盟約の竜 7
絶叫を聞くのが心地よいわけがない。耳を劈き背を震わせる声に、ケレスも苦汁を味わった。カノの声に宿った苦しみだけが鮮やかで、暗がりにさえ浮かぶように絶望は凝って顕現する。続いた『寝言』は硬質で意思がなく、誰かの手で彼女の口を動かしているだけだった。やめろと言いかけて、ケレスは堪えた。言わせたのは自分なのだ、気圧されている場合ではない。
ケレスが言うべき言葉を音にする勇気をかき集めている間に、カノは嗚咽と激昂を混ぜて喋る。半ば叫びだった。
「どうしてこんなことするんですか!? 私をどうしたいの!」
カノは平静に座っていられず、つかみかかるような勢いでケレスに対峙する。しかし触れることにも惑い、混乱した感情のやり場をなくした。座り込んで泣き声をあげ、床を叩く。
ケレスは、尻込みしそうな己を必死に叱咤する。
「っ……カノ!」
ケレスは懐を探り、手にしたものをカノの面前に突き出した。わずかな明かりに煌めいて、水の色に透き通った石のような物質がカノの瞳に映る。涙に濡れた顔をあげ、吸い込まれるように見つめた。波が引いていくように慟哭の気配がおちてゆく。息を吐き、全身を弛緩させた。ふらりと体勢を崩しかけ、我に返ったように床に座りなおす。
「それ……は」
ケレスも張りつめた息を吐いた。
「ノアが俺の前で暴れない理由だ、あの森から出てくる」
荒く最低限の精製だけをしただけの、単調な形の小さな鉱石を突き出したままで語る。息継ぎをした。
「……竜に、効くんだ」
そしてケレスも脱力する。カノの手に石を握らせて、顔を伏せた。
弱々しい声で言葉をつなぐ。
「おまえは人間だろう、違うのか……?」
悲痛な声色に、カノは一瞬息を詰まらせた。ゆっくりとケレスの痛みを取り込んで、呟く。
「あなただってそう思ったから石を出した、くせに」
カノは両手で石を包み込み、胸に掲げる。
「私も一族の存在なんだって教えたのもケレスさんです。この石もそうだし、ノアに会ってもわかった」
「違う、俺が言いたいのは」
「ノアがどうして悲しんでいるのかもわかったの」
ケレスがぴたりと言葉を止めて顔を上げた。カノと目が合う。暁の色の瞳だった。ケレスは、カノの瞳の色を初めて知ったと思った。カノの瞳は既に凪いでいて、激情に踊らされていなければ、妄言に飲み込まれてもいなかった。視線は真っ直ぐで、ケレスの心をざわりと震わせる。
「ノアが悲しんでいるのは、あなたに対してだわ。あなたがもう竜と共に生きるつもりじゃないから。いつかノアを看取って、あなたは竜から離れる。そう思っていることを、ノアはわかっているの。……そうなんですね」
あなたの顔を見れば私でもわかります。そう付け加えた。
カノの言葉は、ケレスの心の芯を正確に衝いた。言うべきたくさんの言葉がケレスの頭から吹き飛んで、一言だけ残ったものが掠れた声となって零れる。
「ノアが、そう思っているのか。本当なのか」
「本当、です」
「あいつが……ずっと知っていて、ずっと悲しんでいながら、俺は知らなかったと」
ケレスの見開いた瞳は、苦しみを隠さない。青い色の目だ。色はとっくに知っていた、でもこんなに無防備に、悲しみと怒りに揺れているのは初めて知った。
その目を見て、心に炎が宿るようにじわりと熱さが広がる。苦しみの奥の柔らかな心にも届くその方法を求めながら、言う。
「いいえ……! ケレスさん、きっと違うわ。私が、レインの気持ちがわからなかったのと同じです。レインは、私が盟約のための存在だから、心をひた隠しにしていた、だから。ノアはきっとあなたには、隠していたの。あなたが大事だから!」
ケレスは、心身に込み上げる衝動に耐えかねたように立ち上がった。壁を叩いて声を荒げる。
「だがあいつは。かつて俺が殺しかけ、致命傷を負いながら殺せず、そして今も俺に、ただ死ぬ時を待たれているんだぞ! 悲しみなど、何故俺に対して感じている!」
「あなたたちに何があったとしてもそうなの! ねえケレスさん、待って、落ち着いてください」
「竜の為に死んでいく、おまえに何がわかる!」
カノがケレスの衝動に一瞬ひるんだ間に、ケレスは吐き捨て、耐えかねたように部屋の奥へ消えた。カノは立ちあがるが、その場で足は竦んだ。
胸に握り込んだ石の感覚が鮮烈に心を揺らす。ケレスの声が受け止めきれなくて、どうしたよいかわからず、自然に表情が歪んで目頭が熱くなりかける。何かが落ちる前に、カノは目をこすった。
薄い明かりのみで保たれた空間は、音も動きも絶えてしまえば、激情さえすぐに夜陰に溶かしてしまおうとする。カノは不安げに立ち尽くしたまま、ふとなにかが迫ってくることへの恐れを抱いた。この闇の中にある、形のない何か。
それはたぶん孤独や無力を痛感させ、心を凝らせるものだと思った。
こんな闇の中で、あのひとは過ごし続けて。ただひとりの、人とは異なる存在を見送ることだけを目的に、こんなに悲しく恐ろしい場所で、たったひとりで。
暗がりの中に、ケレスが抱えていたものがあった。
ひとりでは、とてもわたしはこんなところでは――。
カノは今度こそ顔をくしゃくしゃに歪ませて、後から後から零れ落ちるものを拭うことも出来ず、ただ顔を覆うと嗚咽を漏らして頽れた。