盟約の竜 6
日が暮れる前に戻ろう。
ケレスがそう言って動こうとすると、ノアが少しすり寄った。ケレスは惑いに打たれた衝撃を抱えながらも、そっと応じる。
痛ましい赤い斑点に侵されたくすんだ緑の鱗は、それでもカノの目に美しく映った。暴れ竜がこんなにもおとなしく美しいなんて、ケレスが特別に気をかけているのだろうと思う。この竜が暴れるなどと信じがたかった。
ケレスがノアを労る手を放すと間もなく、ノアは重い音を響かせて飛んだ。強靭な風圧を受ける。まだ未熟なレインにはない、育ち切った竜の力強さをカノは感じた。その隣でレインが声を上げる。
「レイン?」
カノが問うよりも前に小さな黒竜は浮かび上がっていた。緑の竜を追って宵闇の迫る空に飛び立つ。
「あ、レイン!」
「平気だ。竜に夜は問題ないし」
「でも! こんなのはじめて、どうしてこんな……」
動じるカノに取り合わず、ケレスは歩み始めていた。振り返りもせずに言葉だけを付け足す。
「レインの心はわからないのか。ノアのがわかっても」
言葉が突き刺さって心が揺れた。その軋みをごまかすように小走りで追いついて、でも上手い返事が見つからなかった。
「……ノアの気持ちは、まるで流れ込んでくるみたいに伝わって、でもそれがどうしてだったのか……」
「いい。とにかく帰ってからだ。夜になったら、竜は困らなくても俺たちは困る」
ケレスは歩みを早めるばかりだった。
さっきは一瞬、この厳しい人の瞳が揺らいだのを見たような気がしたのに、あっという間にいつも通りの姿に戻ってしまった。彼が揺らいでいたのではなく、自分があの飾りを見た動揺から抜け出していなかったか、ノアの心に触れて戸惑っていたかのどちらかでしかなかったのだろうか。ケレスの後を追いながら、カノはそんな風に感じる。
ケレスに聞こえないようにため息をつくカノの耳に、声が届いた。
「無為なことに煩わされるような余裕はないんだ」
すぐにでも宵闇を振り切って、するべきことをしたい、そんな焦燥をにじませていた。
カノは一瞬目を丸くし、今しがた自分の感じたことを打ち消した。
先ほど追いついたはずの背中はまたカノの前を歩んでいる。一体どんな表情をしているのだろうか、覗き込んではきっと不快な顔をするだろうからしないけれど、無性に気になった。
滅多に雲が出ることもないから、月の姿だけはいつも鮮明だった。されど山と谷の深さに光はすぐに飲み込まれてしまう。日没の後は、ランプの明かりだけが拠り所だった。明かりが中央に置かれたテーブルにカノは座る。ケレスは食糧やら何やらを片付けていた。
「ねえ、ケレスさん。先にひとつ訊いて良いですか?」
ケレスは振り返ると、口を開かずに視線で促した。
「私がいるから、もしかしてケレスさんは仕事が出来てないんですか?」
「は?」
ケレスが反射的に訊き返す。
「ノア以外の竜が本当にいないから。私が手間をとらせているのかと思って……」
カノは俯いて語尾を濁らせ、静寂がケレスに答えを求めた。ため息交じりに答える前、少し言いよどむ。
「違う。……もともと仕事はこの半年ほど、やってない」
今度はカノが訊き返した。
「え?」
「おまえのことは、目の前に落ちてきたからやっただけだ。最近はずっとノアの世話くらいしかしてなかった」
どうして、とカノが問う前にケレスが「これで満足か?」と言葉を封じた。「訊くべきことがあるのは俺の方なのだからな」ケレスはそう言いながら荷を片付け終えて、テーブルまで戻る。テーブルを挟んだ正面に立ち、座らなかった。
「でもノアのことはよくわからなくて……」
「聞きたいのはノアのことより、白い竜の方だ」
白い竜、とカノは反芻した。問われる内容が予想外で、そのまま返すことしか出来なかった。ケレスは、険しい顔をしていた。
「調教師の間で、白い竜は有名だ。――人と交わらない孤高の存在、そして人食いの竜としてな」
ケレスの言葉に、カノは反射的に声を荒げた。
「人食い? そんな、違います!」
「そうか、じゃあなんなんだ」
ケレスは皮肉な笑みを浮かべた。
「白い鱗には驚いたよ。おまえは白い竜について知っている。それを訊きたい」
カノは青ざめた。頭の中で、何かが走って暴れている。焦点がずれ、ケレスの姿がゆがんだ。
焦りを露わにしながら訊き返す。
「どうして。訊いてどうするんですか……どうして知りたいの」
「考えがあるからだ。白竜は人食いの竜だとして。前提が違うなら、正してもらおう」
おまえが言わないのならば、俺が引き出そうか。
言いよどむカノに、ケレスは続けた。言葉に意識を引き戻されて、途端に焦点が合う。出会った頃に見た、心をつかみ取ろうとするような、あの表情をしていた。あの時続いた言葉と嫌な予感と、恐怖が蘇った。
頭の中に響きはじめる。おまえは何者だ、なんのために。
打ち消せない。
「……っ!」
カノは支配されるのが嫌で、抗おうとして、すがるようにケレスを見る。ケレスはいつのまにかカノの隣に回り込んできていた。いすに座って頭を抱えるカノと同じ高さに屈んで、その動作さえあの寝言を引き出した時と同じで、記憶が混ざる。
視線があった瞬間の、あの時の嫌な予感が体を硬直させる。かろうじで目だけ動かして、ケレスの姿を捉えると。
そこに白い鱗の髪飾りがあった。
囚われた、今度こそ。
「――あ、あああっ!」
カノが絶叫する。
「おまえは生贄だ。人食いの竜にささげられる。違うのか? おまえは何者だ、何のために竜に乗る――さあ、言え!」
寝言を。
ケレスの声がもはや聞こえていなかった。蘇った言葉だけが反射的に口を衝く。
なじんだ絶望と、その言葉。
わたしは盟約のために竜に乗ります。わたしは盟約のために、竜を守るために、命を懸けます。
わたしの命は盟約のため。