盟約の竜 4
カノは夜明けとともに起きた。カノの竜も起きていた。
「レイン」
カノは、慈しむべき己の竜の名を呼ぶ。まだ柔らかさが残っているとケレスが言った黒い鱗の傷は、もうほとんど癒えていた。カノがあちこちに作った些細な傷も、体の痛みも消えている。
竜と己が血でつながるなんて、一族と同じ実感はとても持てないけれど。
それでも、僅かでも竜と通う部分があるように思えて、何となく嬉しかった。
「私……頑張ってあなたと共に飛べるようになりたい。でも……」
黒い鱗が、東の明かりを得て輝く。カノはそれを見るつもりで、しかし目を伏せた。
「怖くもあるの。飛べるようになっても、私のやることは変わらないのに。ううん……もし変わってしまったらと思うのが、いちばん怖いんだわ」
竜の心はわからない。でも、レインが自分の言葉に心を傾け、寄り添っているような気がした。カノは力なく笑って言う。「ごめんね」
心の澱を払うように呼吸を一つ整えて、鞍を取り付けはじめた。
「ケレスさん、今日は食料とかを買いに近くの町まで降りるんだって。もし竜に乗って行くんだったら、ケレスさんの竜を見つけられるね。帰ってきたところを、近づいちゃえば良いわよね」
幼い黒竜の瞳が、カノを映していた。
日が高くなってから町に降りようとしては、道中で干からびてしまう。ケレスは久々に陽が出きらない頃に起きて、それでもカノがいなかったので僅かに驚いた。
「……そんなに探したいのか、あいつは」
聞く人がいない部屋の中、隠すこともなく大きなため息をついた。
「そう期待するようなものではないのにな」
カノはみるみる飛ぶことを覚えていく。目下のところ、理由は専らケレスの竜を見ることらしかった。そして、たぶん彼女はそれを叶えるだろう。
ケレスは竜を隠しているわけではなかった。しかし、カノに竜のことを話して以来、誤魔化してしまえば良かったのだという思いが去来して、心が重くなるばかりだった。もう、そんな堂々巡りにもうんざりした頃だ。どうせ見つかるまでそれは続くのだろうと思って、心を決める。
ケレスはカバンの中身を検め、小さな笛が入っていることを確認して外へ出た。
ケレスが戻ってきたとき、案の定カノが竜を駆ってきた。
「やっぱり来たか」
ケレスは騎乗用の道具から竜を解放してやりながら一人ごちる。カノは興奮したように緑の竜に近づいた。
「その子が……」
一定の距離まで近づいて、はっと息を呑む。ケレスは思わず息を吐いた。何ということもないという声色になるように願いながら言う。
「傷。わかるだろう?」
カノは応えない。眉を下げてただ竜を見つめていた。やがておずおずと口を開く。
「……あの。この子の名前は何と言うの?」
ケレスはその瞬間、自分でも気づいていなかった全身のこわばりが無くなったことを自覚した。――何に怯えていたのだ。そんな問いが湧き上がるが、すぐに捨てた。
「ああ……ノア、だ」
カノは、小さくその名を反芻した。
「私とレインを……助けてくれてありがとう、ノア」
カノはノアに近寄って、労わるように触れた。ノアはそれを享受する。その姿に思わず、言うつもりのなかった言葉が口を衝いて出る。
「その傷は刃でつけられたものだ。急所に一太刀、あと少しでも深ければ死んでいた。今も生きているのは奇跡だ」
「皮膚は?」
「……傷を受けたときに熱が出て、そんな痕が残った」
ノアには、喉の下の辺りに厚い鱗を切り裂かれた痕があった。傷はふさがっても、鱗は不自然につながりを絶たれたままだ。全身あちこちに残る、緑の鱗の美しさを蹂躙する赤黒い爛れも痛ましかった。
「それ以来……ノアは稀に暴れるようになったんだ、だから売れない」
「え?」
カノが顔をあげる。
「ノアに限った話じゃない、竜の狂暴化していると言われてる。知っているか? 戦争の終結以来、竜は狂い、人を襲うようになった。だから共存が出来ない――だそうだ」
言葉は、堰を切ったようにあふれた。もはや止める気も無かった。呪いのようにケレスの頭の中に張り付いていた言葉が、音の形を得て流れる。ため込んでいた言葉への怒りと虚しさで、顔がゆがむ。しかしどこかおかしくもあった。口元だけが虚勢を張って弧を描く。
「そんな風に言われる時代なんだ。俺もおまえも、生きるすべが無いんだよ」
カノは、ただただ悲しく眉を寄せていた。悲しみの対象は言葉の事実か、ひょっとして自分の滑稽さかもしれないとケレスは心のどこかで思った。