淡くかそけき光が現れているのだった。透き通った水の色、夕べ見た石と同じであった。
その声に、奥にいた人物が振り返った。カノの姿を認めて目を見開き、一拍置いてから声を発した。
「なぜ……ここにいる」
「あ……」
ケレスと目が合い、カノは怯んだ。しかしケレスの姿はカノが恐れていたものとはかけ離れていた。昨日の、闇さえも抉り込むような激しい感情の奔騰も、憎しみとも悲しみともつかない暗然とした表情も、そこには無かった。
そこにいたケレスは、闖入した来訪者に驚く、ただただ普通の青年だった。そのことに、カノは更に言葉を無くした。カノの沈黙に、ケレスは息を吐く。
「……まあ、あいつが連れて来たんだな」
目を伏せて、小さく言った。
カノは脳裏に、案内してくれた緑の竜を思い出す。カノが物音で目を覚ました時、すぐ外にノアがいた。外からノアが壁を引っ掻いて自分を起こしたのだ、と気づき、その背に乗ったのだった。そうして、森へとたどり着いた。でも、ノアが何に導きたかったのか、まだカノには見えなかった。
カノの思いを見透かすかのように言う。
「ノアが導いたというのなら、隠すことは何もない」
だから、そんな風に縮こまっているな。無愛想な声はそう言った。
金縛りが解けたように、カノはゆっくりと動きだし、ケレスの隣に――そのささやかな墓石の前に歩み寄った。
墓石は、昨晩ケレスがカノに突き付けた石と、そしてこの地面の淡い光の色と、同じ青をしていた。それなりの大きさをしていたが、墓標は無く、石の形も整えられていなかった。だが傍らに剣が刺さり、花が供えられていた。この土地にも花が咲いているのか。カノが頭の片隅でそんなことを考えていると、ケレスが呟いた。
「これは父の墓だ」
ケレスが、荒い手触りを確かめるかのように石の表面を撫ぜた。穏やかな声だった。どんな顔で言っているのか気になって、カノはその横顔を一瞥する。石の色にも似たケレスの青い目は、墓を見つめ、同時に遠くを見ていた。懐かしく慈しむような、しかしどこか痛みの混ざった、そんな表情をしていた。
「父は調教師だった。俺はすべての技術を親父に教わったんだ。親父は軍事目的の調教を避けるためにこんな辺境を選んで、俺に教えながら、細々商売をしていた」
ケレスは一瞬間を開けてから、硬質な声で続けた。
「知っているか。調教の技術で最も肝要なのは、竜を殺す技術だ」
カノは目を丸くした。ケレスはカノの言葉を待たなかった。
「調教は人と竜をつなぎ共に生きるための技術だ。だが一面では、支配でもある。だから調教師は、竜が殺せなくてはいけない」皮肉に口元を歪ませて、一言付け足す間だけカノを見た。「……だそうだ」
すぐに視線が戻り、石の傍らの剣に目をやる。
「……いつだったか、一度だけ父が竜を品評に出して、褒賞にこれを手に入れてきた。竜を殺すための名剣にして、いわくつきの剣らしい」
「いわくつき?」
カノの不安げな反芻に乗せてケレスは呟く。
「白い竜を殺すために作られた剣だと聞いた」
「!」
カノがさっと顔を歪めた。驚き疑いながら、警戒し、窺うような表情を浮かべる。
「あの竜を、殺すものがこの世にあるというの、どうして」
動揺が、霞めた声を作る。
だがケレスは不意に話を変えた。
「……以前、ひとつ嘘をついていた。ノアのあの皮膚だ。あれは、剣で切られてから爛れたんじゃない」
「ケレスさん、なにを」
言おうとしてるの。カノがそう言おうとするのを、ケレスは聞かない。いつの間にか語気がわずかに荒かった。息の出来ない苦しみに喘ぐような、血気迫った情動を感じさせた。
「ノアはある日突然、前触れもなく皮膚が爛れて暴れ出し、親父を襲った。俺はあの時この剣で、」
あの時。剣を握る手の痛いような感覚と、悲しみも怒りも感じる間さえ無い混乱の中で。
縛り付けていた記憶は、とめどない奔流となった。記憶の情景に支配され、世界のすべてがどこか遠く感じるほど、鮮やかに思い出せる。
なのに言葉にはできない。
その空白にカノのすがるような声が絡みついた。
「ケレスさん! お願い、そんな風につらいことを、もう……」
小さく哀れな声と、頭を伏せながらもケレスの腕を掴む手が、ケレスの意識を此岸に引き戻す。
ケレスは、記憶の波が引き、あっという間に凪いだ。
そこにようやく、ぽとりと言葉が落ちる。
「殺せなかった。剣が鱗を裂いた時、目覚めたようにあいつが、鎮まった」
ケレスは、顔を上げたカノと目を合わせた。
「俺にはわからない何事かが、竜を追い詰めている。おまえなら、それが何なのかわかるのか」
そう言ったケレスは、カノが見たことの無い表情をしていた。
無力さに膝を折り、静けさの中で祈りながらも、その奥底に炎を燃やしている。
敬虔な信者と、神を毒牙にかけようとする悪魔の、両面がケレスの瞳には宿っていた。
カノは、その表情に審判を迫られるような感覚を覚えた。